交際ゼロ日からの、契約結婚

 車を降りるときも、マンションの敷地内に入ってからも、ずっと菜穂子は真澄に横抱きにされていた。

 そして室内に入ってソファに座っても、菜穂子は真澄の膝の上にいる。いい加減、降りたい。

「まあ君、膝痛くないの?」
「……」
「私は、まあ君の膝を潰してしまいそうで気が気じゃないんだけど」
「……」
「とりあえず着替えよ?スーツ皺になっちゃうし」
「……」

 何を言っても、何を問いかけても無言を貫く真澄に、菜穂子はお手上げだ。こうなったら最後の手段だ。

「ごめん。心配かけちゃって」

 真澄の腕の中から自分の手を引き抜いた菜穂子は、真澄の頭を優しく撫でる。

「あのね私、何もされてないよ。怖くもなかったし。あ、手の怪我は転んだ時にできたやつだから──」
「頬の怪我は?」
「っ……!それは……」

 わざと殴られたものである。そう口にしたくても、菜穂子は声を発することができなかった。

 真澄が今にも泣きそうな、それでいて苛立ちと怒りをない交ぜにした表情でいたから。

「なるべく痣にならないように殴られたんだけど……ごめんなさい」
「言い訳するにしても、もっとマシなことを言ってくれ。あと菜穂ちゃんさ、俺がなんで怒ってるかわかってるよな?」
「……うん。わかってる」

 真澄は純玲が何を企んでいるのかわかっていたのだから、「もっと自分を頼れ」と怒っているのだろう。

「まあ君のこと頼れないとか、頼りにならないとか、そんなふうに思ってないよ」
「なら、なんで頼らなかった?」
「売られた喧嘩は買う主義だから」

 これまできっと純玲は、持ち前の美貌とあざとい性格と、実家の援助のお陰で、女王様のような人生を歩んでいたのだろう。

 他人の人生をとやかく言う権利など菜穂子にはないが、我が身に降りかかるとなると話は違う。

 徹底的に、この世にはどうやっても自分の思い通りにならないことがあることを教えてやるつもりだった。でも──

「まあ君にこんな顔をさせるぐらいならやるべきじゃなかった。ごめん」

 口に出してみて、自分の愚かさを改めて思い知らされた菜穂子は、真澄の頭をぎゅっと抱え込む。

「……ほんと、ごめん」
「ああ」

 真澄の低い声に違和感を覚えた菜穂子だが、それを追及する前にどうしてもやりたいことがある。

「話の途中で悪いけど、一旦シャワー浴びていい?気持ち悪くて……」
「もちろんだ。すまない……気が利かなくて」

 座ったまま器用に菜穂子をソファから降ろした真澄は、「行って来い」と言う代わりに菜穂子の背を軽く叩いた。

 それからすぐシャワーと着替えを済ませた菜穂子と入れ替わるように、真澄もシャワーを浴びに行った。

 浴室からなかなか出てこない真澄を待つ時間が異様に長く感じて、菜穂子は壁時計と廊下に続く扉を交互に見続ける。

 真澄がリビングに戻ってきたのは、時間を持て余した菜穂子がコーヒーを淹れ終えてすぐだった。

「お、ナイスタイミング。コーヒーできたよ」
「……ああ」
「ん?スポドリか水の方が良かった?」
「いや、菜穂ちゃんの淹れたコーヒーが飲みたい」

 何度も繰り返してきた日常会話なのに、今の真澄は噛み締めるように言った。とてつもなく嫌な予感がする。

 でも菜穂子はすぐに問いただすことはせず、ソファに並んで座ってコーヒーを飲む。こっちだって心の準備が必要なのだ。

 とはいえ、互いに黙ってコーヒーを啜る時間は、なかなか辛いものがある。

「……まあ君、お腹空いてない?」

 耐え切れなくなった菜穂子がそう問いかければ、真澄はゆるく首を横に振った。

「いや。菜穂ちゃんは?」
「あー、私は事務所でヒイラギフーズのカップ麵食べたから平気」
「そうか。今日はデザートを買ってこなくて悪かったな」
「いいよ、そんなの気にしないで。それよりも、さ……」

 マグカップをローテーブルに置いた菜穂子は、真澄を真っすぐ見つめる。

「私に何か言いたいこと、あるんだよね?」
「っ……!」

 不意を突かれたかのように小さく息を吞んだ真澄だが、すぐに口を開いた。

「菜穂ちゃん、今すぐ離婚しよう」
「っ……!」

 今度は、菜穂子が息を吞んだ。