交際ゼロ日からの、契約結婚

 ──祝賀会前日。

 マンションの私室で、菜穂子は義姉の孝美から借りたクラッチバッグに、ハンカチやコンパクトケースをせっせと詰めている。

 そろそろ終わりに近づいたその時、メッセージの受信を知らせる音がスマホから鳴った。

 作業の手を止めて、菜穂子はスマホの画面を見る。メッセージの送り主は瑞穂だった。

『なほ姉、めっちゃ可愛い!これでいいと思うよ』

 伸びた猫のスタンプと一緒に送られてきた内容に、菜穂子はホッとする。

 大財閥の令嬢から明日の祝賀会の服装に太鼓判を押してもらえたので、これで気を揉まずに眠ることができそうだ。

 成人した大人が現役女子高校生に助言を求めることになったのは、ゴールデンウイークに遊びに行ってもいい?という瑞穂のメッセージから始まった。

 暦通りの休みだから、好きな時に遊びにおいでと返信した菜穂子に、おしゃれなカフェで真澄抜きでランチしたいと瑞穂から要望が届いた。

 なんて可愛い事を言ってくれるのだろう。テンションが上がった菜穂子は、それからスマホ越しに他愛のない会話を繰り返し、うっかり明日の祝賀会に参加することを伝えてしまったのだ。

 そこから「何を着ていくの?」「靴は?」「アクセは?」と質問が続き、律儀に答えたり写真を送ったりした菜穂子に、瑞穂がダメ出しをするという事態に陥った。

 その結果、菜穂子は急遽実家に戻って孝美の服を借りる羽目になったが、瑞穂の助言は的を得ていて、祝賀会未経験の菜穂子には有難い限り。これで当日恥をかかなくて済みそうだ。

「……ふぁああーー、寝よ寝よ」

 瑞穂に感謝の気持ちを伝えた菜穂子は、ゴロンとベッドに横になる。

 明日の祝賀会には、真澄も出席するだろう。

 だけど、これまで避け続けてしまったせいで、所長の代理で参加することを伝えていない。

 当日、自分の姿を見たら、真澄はどう思うだろうか。

「まぁ、別に何とも……思わないか……」

 天井を見上げて、菜穂子はつぶやく。

 仕事とプライベートを分けると豪語している真澄のことだ、きっと祝賀会の会場で自分の姿を見たとしても、ふぅんと頷く程度だろう。

 その光景をリアルに想像できるくらい、菜穂子は真澄との関係を築いてきた。

 けれど、会場で光り輝く彼の姿を目にした時、自分が平常心を保てるかどうかわからない。

「ああぁぁっ、もうっっっ!!……っ……!?」

 不甲斐ない自分に苛立って、菜穂子がベッドの上で暴れた瞬間、寝室の扉が叩かれた。

「菜穂ちゃん……どうした?」

 扉越しに聞こえる真澄の声は、心から菜穂子を案じているものだった。

「あ、ご、ごめん!ちょっとカマキリと戦う夢見たんだけど……寸前で逃げられて、悔しくって……!ほんとそれだけだからっ」

 我ながら馬鹿みたいな言い訳だと思うが、真澄は信じてくれたようで小さく笑った。

「勇ましい夢だな。じゃあ、おやすみ」

 真澄の声を追いかけるように、菜穂子はベッドから飛び出して扉の前に立つ。でも、扉を開く勇気までは出なかった。

「……うん、おやすみ」

 そっと扉に手を当ててそう告げれば、真澄は「ああ」と言ってくれた。

 遠ざかる足音を聞きながら、菜穂子は扉にこつんと額をつける。

 祝賀会に行くと伝える最後のチャンスを逃したことを悔やむべきなのに、真澄に心配されて嬉しいと思うなんてどうかしている。

 長い息を吐いた菜穂子は、ノロノロと足を引きずるようにベッドに戻った。

 H&Mデジタルの祝賀会は午後からだが、菜穂子と浩平は事務所に顔を出さず、祝賀会会場に直行する。これは、私用で代理出席を頼んだ所長からの、ささやかなお礼だ。

 とはいえ金曜日を丸一日空けると、翌週の進捗に響いてしまう。そこが菜穂子は気がかりだったが、稲富と渡辺がしっかりサポートすると言ってくれた。

 加えて、通勤服からフォーマル服に着替えをしなきゃいけないのは、正直言ってかなり面倒だ。

 そんな事情があり、菜穂子は自宅マンションでゆっくり身支度を整えて、電車に乗った。

「……ちょっと早かったかな」

 待ち合わせ時間の15分前に駅に到着した菜穂子は、キョロキョロと辺りを見渡すが航平の姿はない。

 航平は遅刻はしないが、いつも始業時間のギリギリに出社する。

 そんな勤務態度を知っている菜穂子は、どうせ今日も待ち合わせ時間のギリギリにしか来ないだろうと、高をくくってベンチに腰かけようとした。その時──

「早波さん?」
「はい?……あ、あ!もしかして江上君!?」

 背後から声をかけられたけれど、一瞬誰かわからなかった。

 少し間を置いて、航平だと知るや否や、菜穂子は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 それほどまでに、航平の姿は別人だった。

 待ち合わせ前に、美容院に行ってきたのだろう。もじゃもじゃ頭は短くカットされ、顔の輪郭がしっかりとわかる。髪型も前髪こそ少し長いが、くせ毛を活かしたふんわりセットで、パッと見ると爽やか好青年でしかない。

「……人って、ここまで変わるんだね」
「それ、褒めてるんですか?」

 露骨に嫌な顔をする航平に、菜穂子はふふっと笑う。

「うん。極上に褒めてる。江上君、いつもこうしてたらいいのに」
「……今日だけですよ。特別だから……月曜日からはいつも通りにします」

 ぷいっと横を向く航平は、完全に不貞腐れている。だが、見た目が良くなったせいで、その仕草も”可愛い”の一言で片づけられる。

「そっか。なら、私はイメチェンした江上君を見ることができてラッキーだね。ってか、偉い偉い」

 うんうん、と腕を組んで頷く菜穂子に、航平は「どこが?」と言いたげに胡乱気な視線を向ける。

「だってデザイン事務所の看板背負って来てる自覚があるでしょ?偉いよ。髪切って、ちゃんとパーティー仕様の服着てさ」
「それは早波さんだって同じじゃないですか。っていうか、俺、そんなに常識ないように見えます?」

 真顔で問う航平から、すかさず菜穂子は目を逸らした。