交際ゼロ日からの、契約結婚

「俺に言えない理由なのか?」

 問いかける真澄の口調は、かなり厳しい。

 菜穂子が後ずさりをしたのを、真澄は悪い意味として受け止めてしまったようだ。

「そんなわけないよ!さっきも言ったじゃん、所長が急病で代理で出席したって。どうしても断れなかったの。私は、好き好んでここに来たわけじゃないよ」

 事前に用意していた言い訳をまくし立てた菜穂子を見て、真澄は半目になる。

「へぇー……所長が急病、か。なら瑞穂は預言者なんだな」
「は?」

 急に義妹の名前が出てきて、菜穂子は面食らう。

「何言ってるの?」
「見ろ」

 首を傾げる菜穂子に、真澄は自分のスマホの画面を押し付ける。

 受け取ったスマホの画面には、瑞穂からのメッセージが表示されていた。

【明日のパーティー、なほ姉と一緒に行くんだよね?なほ姉、マジ可愛いから!ちゃんとエスコートしなよ。しなきゃ殺す。っていうか、そんなこともできないダンナなんて生きてる価値ないから】

 物騒なワードが並ぶ文面に、菜穂子は愕然とする。

 瑞穂が真澄と連絡を取り合っている可能性を、まったく考えてなかった。自分の詰めの甘さに舌打ちしたくなる。

「これでも所長が急病になったって言い張るのか?」

 再び大股で一歩近づいた真澄に、菜穂子は観念した。

「ごめん……所長が急病になったってのは、嘘です。ごめんなさい。所長は今日、外せない私用……ぶっちゃけるとデートで……どうしても誰か代わりに祝賀会に行ってほしいって言うから、くじ引きで参加者を決めたの。江上君とは、くじで一緒になっただけ」
「へぇ」

 素直に事情を説明しても、嫌疑は晴れない。

 好きな人から信じてもらえないのは、全身が震えるほど恐ろしい。

「ほんとだよ。でも、ごめん……事前に伝えておけばこんなことに……っ……!」

 なおも言い訳を紡ぐ菜穂子だったが、はたと気づいた。そもそも、こんな一生懸命に釈明する必要ってあるのか?

「まあ君ってさ、仕事とプライベートは分ける男じゃなかったっけ?」

 思ったままを口にした途端、真澄の眉間に皺が寄る。

「今、そういう相手が不利になることを言うと、菜穂ちゃんがやましい気持ちを持ってたと俺は判断するぞ」
「なにそれ!」

 卑怯な真澄の主張に、菜穂子は目を剥いて叫ぶ。

「そんなん、狡いよ!」
「狡くない」
「狡い!」

 子供の喧嘩みたいな言い争いを終わりにしたかったのか、真澄は大きく溜息を吐いた。

 次いで、とても静かな声で菜穂子に問いかける。

「もう何度も訊いてるが……菜穂ちゃんはさ、俺の妻になったは本当に自覚あるのか?」

 うんざりというより呆れている真澄の口調に、菜穂子の中で、何かが豪快に切れた。

「あるよ!」

 声を荒げた菜穂子は、ダンッと足を踏み鳴らして真澄を睨みつけた。

 なんかもう、すっごく腹が立つ。どうしてそんな事を真澄から言われないといけないのか、理不尽さで血管が焼き切れそうだ。

 これまでの行動全部を否定されたような気持ちになった菜穂子は、気づけば真澄の胸倉を掴んでいた。

「逆に訊くけどさ、まあ君は私のどこが妻としての自覚がないと思ったわけ?」
「菜穂ちゃん、苦しい」
「手加減してるんだから、苦しくない!それより答えて!!」
「それは!……っ……」

 真澄は激高して、何かを言いかけた。でも、言葉にする前に飲み込んでしまった。

 それが無性に悔しくて、もどかしい。

「どうして答えてくれないの!?ちゃんと言ってよ!!」

 真澄の胸倉を更に自分の方へと引き寄せて菜穂子は叫ぶ。

 でも、真澄は何も言ってくれない。痛みを堪えるような顔をして、目を合わせようとすらしてくれない。

 その姿は、一刻も早くこの時間が終わればいいのにと願っているようにすら見えてしまう。

 ──そんなに……嫌なの?

 自分の思いの丈をぶつけても拒絶され、菜穂子の胸に悲しみが広がる。

 もういっそ、そこにあるソファに押し倒して、服を剥いで、キスをして──全部全部ぶち壊しにしてしまいたい衝動に駆られた。

 そうすれば、真澄が自分に対してどんな感情を持っているのかすぐわかる。

 けれど、菜穂子はそうしなかった。目の前にある真澄の胸に額を当て、ギュッと目を閉じると、思いっきりその胸を押した。

 手加減なしに突き飛ばされた真澄は、よろめいたが倒れることはなかった。

 ただただ状況が理解できず、困り果てた顔をしている。

 そうだよね。真澄にとったら自分は、一年後に離婚できる都合のいい結婚相手なだけだ。それでも──

「私さ、庶民だし、学歴だって普通だし、これといって自慢できるものもないけどさ、でも、まあ君と結婚することができて良かったって思ってる」

 そこまで言って、菜穂子は真澄から距離を取る。

「まあ君に迷惑かけたこともたくさんあったし、非の打ち所がない奥様でいるなんて、これっぽっちもない。だから……さ……」

 震える自分の手をギュッと握りしめて、菜穂子は真澄を真っすぐ見つめた。

「どこが悪いのかちゃんと言ってくれないとわかんないよ」
「……菜穂ちゃん。ごめん」
「謝らないで!」

 菜穂子は激しく首を横に振る。その謝罪は「向き合えなくてごめん」なのか、この一連の行動について「ごめん」なのかわからないし、どちらにでも受け止められる。

 そんな狡い逃げ方をされたら、余計に傷つく。今、菜穂子が欲しいのは謝罪ではなく、真澄が求める自分の立ち位置だ。

「謝らなくていいよ。ただ、私がどんな妻でいてほしいのか、ちゃんと言って。ね?」

 息を整えて、もう一度目を合わせても、真澄は何も言ってくれなかった。

 それが、答えなのだ。

「……そう。わかった」

 現実を受け止めた途端、菜穂子の目に涙が浮かぶ。

「菜穂ちゃん……」
「もう、いいよ」
「菜穂ちゃん!」
「いいってばっ」

 泣いている姿なんか、絶対に見られたくない。

 腕を掴もうとする真澄を避けた菜穂子は、そのまま部屋を飛び出した。