交際ゼロ日からの、契約結婚

 食い入るように紬希を見つめている真澄は、自分が泣いてることすら気づいていないようだ。

 このまま放置するのはマズいと判断した恭司は、気配を消して菜穂子に近づく。

「……おい、アイツなんかあったのか?」
「……わかんない」
「……わかんないって、お前さぁ、アイツの嫁だろ?涙もろい性格なのか?」
「……私、まあ君の嫁だけどさ。涙もろい性格かどうかなんて知らないよ」

 この会話は、全てアイコンタクトで行われている。兄弟だからできる技だ。

 そんなふうに視線をビシバシに交わしている姿が、新生児室のガラスに映ったのだろう。真澄は、おもむろに菜穂子たちに視線を向けた。

「菜穂ちゃん、どうした?」
「どうしたじゃないぞ、真澄。お前、泣いてんじゃん!」
「ちょっと、お兄ちゃん!」

 もっと言葉を選ぼうよ、と菜穂子は恭司の脛を蹴る。すぐに「痛っ」と恭司は脛を抱えて蹲った。

 一方、真澄といえば、やっと自分が泣いていることに気づいて、愕然としている。

「……菜穂ちゃん……俺……」

 どうしたんだろう?どうしたらいいんだろう?

 そんな真澄の声が聞こえたような気がして、菜穂子は真澄の腕を掴んでこの場を離れることにした。

 歩き出した途端、恭司が「俺は何も見てないからな!」と叫んだが、果たしてそれを真澄が信じたかどうかは不明である。

 病院の地図を把握していない菜穂子だが、適当に歩けば自販機とベンチが視界に入った。

「ここ、座って」
「……ああ」

 真澄が素直に着席したのを確認して、菜穂子は自販機でジュースを2本買う。

「どっちがいい?」
「……こっち」

 コーヒーとリラクゼーションドリンクを菜穂子から差し出され、真澄はリラクゼーションドリンクを選んだ。正しい選択だ。

「菜穂ちゃん」
「ん?」
「驚かして、ごめん」
「いいよぉーそんなの。それよりさ」

 ここで一旦言葉を止めた菜穂子は、缶ジュースを手のひらで転がして一向に飲もうとしない真澄から、強引にそれを取り上げてプルトップを開ける。

「早く飲みなよ。ぬるくなっちゃうよ」
「ああ」

 これもまた素直に頷いた真澄は、菜穂子からジュースを受け取って一口飲んだ。

「俺……ずっと同じことの繰り返しだと思ってた。変わっているように見えて、実はずっとぐるぐる同じ場所を廻っているだけなんじゃないかと思ってた……」

 苦し気に語る真澄には申し訳ないが、菜穂子は全然意味が分からない。

 しかし真澄が、弱い部分をさらけ出し、大事なことを伝えようとしているのはわかる。

 だから菜穂子は「うん」と頷くと、再び真澄が語りだすのをじっと待った。

 真澄が再び口を開いたのは、しばらく経ってからだった。

「菜穂ちゃんも知っている通り、俺の生い立ちは色々あって……そのせいかどうかはわからないが……どれだけもがいても、結局は望む場所に辿り着けないんだと諦めてた」

 真澄はそこまで語ると、片手で顔を覆って息を吐いた。細く、長く続く、魂を吐き出すような溜息だった。

「まあ君……」

 たまらない気持ちになった菜穂子が声を掛けたら、真澄は顔を覆っていた手を離して弱々しい笑みを浮かべる。

「大丈夫だ。できればこのまま、全部聞いてほしい」
「うん」

 頷いた途端、真澄は菜穂子の手を握った。

「何をしても、どう足掻いても……無駄だと思ってた。でも産まれたばかりの赤ちゃんを見て、俺にも始まりがあったことを思い出したんだ」
「うん」
「望まれて産まれたわけじゃないかもしれないけど、俺は今もこうして生きてて、これからも生きようとしている。生きようとしてるってことは、未来を望んでいるってことに気づいたんだ」
「そっか」

 相槌を打ちながら、菜穂子はなにやら哲学っぽい話だなと頭の隅で思う。

「ごめん、変な話して。こんな意味のない話をされても困るよな」

 バツが悪い……というより、真澄は語ったことを後悔しているような顔をしている。それはないんじゃないの?

 ──あのさぁ、私、あなたの妻なんですけど?

 たとえ期間限定であっても、夫である真澄が他の人を好きでいても、この世で一番近い存在は菜穂子なのだ。

 それなのにその他大勢と同じように扱われ、菜穂子はイラっとする。しかし、ここで声を荒げれば、いつぞやの祝賀会と同じ展開になるのは目に見えている。

 同じ失敗を繰り返すような愚かな真似をしたくない菜穂子は、真澄の頭を撫でることで気持ちを抑えた。