交際ゼロ日からの、契約結婚

 注文した料理をすべて食べ終えると、食後のコーヒーが三人分テーブルに並べられた。

「あー食べた、食べた!なほ姉、ごちそうさま」
「お粗末様でした。でもデザートはティラミスだけでいいの?ジェラートも食べたら?」
「うん!そうしよっかな」

 菜穂子の提案に、瑞穂はルンルンしながらメニューを広げるが、その隣に座る幹久は心配そうな表情を浮かべている。おそらく会計を気にしているのだろう。

 確かにウェイターが置いた伝票には、二度見するほどの金額が記載されていた。だが、瑞穂と幹久が満足してくれたのなら安いものである。

「社会人に要らぬ気遣いは不要よ。幹久さんもデザート食べて」
「いや、俺、甘いもん苦手なんで」

 即答した幹久は、遠慮ではなく、単純な好き嫌いで辞退しているようだ。

「そっか。まあ君も瑞穂ちゃんも甘いの好きだから、てっきり幹久さんも好きかと……ごめん」
「え?」
「ええっ!?」

 菜穂子が謝った途端、瑞穂と幹久が同時に声を上げた。しかし菜穂子は、二人が驚く理由がわからない。

「どうしてそんなに驚くの?」
「だって、なほ姉が……すみ兄が甘党って言うから」
「え?まあ君、甘いものは良く食べるよ?昨日もプリン一緒に食べたし」

 ちなみに一昨日は、真澄が買ってきたフルーツ大福を食後に半分こした。

 美味しいと言って大福もプリンも完食していたから、真澄もてっきり甘党だと思っていたけれど──

「もしかして……まあ君って甘いもの苦手なの?」

 そんなまさかという思いを抱きつつ菜穂子が尋ねれば、瑞穂と幹久は同時に首をフルフル横に振った。

「ううん。違う……と思うけど、ぶっちゃけわかんない。すみ兄が甘いもん食べてるの見たことないし、っていうか本家だと何食べても美味しくないから、あえて食べずにいたから、うちらが知らなかっただけかも」

 瑞穂の説明は、菜穂子が納得するには十分な理由だった。でも、声に出して「そうだね」とは言いにくい。

「それにしても、一緒にプリン食べたかぁー。相変わらずラブラブだね、すみ兄となほ姉は──あ、ジェラートはこっちです!」

 無自覚に菜穂子の複雑な心境に追い打ちをかけるような発言をした瑞穂は、遅れて届いたジェラートに目を輝かせている。

 ──ラブラブ……ねぇ。

 本当の夫婦なら照れ笑いの一つもできた。けれど、期間限定かつ夫の真澄に片想い中の菜穂子には、ちょっと胸に刺さる言葉だ。

 でもそのことを、瑞穂と幹久に気づかせるわけにはいかない。

 二人は純粋に菜穂子のことを、義理の姉として慕ってくれている。真実を伝えることは、二人を傷つけることになる。

 だから菜穂子はニコッと笑みを浮かべて、コーヒーカップを持ち上げる。そして伝えられない言葉と共に、コーヒーを啜る。

 口に広がる豆の味は、舌がピリピリするほど苦かった。

 どんなに楽しい時間を過ごしても、終わりはやってくる。

 全員のコーヒーカップが空になったのを確認した菜穂子は、「そろそろ行こうか」と瑞穂と幹久に声をかけて、伝票を手に取り立ち上がった。けれども──

「待って、なほ姉。ひとつ訊いてもいーい?」
「もちろん。何個でもどーぞ」

 上目づかいの瑞穂を邪険にできるわけもなく、菜穂子は笑顔で続きを促した。

「あのね、なほ姉とすみ兄は赤ちゃん作らないの?」
「はい!?」

 曇りなき眼で尋ねる瑞穂に、菜穂子は不覚にも素っ頓狂な声を上げてしまった。

「あ、そういうのって訊いちゃいけない系だった?……ごめんなさい」

 シュンとする瑞穂に向けて、菜穂子は真澄とは子作りどころか、彼の寝室にすら一度も入ったことはないなどと伝える勇気はない。

「うーん、いけない系じゃないんだけど……子供はまだ考えてないっていうか……」
「そうなんだ。それって……すみ兄が童貞卒業したばっかりで下手くそだから?」
「っ……!?」

 美少女高校生の口から、出てはいけない言葉が出てきて、菜穂子は眩暈を覚えてしまう。

「おい、瑞穂。いい加減にしろ」

 立ったまま額を押さえて俯いてしまった菜穂子に代わり、幹久が瑞穂を嗜める。

 しかし、その内容は菜穂子が思っていたのとは違っていた。

「兄さんは確かに経験がないかもしれないけど、そういうことは夫婦の問題だろ。お前がとやかく言う筋合いはないんだ」
「わかってるよ。でもすみ兄ってこれまで女の影がゼロだったじゃん!みき兄は、すみ兄が誰かと付き合ってるとこ見たことある?」
「いや、ない。兄さんに彼女ができれば、俺は絶対に気づくはずだ」
「ならやっぱ童貞じゃん」
「そうかもしれないけど、子供を作るとか作らないは俺らが口を出しちゃいけないことなんだ」

 ちょっと待て。瑞穂も幹久も、真澄が童貞だと決めつけているがそんなはずはない。

 あのビジュアルに、あの肩書きだ。真澄が童貞でいたくても、世の女性は放っておかないだろう。

「あの……心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから……」

 真実がどうであれ、夫の名誉を守るのは妻の役目だ。正直なところ、真相を一番知りたいのは自分だが。

 そんな気持ちでフワフワな弁護をすれば、瑞穂は菜穂子の腕をギュッと握った。

「なほ姉……さっきは変なこと訊いちゃってごめん。でも、すみ兄を庇ってくれてありがとう。なほ姉、こんなふうにずっとさ、すみ兄の味方でいて」
「うん」

 ずっと傍にいることは約束できないけれど、ずっと味方でいることは約束できる。

「この流れで言うのもアレだけど、すみ兄ってなんか執着ないんだよね。いつ死んでもいいって感じで。こっちがハラハラしてるのに、全然平気で……それに時々、未来を知ってるみたいに達観している時もある。うち、それがすごく嫌なの。なんだか壁を作られてるみたいで。だから赤ちゃんができたら、ちょっとは真面目に生きてくれるかなって思って期待しちゃったんだ」

 一気に語った瑞穂の声は、震えていた。

 ああきっと……今、瑞穂が語ったことは元旦に柊木家の台所で伝えたかったことなのだろう。

 そう気づいた途端、菜穂子の脳裏に新生児室で涙を流した真澄の姿がよぎった。