交際ゼロ日からの、契約結婚

 美佐枝が片手を振り上げた瞬間、菜穂子は余裕で避けることができた。けれど、あえて動かなかった。叩かれたという既成事実が、この先何かの役に立つかもしれないと思って。

 とはいえ、思いっきりビンタをされれば痛いだろう。覚悟はしているが、できることなら、明日のメイクに支障がない程度にしてほしい。

 そんなささやかな願いを抱きながら歯を食いしばり、ギュッと目を閉じた菜穂子だけれど、痛みも衝撃もやってこなかった。

 恐る恐る目を開けると、キッチンにいたはずの真澄の背中が視界に入った。

 あなた忍者!?と突っ込みを入れたくなる素早い動きをした真澄に驚く菜穂子だが、真澄が美佐枝の腕を締め上げているのを見て、言葉を失った。

「お前、今何をしようとした?」

 真澄の問いかけは、ぞっとするほど低い声だった。

「っ……!わ、私は……ぁ、あ……っ……」

 菜穂子から背を向けている真澄の顔は、余程恐ろしいのか、美佐枝は声を発しようと唇を動かしているが、言葉になっていない。

 純玲も同様に、先ほどの威勢の良さは消え失せ、カタカタと震えている。

「聞こえなかったのか?お前は、今、何を、しようと、したんだ?」

 わざと言葉を区切りながら再び問いかける真澄の背から、絶対に言い逃れなどさせないという強い意思が伝わってくる。

 これ以上、真澄を放置しては取り返しのつかないことになる。そんな予感がして、菜穂子はそっと真澄の背に触れる。すぐに真澄の肩が小さく震えた。

 その真澄の小さな変化に気づいた純玲は、すかさず美佐枝を庇う発言をする。

「ね、ねぇ……真澄さん、そこまで怒ることないでしょ?おばさまは、別に菜穂子さんのことを叩いたわけじゃないんだし」
「菜穂ちゃんを叩いていたら、俺はコイツを殺してた」

 純玲の主張も大概だが、真澄の発言は物騒が過ぎる。菜穂子がギョッとした瞬間、真澄は締め上げていた美佐枝の腕をパッと離した。

「あ……っ!」
「きゃ……!」

 バランスを崩した美佐枝が、純玲を巻き込んでソファに倒れこんだ。

 ついさっき家柄がどうのこうのとほざいていたくせに、折り重なるようにソファに倒れた二人は、上品さとはかけ離れた無様な姿だ。

 そのギャップが、菜穂子の笑いのツボを刺激する。でも、さすがにここで笑ったら人でなしだ。

「帰れ」

 背後で必死に菜穂子が笑いをこらえているとは知らない真澄は、美佐枝と純玲に冷たい声を出す。

 違う意味で、菜穂子も二人には即刻出て行ってもらいたい。

 その願いが届いたのか、美佐江と純玲はソファから立ち上がり、怒りと不満をない交ぜにした視線を残してマンションから出て行った。

 完全に美佐枝と純玲の気配が消えたのを確認した菜穂子は、あはははっとお腹を抱えて笑い出す。

 我慢してた分、無駄に声が大きくなり、おっさんみたいな笑い声だ。それがツボに入って更に笑うという謎の現象に、菜穂子は上手く息ができない。

「ひぃ、ぅ……っ……あはっ、あははっははっ……!く、苦し……!」
「菜穂ちゃん、落ち着け。とりあえず水飲め」
「う、うん……あはっ……っ……!」

 冷たい水が入ったグラスに口をつけた瞬間、また噴き出した菜穂子を、真澄は軽く睨む。お陰で笑いがおさまった。ありがとう。

「……ふぅ、死ぬかと思った……」

 水を一気飲みして落ち着きを取り戻した菜穂子は、真澄に視線を向ける。

 彼は何かに耐えているような表現を浮かべていた。

「あ、まあ君……怒ってる?」

 やらかした自覚がある菜穂子は、おずおず真澄に尋ねる。

「まさか」
「そう……?でも……なんかさ……」
「うん?」
「私に言いたいことがあるような気がして、さ……」

 先の言葉を紡げなくなった菜穂子は、真澄から逃げるように、空になったグラスをシンクに置こうと身体の向きを変える。その瞬間──

「逃げないで、菜穂ちゃん」
「っ……!!」

 腕を掴まれたと思った次には、真澄に息もできないくらい強く抱きしめられていた。

 驚いた菜穂子の手からグラスが滑り落ちる。

 幸いグラスが落ちた先はカーペットの上なので、トンッコロコロ……とくぐもった音を立てただけだった。

 割れなくて、良かった。いや、良くはない。この状況が。

「……ま……まあ君、くるし……」
「ご、ごめん」

 慌てて真澄は腕を緩めるが、菜穂子を自分の胸から開放する気はない。

「菜穂ちゃん……」
「なあに?」
「ありがとう」

 耳に注ぎ込まれた5文字に、真澄のたくさんの想いが凝縮されていて、菜穂子の胸が震える。

「俺、さ……」
「うん」
「今日のこと死んでも忘れない」
「っ……!」
「絶対に忘れない」

 心に深く刻むように言った真澄は、そのまま菜穂子の肩に頭を乗せる。

「菜穂子ちゃん……ごめん。少しだけこのままでいてくれ」

 嫌と言ったら、死んじゃうような声でお願いするなんて、ずるい。

 こっちは、真澄の髪が頬に当たってくすぐったいし、落ちたコップを今すぐに拾いたいし、智穂への罪悪感で胸がズキズキと痛むのに。

 ──もうっ、どうなってもわからないからね!

 踏みとどまるなら今しかないのに、菜穂子はブレーキをかけずに真澄の背に腕を回した。

「いいよ。好きなだけどーぞ」

 菜穂子のわざとらしい明るい口調は、最後の予防線だ。真澄がそれに気づいたかどうかはわからない。

 ただ真澄は、しばらく菜穂子の肩に顔を埋めたまま動かなかった。

 真澄が顔を上げたのは、コーヒーがすっかり冷めてから。そして菜穂子の片側の肩は、しっとりと濡れて冷たくなっていた。