交際ゼロ日からの、契約結婚

 菜穂子は、真澄の詳しい過去は知らない。色々あったらしいが、きっと辛く苦しい日々だったのだろう。菜穂子が想像するより何倍も。

 そんな過酷な時間を過ごしてしまえば、投げやりな生き方になってしまうのも仕方がない。

 でもあの時──生まれたばかりの赤ちゃんを見て泣いた真澄は、生きようとしてると、未来を望んでいると言ってくれた。

「瑞穂ちゃん、話してくれてありがとう。でも、まあ君は大丈夫。ちゃんと生きようとしてくれているよ」

 掴まれた瑞穂の手に空いてる方の手を重ねると、瑞穂は縋るように見つめてくる。

「ほんとう?」
「うん」
「絶対?」
「うん」
「……どうしてわかるの?」
「まあ君がそう言ってくれたから」

 目を逸らさずに告げれば、やっと瑞穂は安堵の表情を浮かべてくれた。

「そっか、わかった。うち、なほ姉の言葉を信じるよ」
「うん。信じてくれてありがと」

 じゃあ、この話はこれで終わり。そう言う代わりに瑞穂の手をポンポンと軽く叩くが、瑞穂は掴んだ手を離そうとしない。

「ねぇ、なほ姉……すみ兄のエッチが下手でも見捨てないであげてね」
「っ……!」

 だから、なんで童貞だと決めつけるの!?と、菜穂子は心の中で叫ぶ代わりに、幹久に助けてと目で訴える。

 しかし幹久は、助けてはくれなかった。それどころか菜穂子と瑞穂のやり取りすら聞いてなかったようだ。

「幹久さん、どうしたの?食べ過ぎてお腹痛くなった?」
「まさか。瑞穂じゃあるまいし」

 すぐさま瑞穂が「ちょっと!」と非難の声を上げるが、幹久はそれを無視して口を開く。

「菜穂子さん……俺もやっぱ伝えたいことがあるんだ」
「ん? わ、わかった……」

 立って聞く内容じゃない予感がして、菜穂子は再び席に着いた。

 幹久は緊張しているのだろうか、ぬるくなってしまった水を一口飲んでから、こう切り出した。

「今回の件、純玲に仕業だってことは菜穂子さんも知ってるよね?」
「う、うん……まぁ……」

 歯切れ悪く頷いた菜穂子に、幹久は更に表情を厳しくする。

「純玲のやらかしは、柊木グループに喧嘩を売ったも同然なんだ」
「え!?」

「菜穂子さんは、柊木グループの御曹司の妻だろ?傘下の企業じゃなくっても、大事にされるべき存在だろ?」

 真顔で語る幹久には申し訳ないが、大事にされるべき存在というワードに変に照れる自分がいる。

 幸いにも幹久はそこはどうでもいいようで、表情を変えずに続きを語る。

「純玲はほとぼりが冷めるまで留学するらしい。だからこそしばらくは、気を付けた方がいい。俺の母親と同じで、欲しいものがあればどんな手段を使っても手に入れる女だ。法や倫理より、自分の欲求を優先する」

 感情を押し殺した幹久と目が合い、菜穂子はゴクリと唾を吞む。

「今回は俺も瑞穂も協力できたし、兄さんだって見えないところでいっぱい動いてくれていた」
「うん、知ってるよ」

 事務所が盗作疑惑をかけられたことを、菜穂子は包み隠さず真澄に伝えている。

 助けて欲しかったわけじゃない。夫婦なら話すべきだと思って。

 真澄は菜穂子が語り終えるまで、口を挟むことなくじっと耳を傾けてくれて、最後に「わかった」と言って頷いた。

 その時の真澄の顔は、今思い出しても身震いする。

「まぁ君は、私のためにどう動いたかは自分からは絶対に言わないと思う。でも、私はちゃんとわかってるよ……あの人は、そういう人だから」

 出会った時から、真澄は無条件に菜穂子の味方になってくれる。

 そこに甘えているわけじゃないが、彼の行動を制限するつもりもない。

「うん。菜穂子さんならわかってくれてると思ってたけど、ちゃんと言ってもらえると嬉しい。で、本題はこっからなんだけど、純玲はこれで諦める女じゃない。間違いなくまた何か仕掛けてくると思う。でも……俺や瑞穂じゃ役に立たないことがあるかもしれないし、兄さんだって四六時中菜穂子さんの傍にいられるわけじゃない。だから……」

 一旦言葉を止めた幹久は、強い視線で菜穂子を見た。

「気を抜かないでください」
「わかった。気を付ける」

 深く頷いた菜穂子を見て、幹久はホッとした顔を浮かべてくれたが、不安が完全に消えたわけじゃない。

「今回は精神的な追い込みだったけど、そのうち物理的な攻撃だってあると思う」
「物理的とは?」
「その……こういうこと口にすら出したくないんだけど、女性が嫌がるっていうかさ、死にたくなるようなこと」
「あっ、なるほど」

 軽く頷いた菜穂子に、幹久は怖い顔になる。

「本当にわかってる?菜穂子さんさ、自分が思ってる以上に詰めが甘いってこと自覚してます?」
「してるよ。こう見えて私、物理的なやつに対処する方が得意なの。ただ……」
「ただ、何ですか?」
「やり過ぎて警察沙汰になったらどうしようって心配なだけ」

 喧嘩慣れしていない菜穂子にとって、相手を徹底的に潰すより、手加減することの方が難しい。

 できることなら今度こそ迷惑をかけたくないのだが、最悪やり過ぎてしまった場合、真澄や幹久の力を借りなくてはいけなくなる。

 その状況を想像するだけで、菜穂子は申し訳ない気持ちになってしまう。でも──

「そっちかよ!」
「なほ姉、マジカッコイイ!」

 幹久から全力で突っ込みを入れられ、瑞穂からはアイドルを見るような熱い視線を向けられてしまった。

 二人の予想外のリアクションに、菜穂子はどんな表情を浮かべていいのかわからない。

「あ、えっと……」
「そういう心配なら無用です。警察沙汰になる前に、俺と兄さんで揉み消しますから」
「うちも、なほ姉が超ぉー被害者だよってネットに拡散するから!」

 これ以上ないほど、瑞穂と幹久は頼りになる発言をしてくれたが、この二人だけは敵にしたくないとも、菜穂子は思ってしまった。