交際ゼロ日からの、契約結婚

 椅子にだらしなく座ったまま、航平は菜穂子に探るような目を向ける。

「H&Mデジタルの社長ってさ、ゴリゴリに束縛強そう。だからってきり、祝賀会んとき……早波さんさ、あの社長にうんざりしてると思ったんですけどね」
「そんな風に見えたんだ」
「見えましたよ。だから俺なんかでも、早波さんに告白できるチャンスあるかなって思ってたんですけど。全然、俺の入る隙間なかったですね。っていうか好きな人いるって、片想いしている人が言う台詞ですよ?早波さんの場合、違くない?」

 最後はタメ口になった航平に、菜穂子は「ははは……」と笑って誤魔化すことしかできない。片想いしてる事情なんて、言えるかっ。

 とはいえ、菜穂子が抱えている状況など航平には、わかるわけがない。

 それでも言えない事情があることは察してくれたようで「明日から変にぎこちない態度取ったりしないでくださいよ。年上なんですから」と気遣いの言葉をかけてくれる。

「うん。いつも通りにする。ありがとう、江上君」
「それって、告ってくれてありがとう的な?」
「それもちょっとだけあるけど、気まずくならないようにしてくれての”ありがとう”の方が大きいかな?」
「うわぁ、マジで脈ナシじゃん……俺」

 頭をガシガシかきながら不貞腐れる航平は、すぐに自分よりもっと素敵な女性な彼女ができるだろう。

 ただそれを口にするのは、航平に対して失礼なような気がして、菜穂子は机の上を片づけ始める。まだ作業は残っているが、明日でも十分に間に合うはずだ。

「拗ねてるとこ悪いけど、私はそろそろ帰るね」
「あ、もう遅いし駅まで送りますよ」

 パソコンを閉じようとする航平に、菜穂子は首を横に振る。

「ううん、大丈夫。遅いって言ってもまだ居酒屋が開いてる時間だし」
「居酒屋って……早波さん、オヤジっすか?」

 ついさっき告白したくせに、航平は遠慮なく呆れ顔になっている。その切り替えの早さは、若さなのか、彼の見えない努力なのか。いや、きっと両方なのだろう。

 だから菜穂子も、わざとらしくムッとした顔を作ってカバンを持つ。

「いいじゃん。居酒屋は人生のオアシスなんだよ。ま、流石に今日は寄らないけどね」
「……俺は浴びるほど酒を飲みたい気分ですよ」
「週末まで我慢だね。じゃ、お疲れさま」
「はい。お疲れ様です」

 最後はいつも通りペコッとお辞儀をし合って、菜穂子は事務所を出た。

 けれどその後──菜穂子は真澄の待つマンションに戻ることができなかった。

*

 バタバタバタ……と、慌てて走る足音が遠くから聞こえ、次第にこちらに近づいてくる。

 足音の主が誰なのかわかっている菜穂子は、肩にかけていた毛布を脱ぐと、丁寧に折りたたんで傍で付き添ってくれている婦警に差し出した。

「お迎えが来たようなので、これお返しします」
「え?……あ!そうですか」

 菜穂子の言葉に若い婦警はキョトンとしたが、角を曲がってやって来た真澄を見て合点がいったようだ。

「確かに受け取りました。では、私はこれで」
「はい。ありがとうございました」

 片手に毛布を抱えて敬礼した婦警に、菜穂子はペコッと頭を下げる。

 婦警が背を向けたのと、真澄が菜穂子の元に到着したのはほぼ同時だった。

「菜穂ちゃん!」
「まあ君、仕事中だったのに呼び出してごめん。お父さんもお兄ちゃんもさ、警察苦手で」
「何言ってんだ。俺が迎えに来るのは当然だ。そんなことで謝るな!」

 怖い顔をして睨む真澄だが、菜穂子の頬と手の甲にガーゼが張り付けてあるのを見て、ビクッと身体を震わせる。真澄が怪我を負ったわけじゃないのに。

「大した傷じゃないよ。そんなに痛くないし」
「そういう問題じゃない!」

 怒鳴りつけた真澄は、腕を伸ばして菜穂子を横抱きにした。

「ちょっ……!いいよ、大丈夫。歩けるから」
「少し黙っててくれ」
「……はい」

 真澄の眼力に気圧された菜穂子は、渋々ながら真澄の首に腕を回した。





 航平から不意打ちの告白を受けて、悩む間もなくフッた後、事務所を出た菜穂子は一人で駅に向かっていた。

 けれどその途中で、大柄な男二人にビルとビルの隙間の路地とも言えない狭い場所に連れ込まれたのだ。

 そして菜穂子は、男二人に蹂躙され……ることなく撃退した。

 余裕で男二人をシバくことができたのは、幹久からの忠告をちゃんと覚えていたからだ。人相の悪い男二人は「話が違う!」と嘆いていたから、この襲撃は間違いなく純玲の仕業だろう。

 そんなふうに比較的に状況判断ができた菜穂子だが、一つだけミスを犯してしまった。

 ヒールを履いた状態での回し蹴りは、思いのほかバランスを取るのが難しく、蹴りを入れた直後に転倒してしまったのだ。

 そこに不法投棄されていた看板があったせいで、転倒した際に派手な音を立ててしまい、不審に思った通行人が通報してしまったので、菜穂子は男二人ともども警察の御厄介になったというわけだ。

 といっても菜穂子は、先に男から一発殴られたので完璧な被害者だ。たとえ、相手が菜穂子よりボロボロな状態だったとしても、断じて被害者だ。

 お巡りさんから少々「やり過ぎでは?」という視線が痛かったが、無事に事情聴取も終えたので、菜穂子的には上手く処理できたと満足している。

 しかし真澄は、そう思ってはくれないようだ。

 だからなのだろうか。真澄は愛車に乗るまでも、乗ってからも、ずっとずっと菜穂子を己の腕の中から離そうとしなかった。