交際ゼロ日からの、契約結婚

「……ちょっとは、心配してあげてくださいよ」

 この期に及んで二人の仲を取り持とうとする自分に、菜穂子は笑いたくなる。

 一方、智穂はカラカラと声に出して笑っている。ったく、笑い事じゃないのに。

「ふふっ、そんな目で睨んでも、駄目。私が心配してるのは菜穂子さん、あなたよ」
「私のことなんて、心配しなくても大丈夫です。っていうか、こうなった原因は私にあるんですから」
「あら?片方だけが悪い喧嘩なんてないわよ」

 頬杖をついて智穂はニッと笑う。余裕のある大人の笑みだ。

「特に夫婦喧嘩って、そういうもんじゃない?」

 智穂から同意を求められて、菜穂子は言葉に詰まる。

「……あの……これって夫婦喧嘩……なんでしょうか?」

 質問を質問で返した菜穂子に、智穂は呆れ顔になった。

「それはそうでしょう。だって菜穂子さんと真澄さんは、夫婦でしょ。その二人が喧嘩したんだから、夫婦喧嘩以外に何て呼べばいいの?」

 また真顔で尋ねられて、菜穂子は言葉では言い表せない不思議な気持ちになってしまう。

 言い争いでもなく、諍いでもなく──夫婦喧嘩。

 ”夫婦”という言葉が前にあるだけで、真澄との繋がりを感じてしまう。

「原因とか、経緯とかそういのが色々あったにせよ、菜穂子さんを避けて逃げまくる真澄さんは、絶対に大人げないと思うわ。だから菜穂子さん、ガツンと言ってやりなさい。この弱虫って!」

 ぐっと拳を持ちあげる智穂に、菜穂子は思わず笑ってしまう。

 おかげで肩の力が抜けたけれど、その分、罪悪感で胸の辺りが重くなった。

「とにかくね、夫婦喧嘩はどっちが一方的に悪いっていうもんじゃないけど、私は菜穂子さんの味方だから!真澄さんに言いたいことがあるなら、ガツンと言ってやりなさい」

 励ますように笑顔で言ってくれる智穂に、菜穂子は俯く。

 祝賀会で、言いたいことを言ってしてしまった結果、こじれてしまったのだ。

 遠回しとはいえ、菜穂子が真澄に言いたかったことは、自分に向かう気持ちをはっきり言葉にしてという要求だ。

 妻の自覚がないというなら、本当に妻として振舞っちゃうよ?という警告も含んでいた。

 真澄の返した答えは、無言。菜穂子に自覚がないと責めたのは、ただ引っ込みがつかなかっただけかもしれないし、本心をさらけ出したくなかったのかもしれない。

 どちらにせよ、彼が飲み込んだ言葉は、菜穂子が欲しかった言葉ではなかったはずだ。

「……私、謝りたいだけなんです」

 誰だって、心の中に踏み込んでほしくない領域がある。

 あの日、菜穂子は真澄のそこに、無理矢理足を踏み入れようとした。無作法で、無神経な行為で、幻滅されても仕方がない。

 それなのに、智穂は「子供みたいに逃げ回る旦那なんて、怒らせとけばいいのよ」と呆れ顔になる。まったく、他人事だと思って。

「これプレッシャーになるから言わない方がいいのかもしれないけど……私としたら一日も早く、菜穂子さんと真澄さんには仲直りしてほしいと思ってるの」
「そうなんですか?」
「もちろん」

 大きく頷く智穂を見て、菜穂子は励まされた気持ちになる反面、とことん真澄は智穂の恋愛対象外なんだと思い知らされる。

 なら、自分にもワンチャンあるかも。などと一瞬思ってしまったが、真澄を口説き落とせるような手練手管を持っているわけではない。

 本当に、恋とは厄介なものだ。頭では叶わないとわかっているのに、気持ちは僅かな可能性を見つけようとしてしまう。

 自分の醜い一面に気づかされた菜穂子は、また俯いて小さく息を吐く。自分は、どうしたいんだろう。

「……あのね、夫婦の形って色々だと思うの。傍から見たら不幸に思えても、すごく満ち足りた生活を送ってる夫婦もいれば、逆もある。夫婦の数だけ正解があって、その正解は二人にしかわからないんだと思うの」

 静かな口調で語る智穂の言葉に耳を傾けていたら、自然と俯いていた顔が上がり、智穂と自然に目が合った。

「喧嘩は互いをより深く知るために必要なことよ。だから、喧嘩したことで落ち込まなくていいのよ。夫婦喧嘩をしない夫婦なんて、世界中探したってどこにもいないんだから。ね?」

 目を細めて柔らかく微笑んでくれた智穂に、菜穂子は今度は俯かず「はい」と答える。

 交際ゼロ日でも、離婚する日が決まっていても、今の自分は柊木真澄の妻なんだ。

 ──私なりに、夫婦の在り方を見つめ直そう。

 そう決心した途端、宵闇の森に迷い込んでしまった不安な気持ちの中に、一筋の光が差した。