交際ゼロ日からの、契約結婚

 空港の外に出た菜穂子は、タクシーを拾うつもりだった。けれど、真澄のお抱え運転手である山南に捕まり、二人は彼の運転で首都高速を走っている。

 後部座席に座っている真澄は、自分の思い通りにいかなくて不満なのか、どこに連れていかれるのか不安なのか、とても硬い顔をしている。

「今更だけど、出張お疲れ様。あと30分もしないで着くけど、疲れてるならちょっと寝たら?」

 隣に座っている菜穂子がそんな提案をした途端、真澄は信じられないと言いたげに、目を大きく開いた。

「この状況で寝ろと?俺はそんなに神経が図太くない。菜穂ちゃんと違って」
「あっそ」

 真澄の嫌味に、菜穂子は肩をすくめる。不思議と苛立つ気持ちはない。

 むしろ拗ね顔になっている真澄を、可愛いとすら思ってしまう。

「ふふっ」
「何が可笑しいんだ?」
「内緒だよ」
「菜穂ちゃんは、よほど俺に苦痛を与えたいんだな」
「まさか。ワクワクしなよ」
「ワクワク?はっ、できるかよっ」

 拗ねた顔から渋面になった真澄は、目を閉じた。不貞寝とも言う。

 眉間に皺を刻んだ寝顔を見て、菜穂子は口元を両手で覆って笑いを必死に堪える。でも肩が小刻みに震えてしまうのは、どうしようもない。

「……菜穂ちゃん、随分と余裕だな」

 目を閉じたまま呟いた真澄に、菜穂子は苦笑する。

 余裕?そんなもの、あるわけがない。

 真澄へ向かう気持ちを認めたら、菜穂子はこれまでどう接していたか、わからなくなってしまった。今だって、普通に接しようと頑張っているが、不安でたまらない。

 もし仮に、菜穂子が余裕のある態度に見えるなら、それは菜穂子の努力の証だ。たくさん悩んで、耳から変な汁が出るくらい考えた結果なのだ。

 そんな言葉が喉から出てきそうになるが、菜穂子はグッと堪えて「まあね」と前を向いたまま答える。

 真澄は更に眉間に皺を刻んだが、到着するまで口を開くことはなかった。

 山南の運転する車が停まり、菜穂子に引っ張られるような形で真澄は車を降りた。

 到着した場所が総合病院と知った途端、真澄の顔が強張る。しかし院内に入り、向かう場所が産婦人科だとわかると大体の事情を察してくれた。

「……言ってくれれば、祝いの品を用意したのに」

 恨みがましい目で呟いた真澄に、菜穂子は肩をすくめる。

「逃げ続けてきた人からそんなこと言われても、謝ってあげません」
「うっ!……確かにそうだな……」

 菜穂子からズバリ言われて、真澄はしょげるが足を止めることはない。

「孝美さん、一昨日の夜から陣痛が始まって、昨日産まれたんだ。孝美さんも、お兄ちゃんも、まあ君に赤ちゃん見て欲しいって」
「……そうか。光栄だな」
「女の子だよ。紬希(つむぎ)ちゃんって言うの」
「いい名前だな」
「うん。幸せな人生を紬ぐことを願って付けたんだって。お兄ちゃんったら、名づけ本5冊も買ったらしいよ」
「恭司さんは、いい父親だな」
「うーん……お兄ちゃん、凝り過ぎてキラキラネームに走っちゃったから、結局孝美さんが決めたんだけどね」
「……子供の名前を一番多く呼ぶのは母親だから、良い判断だ」

 そんな状況報告ともいえない会話をしていた菜穂子の足が止まり、遅れて真澄の足も止まる。

「まあ君、無理やり連れてきて……ごめんね。あとこれ、返す」
「今かよ」

 モノ質と化していたアタッシュケースを受け取った真澄は、菜穂子を真っすぐに見つめた。

「俺こそ、ありがとう。あそこで会えなかったら、俺は死んでも後悔していた」
「なにそれ」

 大げさだな、と呟いて、菜穂子は病室の扉を開けた。

 清潔な病室には、ベッドの上で半身を起こしている孝美と、その横で立っている恭司がいた。

「おっ!菜穂子に、真澄、来てくれてありがとな」

 二人に気づいた恭司が、早くこっちに来いと手招きする。近づいた途端、恭司は真澄に抱き着いた。

「真澄、俺さパパになったよ!すげぇよな。少年院入りそうになって、喧嘩ばっかして高校中退した俺が、パパになったんだよ!」

 腕っぷしのいい恭司に力任せに抱きしめられて苦しいはずなのに、真澄は嫌な顔一つせず、恭司の背に手を回す。

「学歴も、過去も関係ありません。恭司さんは、俺が出会った頃から孝美さんのいい夫でした。この先もきっといいパパになりますよ」
「そっか!真澄に言ってもらえたら、俺、マジでいいパパになれる気がするな」

 年甲斐もなく、少年みたいな照れ笑いをした恭司は、「紬希を見たか?」と菜穂子に尋ねる。

「ううん、まだ。まずは孝美さんの顔を見たくって」
「ふふっ、ありがと。私は見ての通り元気よ」

 陣痛で12時間以上も苦しんだとは思えないほど、穏やかに笑った孝美は、恭司に視線を向けた。

「恭君、悪いけど紬希のとこまで菜穂ちゃんたちを連れて行ってくれる?私、まだ歩くの痛くて」
「オッケー、オッケー。まかしとけ!んじゃ、お前ら行くぞ」

 親分気取りで恭司は、病室の扉を開けて廊下に出た。

 幾つかの角を曲がって、新生児室に到着すると、菜穂子は小さく息を吞む。ガラス越しにずらっと新生児が並んで寝かされている光景は圧巻だ。

「すごっ。赤ちゃんがいっぱいいる」
「その中で俺の紬希が一番可愛い」

 パパになってまだ3日目なのに、早くも恭司は親馬鹿ぶりを発揮している。

 新生児室の前には他にもパパらしき人がいるが、皆、同じ気持ちなのだろう。苦笑を浮かべても、恭司を非難する人はいない。

 ここは子供が生まれる場所だけれど、父親を作る場所でもあるんだな。などと考えながら、菜穂子は紬希を探す。

「ぅわぁー……きゃわいい」

 コットの中で眠る紬希は、思わず語尾にハートマークが付きそうなほど愛らしい。

「まあ君、見て!うちの姪っ子、世界で一番可愛い!」

 恥ずかしげもなく親馬鹿ならぬ、叔母馬鹿をさらけ出した菜穂子だが、真澄の袖を引っ張った途端、表情が変わった。

「……ま、まあ君……?」
「お、なんだ。俺の娘が可愛くて、言葉が出な……っ!」

 不穏な菜穂子の声を聞いて、恭司が真澄を弄ろうとした。しかし、恭司もまた菜穂子と同じ表情になる。

 真澄が立つ床だけにポタ、ポタ……と水滴が落ちる。

 真澄は紬希を見つめながら──静かに涙を流していた。