交際ゼロ日からの、契約結婚

 幹久の忠告を胸に刻んだ菜穂子は、会計を終えて外に出た。

 晩夏の日差しを浴びて、冷房で冷えた身体が一気に熱を持つ。

「ふぅー、あっつ……ねぇ二人ともこの後はまっすぐ帰るの?」

 財布をカバンにしまいながら菜穂子が瑞穂と幹久に尋ねると、二人は同時に首を横に振った。

「ううん。本屋寄って帰る」
「俺はこいつの付き添い」

 幹久は最後に「行きたくないけど」と呟いたけれど、瑞穂はそれを無視して菜穂子に手を振る。

「じゃあ、なほ姉。また遊んでね」
「菜穂子さん、さっき言ったこと本当に気を付けて」
「うん、ちゃんと気をつける。瑞穂ちゃんもまた遊んでね。それじゃあ!」

 菜穂子も瑞穂と幹久に手を振ってから背を向け、駅へと歩き出す。でも、次の角を曲がった瞬間に、足が止まった。

 路肩に停まっている車に、見覚えがあったから。

「菜穂ちゃん、おかえり」
「まあ君!?どうしたの?」

 後部座席から降りてきた真澄に、菜穂子は目を丸くする。

 反対に真澄は、悪戯が成功した子供みたいな笑みを浮かべている。

「たまたま仕事が早く終わったし、菜穂ちゃんもそろそろ店を出る頃かなと思って、ちょっとだけ待ってた」
「そっか。タイミングが合って良かった!」
「そうだな。ほら、早く乗れ」
「うん」

 無邪気に真澄の愛車に乗り込む菜穂子だが、これがたまたまじゃないことはわかっている。

 今日の真澄の休日出勤は、菜穂子が食事会を楽しむためのもの。そして偶然を装っているけれど、かなり前から待っていてくれたのだろう。菜穂子が汗まみれになって帰らなくてもいいように。

 そういった真澄の一つ一つの気遣いが嬉しくて、くすぐったい。

 並んで後部座席に座った真澄は、菜穂子が目が合うと柔らかく微笑んでくれる。

「ネックレスつけてくれたんだ」

 笑みを深める真澄に、菜穂子ペンダントトップをちょっとだけ持ち上げる。

「うん!これすごく気に入ってるの。ありがとう」
「どういたしまして」

 ご主人様から褒められた飼い犬みたいな顔をする真澄があまりに尊くて、菜穂子は直視できない。

「あ、えっと……えっとね……」

 ブツブツ呟きながらカバンをガサゴソと探り始めた菜穂子を、真澄は興味深げに見つめる。そんなマジマジと見られたら、見つかるものも見つからない。

 慌て過ぎた菜穂子のカバンから、ハンカチやらリップがこぼれ落ちる。それをナチュラルに拾ってくれる真澄に感謝しつつ、やっと菜穂子はお目当ての物をカバンから取り出した。

「はい、どうぞ」
「……?」

 キョトンとする真澄に、菜穂子はリボンがかかったそれを押し付ける。

「ネックレスのお礼!受け取って」
「俺にか?」
「まあ君以外から、ネックレスをもらったことはありません」
「そうなのか?あ……いや、そうか。ありがとう」

 まじまじと菜穂子を見つめたあと、真澄はうやうやしくお礼の品を受け取った。

「開けていいか?」
「もちろん」

 菜穂子の許可を得た真澄は、慎重に中身を取り出す。

 箱の中には、緑とオレンジのグラデーションが美しいカフスが輝いていた。

「これね、アンモライトって言うんだ。幸運のお守りらしいよ」
「そうなんだ。カフスはもう一生これしか使わないでおこう。ありがとう菜穂ちゃん、大切にするよ」

 顔をくしゃくしゃにして笑う真澄に、菜穂子も笑みを返す。だけど、ほんの少しだけ胸が痛い。

 アンモライトの宝石言葉は”人生の好転”と──”過去の思い出”。

 離婚した後、このカフスを見て自分のことを思い出してほしいという下心から、菜穂子はこれを真澄に送った。醜い執着が形になった贈り物を渡すことに罪悪感が胸を刺す。

「これだけしか使わないなんて言わないで。お洋服に合わせて、ちゃんとカフスを選んでよ」
「嫌だね」

 即答した真澄は、さっそく箱からカフスを取り出してシャツにつけはじめる。

 男性にしては長くほっそりとした指がボタンを外す様は、なんだか夜の情事を思わせて菜穂子は頬が熱くなる。

 ──うん。こんなイイ男が、絶対に童貞であるわけない。それになんか器用そうだし。

 確信を得た菜穂子の頭に「じゃあ初めての相手は誰だったんだろう?」という下種な疑問が頭に浮かんだが、それを振り払うようにわざと「お!もうすぐ着くねー」と、無駄に元気な声を出した。