交際ゼロ日からの、契約結婚

 なぜがコイツ(耀太)祝賀会に!?と、心の中で舌打ちした菜穂子だが、よくよく考えてみれば、彼の勤務先は広告代理店だった。

 耀太は、外面だけはいい。きっとその特技を活かして、この祝賀会に顔を出したのだろう。契約を獲得するために。

 すっかり元カレの存在を忘れていた菜穂子は、冷や汗を垂らす。

 これがばったり街で顔を合わせてしまったという状況なら、睨んで、凄んで、もう一度「私の視界に入るな!」と警告すればいい。

 しかし今は、大事な取引先が主催している祝賀会の最中だ。素の自分だけは絶対に見せてはいけない。見せたら、事務所の将来が危うくなる。

「……江上君、ごめん。ちょっとお手洗い行ってくる」

 耀太が絶対に行かない場所は、女子トイレだ。とりあえずそこに逃げ込んで、対策を練ろう。

 短時間で結論を下した菜穂子は、身体の向きを変える。しかし、足を動かすことができなかった。

 なぜなら女子トイレに向かう進路に、純玲がいたのだ。

 あなた成人式?と尋ねたくなるような絢爛豪華な振袖姿で、招待客の注目を集めている。

 品よく微笑む姿は、これぞまさしく深窓の令嬢という感じだが、本物の深窓の令嬢はこんな人ごみの中にやってこない。

「承認欲求の塊ですか……!?」

 思わず口に出してしまった菜穂子の突っ込みに、航平が「何言ってるんすか?」という目で見てくる。お願い、そんな目で見ないで。

「早波さん、トイレ行くなら俺も──」
「やっぱ、お手洗い行きたいのは気のせいだった……うん、気のせいみたい。あ、ノベルティが展示されてるねー、見てこよっ」

 航平に事情を説明できない菜穂子は、彼の言葉を遮って再び身体の向きを変える。

 きっと航平の目には、自分はイタイ人間に見えるだろう。辛い。しかし、このややこしい状況を、一言で説明できるほど菜穂子は語彙が豊富ではない。

 それにしても所長の代理で祝賀会に出席しただけなのに、どうしてこんなにも追い詰められなきゃいけないのだろう。

 胸にくすぶる感情は、苛立ちなのか、怒りなのか、よくわからない。とにかく、視界に耀太と純玲を入れたくない。

 後を追ってくる航平に「どうか名前を呼ばないで」と祈りながら、菜穂子は、大股で歴代ノベルティが展示してある壁側に移動する。

 そしてやっと壁際に到着しようとしたその時──

「菜穂ちゃん!」

 耳になじんだ声は、間違いなく真澄のものだった。

 トクンッと、菜穂子の胸が鳴る。好きな人から名前を呼ばれるだけで、馬鹿みたいに胸が震えてしまう。

 でも、主催者であるH&Mデジタルの社長からフレンドリーに名前を呼ばれた結果、菜穂子は無駄に注目を集めてしまった。

 真澄が菜穂子に近づく毎に、穏やかに談笑していた招待客は表情を変えた。

 ざわざわと、どよめきが波紋のように広がる中、航平は菜穂子に視線を向ける。

「あの人、早波さんの彼氏ですか?」

 真顔で尋ねる航平に悪意はない。ただこのタイミングで、そんな質問をするなんて、彼はとんでもなく空気の読めない男である。

「え、あ……その……」

 恋人じゃなく、夫です。などと、この場で口にする勇気は、菜穂子にはない。

 返答に困った菜穂子は、もにょもにょと言葉を濁しながら身を隠す場所を探す。しかし、あるのは壁と展示品が置かれたテーブルだけ。

 困り果てた菜穂子はやむを得ず、航平の背後に移動した。

 会場にいる耀太にも、純玲にも、自分の存在を知られたくない。そんな思いから取った行動は、他に手がなかったとはいえ、最悪の選択だった。

 カツカツと、歩いていた真澄の足音が荒くなる。菜穂子が「あれ?」と思った時にはもう、真澄に手首を掴まれていた。

「おい、どういうつもりだ?」
「っ……!!」

 低い声で尋ねられ、菜穂子は息を吞む。言い訳も釈明もできないくらい、真澄はとても怖い顔をしていた。

 菜穂子の身体が、自分の意思とは無関係にビクッと震える。すぐに真澄は「しまった」という顔をするが、手を離してはくれない。

 ギュッと掴まれた手首も痛いが、周囲の招待客から注がれる視線も痛い。

 いたたまれない気持ちから、菜穂子はここにはいない所長に「騒ぎを起こしてごめんなさい!」と心の中で謝罪する。これは、完全なる現実逃避である。

 とはいえ、菜穂子が意識を余所に向けても状況が変わるわけがない。

 刑事みたいに鋭い眼光で自白を強要する真澄と、一人の女性に執着する社長の姿に、ある者は嫉妬を隠さず、またある者はゴシップ誌を読んだかのように目が爛々としている。

 そのどれもが菜穂子にとって苦痛で、逃げ出したいものだった。

「まあ……いえ、柊木社長、手を離して──」
「柊木社長?は?」

 TPOに合わせて呼び名を変えただけなのに、真澄は更に不機嫌になる。

 真澄がどうしてそんなに苛立っているのかも、怒りを露わにしているのかも、菜穂子は全然わからない。

 思い当たることといえば、祝賀会に参加することを黙っていたことだけだ。でも、隠していたからと言って、そこまで怒ることではないはずだ。

 ──もしかして、私がここに来たら都合が悪かった?

 ふと思ったそれは、予想以上に菜穂子の心を傷つけた。

「……しょ、所長が……急病のため、代理で出席させていただきましたが、気分を害してしまったようで……申し訳ございません……」

 震える声で謝罪した菜穂子は、真澄に頭を下げる。

 咄嗟に紡いだ言い訳は、我が身を守るための嘘でしかない。でも、真澄からこれ以上怒りを向けられるくらいなら、嘘つきになった方がマシだ。

「ご不快に思われたのなら、すぐに……退場します」

 だから、どうか私のことを嫌いにならないで。

 そんな気持ちで、再び頭を下げた途端、乱暴に腕を払われた。ナイフで胸を抉られた痛みが走ったが、次の瞬間、痛みは驚きに変わった。

 菜穂子の腕を払ったのは、真澄じゃなかった。隣にいた航平が、真澄に掴まれていた手首を無理矢理もぎ取ったのだ。