交際ゼロ日からの、契約結婚

 カァーカァーと、夕焼け空にカラスの鳴き声が響く。

 久方ぶりに足を運んだ思い出深い神社は、記憶の中より遥かにうらびれていた。

 真澄は目についた石垣に腰かけ、辺りを見渡す。手入れのされていない木々と、枯葉が積もった砂利引き庭。

 人の手が加えられていないここは、真澄を歓迎することも、拒絶することもなく、ただ静かに受け入れてくれている。

「……結局、ここに来てしまったか」

 真澄は、細く長い息を吐きながら顔を覆う。すぐに胸の辺りからカサッと音が鳴った。

 提出できないままずっと持ち続けている離婚届が、まるで真澄に「本当にこれでいいのか?」と問いかけているようだ。

 あの日──菜穂子が離婚を受け入れてくれた後、真澄は菜穂子を激しく抱いた。あまりに激しすぎて、壊れてしまわないかと不安だったが、菜穂子は自分を受け入れてくれた。

 嬉しかった。同時に怖かった。もしかしたら抱いた直後、また9歳の自分に戻ってしまうかもしれなくて。

 自分の遺体を見せるわけにもいかず、疲れ切って眠る菜穂子を残してマンションを飛び出してしまったが、結果としてそれは杞憂に終わった。

 夜明け前の街を歩きながら朝日を感じ、真澄は得も言われぬ虚無感に襲われた。

 離婚を受け入れてくれた菜穂子は、自分の手から離れてしまった。もう幸せだった日々に戻ることはできない。

 それでもやらなければいけないことはある。柊木真澄が進んできたレールは、既に多くの人を巻き込んでしまっている。

 そうわかっていても、真澄はあてどなく彷徨い、最終的にここに戻ってきた。

 この神社は、一度目の人生で5歳の菜穂子と将来を誓い合った場所だ。

 子供のままごとだと笑われそうな約束だったが、真澄はその光景を鮮明に覚えている。真夏の夕焼けの空の色も、セミの鳴き声もなにもかも。

 けれど、一つだけ思い出せないことがある。どんなふうに約束を交わしたかだ。それを思い出せば、何かが変わるような気がして、真澄はこの神社に足を運んだ。

「……思い出せるわけないか」

 石畳の階段を上がっている間に、なんとなく気づいていた。

 それでも境内まで進んだのは、半分意地で、残りの半分は祈りだった。

 だが祈りは砕かれた。真澄は失った記憶の欠片を取り戻すことはできなかった。

「まぁ……いいさ」

 求めた記憶は失ったままだが、菜穂子は死なずに済んだ。純玲は社会的に葬ったし、一生生活に困らない金も近々菜穂子の元に届くだろう。

 それだけで菜穂子が幸せに暮らせる保証はないが、少なくともこれまでの人生の中で最もマシな生涯を過ごせるはずだ。だから──

「これで、いいんだ……」

 そう独り言ちて真澄が自分に言い聞かせた瞬間、他の誰とも聞き違えようのない愛しい声が、しんとした境内に響いた。

「いいわけない!!」

 トレンチコート姿の声の主は、長い石畳の階段を一気に駆け上がってきたのだろうか、はぁはぁと肩で息をしている。肩にかけてある大きなカバンが今にもずり落ちそうだ。

「……そんなはず、ない」

 震えた声で呟く真澄は、中途半端に石垣に腰を浮かせたまま動けない。

 この神社は、真澄だけの特別な空間だ。彼女が来るわけがない。だってこの人生では、一度もこの地で同じ時間を過ごしていないのだから。

 でも怖い顔で大股に近づいて来るのは、真澄が心から愛している菜穂子だ。

「菜穂ちゃん、どうして?」
「どうしてって……約束したからじゃん!」
「約束?」

 どんな?と言いかけて、菜穂子が怖い顔になったので真澄は慌てて口をつぐむ。

「何度逃げても捕まえてあげるって言葉、忘れちゃった?」

 拗ね顔になった菜穂子に、真澄は無言で首を横に振る。忘れるわけがない。

 ただ本当に捕まえてくれるなんて思ってなかっただけだ。これまで一度たりとも菜穂子と結ばれなかった真澄にとって、あの会話は約束ではなく幸せな思い出の一つに過ぎない。

「まあ君さ、俺も努力するって言ってくれたのにさー」

 口を尖らせて砂利を蹴る菜穂子は、チラチラと真澄を見て──堪えきれないといった感じで噴き出した。

「もう、そんな顔しないで。もう怒ってないから。それに、これ」

 言葉を止めた菜穂子は、首元のネックレスに触れる。波紋模様の美しい緑色の石──マラカイトが夕日を浴びて、きらりと光る。

「マカライトの石言葉は”再会”。まあ君、なかなか気障なことしてくれたね」
「べ、別にそんな深い意味はなかった!ただ、菜穂ちゃんに似合うと思って──」
「はいはい、そうだねー。ありがとう」

 ふふっと笑う菜穂子は、何もかも知っているかのように落ち着き払っていて、真澄は何をしても何を言っても勝てる気がしなかった。