交際ゼロ日からの、契約結婚

 小さな物音の一つを拾って、菜穂子はパチッと目を覚ました。

 ベッドに横たわったまま視線を窓に向ければ、カーテンの隙間から、朝の日差しが差し込んでいる。

 のそり、と起き上がった菜穂子は、無意識にサイドボードに置いてあるエアコンのリモコンに手を伸ばす。でも、伸ばした手をすぐに引っ込めた。

「……暖房は入れなくて、いっか」

 いつのまにか、布団から出るのに気合を入れる必要がなくなった。

 ベッドから起きて、素足をフローリングの床につけても、痛みに近い冷たさを感じなくなった。

 ひっそりとやってきた春の気配を感じつつ、菜穂子は自室の窓を開ける。

 すぐに、ひんやりとした風が菜穂子の頬をなでるが、冬の尖った冷たさはない。若葉と花の香りを孕んだ柔らかい春の風だ。

「冬が終わっちゃった……」

 切ない声を出した菜穂子だが、花粉症ではない。ただ真澄と過ごす季節が減ってしまったことがほんの少し悲しいだけ。

 春が終わって、夏が終われば、秋になる。そうすれば菜穂子は真澄と離婚して、他人になる。

 そのわかり切った事実に、今更ながら後ろ髪を引かれてしまうのは大間違いだ。

 真澄が自分にプロポーズしたのは、一年後に後腐れなく離婚してくれそうだから。

 その理由を聞いた時、菜穂子は「何て身勝手な男なんだ!?」と呆れた。けれど、まさか自分が真澄にとって一番面倒だと思う存在になるなんて想像すらしなかった。

「でもさぁ……仕方ないじゃん……」

 春の霞んだ空を見上げて、菜穂子はつぶやく。

 思い返せば、好きになるきっかけは幾らでもあった。好きになるなという方が無理がある。

 そう開き直る半面、踏みとどまる機会もたくさんあった。それをしなかったのは、菜穂子の落ち度だ。真澄を責めるのは筋違いである。

 カタ……コト……と、扉の向こうで、真澄が朝の身支度をしている音が聞こえる。

 真澄に特別な想いを抱いてしまったことを自覚してから、菜穂子は意識して真澄を避けている。

 自分でもあからさまだと笑ってしまうが、二人っきりになってしまうと笑えない状況になりそうで怖いのだ。

 菜穂子は、ベッドに戻って枕元に置いてあるスマホを手に取る。画面に表示された時刻が、そろそろ出勤準備をしなければ遅刻だと告げている。

 思わず舌打ちしたくなるような無意味な苛立ちが募る菜穂子だが、大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。

 そして、よしっと気合を入れてリビングに続く扉を開けた。

「おはよ、菜穂ちゃん」
「っ……!」

 扉を開けた瞬間、今まさに出勤しようとしていた真澄と鉢合わせした菜穂子は、思わず息を吞む。

「あ、うん。おはよ……まあ君……」

 目を合わせず、ぼそぼそ声で挨拶をすれば、真澄からじっと視線を向けられる。

 それが辛くて菜穂子は、「あー寝坊したぁー」と独り言を呟きながら洗面所に駆け込んだ。

 すぐに背後から真澄が「行ってくるよ」と声をかけられたが、菜穂子は小声で「いってらっしゃい」と返すことしかできなかった。

*

 菜穂子が憂鬱な日々を過ごしていても、職場のデザイン事務所の経営はすこぶる順調だ。

 柊木グループから受けた仕事はこれ以上ないほど宣伝となり、今までコンペにすら参加できなかった企業からもお声がかかるようになった。

 そのおかげで忙しさは相変わらずだが、アルバイトを雇うことができたので仕事はこれまで以上のスピードで仕上げることができている。

 ただ受ける仕事量と事務所の広さが比例しないのが唯一の不満だが、貧困経営を経験しているスタッフは、当分このままでいいという見解だ。引っ越しする時間がないのも、現状維持を選んだ理由の一つでもある。

「おーい、みんなぁーちょっと手を止めてもらっていいかな?」

 夕方の追い込み時間だというのに、のんびりとした所長の声が事務所に響いて、スタッフ一同は手を止めずに、視線だけをそこに向ける。

 つまらない内容だったら、ただじゃおかないぞ。そんな視線を四方から注がれ、所長はやや怯えながら机の引き出しから封筒を取り出した。

「実はね、H&Mデジタルから祝賀会の案内状が届いたんだ」

 封筒の中身を取り出して見せる所長に、スタッフはカタカタとキーボードを叩きながら「おめでとうございます」と、雑な返事をする。

 すぐさま所長は、バンッと机を叩いた。

「ちょっと!みんなもっと真面目に聞いてっ。こっからが本題なんだからさっ」

 滅多にない所長の強い主張に、スタッフ一同はようやっと仕事の手を止めて聞く姿勢を取る。

「開催日は、来週の金曜日。ゴールデンウイーク前でバタバタだと思うけど、行きたい人!」

 希望者は手を挙げて、と所長は声をかけるが、誰も手をあげる者はいない。

 そんな中、アルバイトの水越美都(みずこし みと)がおずおずと挙手をしながら発言した。

「……あの、こういうのって所長が行くべきじゃないんですか?」

 誰もが思ったが口にしなかったことを発言できる美都は、青紫の髪色が斬新な19歳。いつか自分のブランドを立ち上げることを夢見る服飾系専門学校生だ。

 物怖じせず主張できるのは特技だ。いつか将来役に立つだろう。少なくとも今、スタッフの気持ちを代弁してくれたことには感謝している。

 一方、所長といえば──

「いやぁー、そうなんだけどさ、僕さ、ちょっとこの日……デートなんだよね」

 はにかみながらカミングアウトした所長は、頬も耳も赤い。

「あ、えっと……おめでとうございます」

 一番最初に祝福したのは、事務所イチ他人に無関心の航平だった。

 後に続いて稲富と渡辺も「おめでとう」と拍手を送る。無論、菜穂子も。

「それじゃあ、恨みっこなしでくじ引きで決めよっか」
「オッケー、割り箸あるよー」
「あ、印付けるの、このペン使ってください」

 稲富の提案に、渡辺がガサゴソと自分の机の引き出しを漁りだす。菜穂子は空気を読んで、ペン立てから油性ペンを渡辺に差し出した。

 それから15分後。公平なくじ引きの結果、H&Mデジタルから祝賀会の参加者は菜穂子と航平に決まった。