交際ゼロ日からの、契約結婚

 真澄と言い争いをしてから、菜穂子は後悔の日々を送っている。

 どうして、あんなにも感情的になってしまったのだろう。無理にでも真澄の気持ちを知りたいと思ってしまった自分を思い出しては、消えてしまいたくなる。

 しかし、菜穂子がどれだけ後悔しても、消えたいと願っても、世界は残酷だ。

 無情にも時間は流れ、命を維持しようと身体は空腹と睡眠を訴える。

 仕事に行き、智穂の手料理を食し、晩酌をしながら真澄の帰宅を待ち続け寝落ちして──そんな生活を続けていれば、気づけば桜も散って、ゴールデンウイークも過ぎてしまった。

 でも真澄とは、会話らしい会話ができるどころか、まともに顔すら合わせていない。

 沖縄はとっくに梅雨入りして、関東地方もそろそろだ。

 傘が手放せず、ジメジメした毎日が続くことを考えると、うんざりというより憂鬱になる。

 せめて仲直りとはいかなくても、あの日の出来事を真澄に謝罪したい。

 そう願う菜穂子だが、真澄は器用に避けやがる。平日は遅くまで残業で、休日も仕事。出張もやたらと多い。

 結婚した当初、真澄は多少の残業はあるものの、毎日マンションに帰宅していた。週末だって、休むことの方が多かった。

 しかし祝賀会でこじれてしまった後は、ブラック企業に務めるサラリーマンみたいに仕事人間に変わってしまった。

 庶民の菜穂子とて、大財閥の御曹司が忙しいのはわかっている。だがこの変化は、あまりにも急激だ。真澄が自分を避けていると考えるなという方が、無理がある。

*

 梅雨入りした、とある休日の昼間──

「ねぇーえー、菜穂子さぁーん。訊いてもいーい?」

 リビングで、デザイン学校のパンフレットを読んでいた菜穂子に、智穂がキッチンカウンターから身を乗り出して尋ねた。

 パンフレットを持つ菜穂子の手が、ビクッと震える。

「も、もちろん……い、いいです……よ?」

 智穂が何を知りたいか察した菜穂子の頬は、見事に引きつっている。

 できることなら、質問を受ける前に逃げ出したい。

 しかし、逃げるわけにはいかない。智穂は、真澄の想い人である以前に、菜穂子の胃袋を掴んでいるからだ。

 手に持っていたパンフレットを閉じてテーブルに置いた菜穂子は、立ち上がってキッチンカウンターに向かう。智穂は、手早く紅茶を淹れてくれている。

 ダイニングテーブルに二人分のティーカップが置かれた頃には、互いに聞く体制と、話す覚悟ができていた。

「じゃあ、さっそくだけど、菜穂子さん……真澄さんと何かあった?」

 ドストレートかつ、容赦ない質問に、ティーカップを持ち上げようとした菜穂子の手が止まる。

「……ええ、ありました」
「それ、ここ最近の話?」
「いいえ、ゴールデンウイークより前の話です」
「そっか」

 さも初めて知った顔をする智穂に、菜穂子は心の中で「嘘つき」と呟く。

 智穂は、真澄との付き合いが菜穂子よりはるかに長い。きっともっと早くこのこじれた状況に、気づいていたはずだ。

「本当は、智穂さん……私とまあ君……いえ、真澄さんがこじれてること、知ってたんじゃないんですか?」

 自分でもびっくりするほど低い声が出てしまい、菜穂子は智穂と目を合わせることができない。

 これじゃあ、言いがかりをつけているみたいだ。

 間を埋めるために、菜穂子はティーカップを両手で包むように持ち上げる。口元に運んだら、茶葉の香りの中に柑橘系の匂いがした。

「それ、行きつけのお店の新作なの。ジメジメしてるからミントティーと悩んだんだけど、私はこっちの方が好きなんだ」

 菜穂子の質問に答える代わりに、智穂は穏やかな声でそう言って紅茶を啜る。

 それからゆっくりとティーカップをソーサーに戻した智穂は、申し訳なさそうに眉を下げた。

「……ちょっと前からね、菜穂子さんと真澄さんが、なんかちょっと変だなって思ってたのは、ほんと。カマをかけるようなこと言って、ごめんなさい」
「い、いえっ。そんな」

 慌てて首を横に振る菜穂子に、智穂もゆるりと首を横に振る。

「夫婦のことに第三者が首を突っ込むのは、マナー違反ってわかってるんだ。菜穂子さんだって、いい気持ちにならないと思うし。でも、どうしても気になっちゃって……」
「ですよね。真澄さんのこと、心配になりますよね」
「え?真澄さん?私……菜穂子さんのことが心配だったんだけど?」
「ええっ!?」

 まさかの食い違いに、菜穂子は目を丸くする。

「私……てっきり智穂さんは、真澄さんのことが心配で、私に色々訊きたかったんだと」
「ううん。真澄さんのことなんか全然心配してないわ」

 サクッと否定されて、菜穂子は真澄に同情してしまう。

 彼の想いは、一体いつになったら届くのやら。