交際ゼロ日からの、契約結婚

 智穂が去ったリビングで、菜穂子は美佐枝と純玲に視線を向ける。

「どうも、こんばんは」

 ご近所に挨拶するような菜穂子の口調には、親しみも敬意も畏怖もない。ただそこにいる人に、とりあえず声をかけたといった感じだ。当然、美佐枝と純玲の顔は険しくなる。

「あなた、なんなの?その態度は」
「菜穂ちゃん、おかえり。コーヒー飲む?」

 美佐枝の言葉を遮った真澄は、ソファから立ち上がると菜穂子にこれ以上ないほど甘い声を出す。純玲が悪い夢でも見ているような顔をするのが、ちょっと小気味いい。

「うん。あ、今日は牛乳も入れてほしいな。カフェラテの気分なんだぁー」
「わかった。ちょっと待ってて」

 日常的に真澄にコーヒーを淹れてもらっているようなやり取りだが、実は今日が初めてだ。

 でも美佐枝と純玲に、こういう光景を見せつけたほうがいいだろう。

 菜穂子はコートを脱ぎながら、意識して心底迷惑な顔を作って二人を見る。

「あの、まだ居るんですか?」
「なっ……!」
「え……?!」

 心外な顔をする美佐枝と純玲に、菜穂子は壁時計を指さす。

「もう7時過ぎてますよ。晩御飯の時間まで居座るのって非常識じゃありませんか?」

 だから、さっさと帰れ。

 菜穂子が何を言いたいのか理解した美佐枝と純玲は、酷い侮辱を受けたような顔になる。

 ──まぁ、素直に帰ってくれるわけないか。

 たった2回しか会ってないが、美佐枝と純玲がどんな人間なのか菜穂子はわかってしまっている。

 だから、次に取る行動も予測できる。

「私たちに”帰れ”ですって?よくもまあ、そんなことを……これだから」
「庶民の娘は礼儀がなってないとでも?」

 美佐枝の言葉を奪った菜穂子は、はんっと鼻で笑う。

「庶民でも、名家でも、招かれざる客は迷惑なのって同じですよね?」
「私たちが……招かれざる……客?」
「はい」

 食い気味に頷いた菜穂子は、歩を進めてソファに座っている美佐枝と純玲の前に立つ。

「私の夫を侮辱する人は、全員招かれざる客です。親だろうが、自称婚約者だろうが、そんなの関係ありません」

 仁王立ちになって宣言した菜穂子は腕を組んで、再び口を開く。

「美佐枝さん、私の夫のどうすることもできない部分を責めて何が楽しいんですか?母親が芸者だからなんなんですか?はっきり言って私は、あなたが実の母親じゃなくってマジ良かったねって、まあ君に言ってあげたい気分です」
「なっ……なんて、ことを……!」

 ワナワナと怒りで震える美佐枝に鼻を鳴らした菜穂子は、今度は純玲に視線を移した。

「あなたも、あなたです。まあ君の出自なんて気にしない?離婚歴があっても平気ですぅ?そこ気にする前に、既婚者に結婚をせまる社会性の無さを気にすべきでしょ?」

 息継ぎなしに菜穂子は一気に問いかけたが、純玲は何も言わない。ただその目は、ギラギラと殺気立っている。

 それこそ近くにナイフがあったら刺されそうな危機的状況だが、菜穂子は純玲を煽るように、ニッと片方の口の端を持ち上げた。

「あと、まあ君と結婚したいって言ってるけど、あなたは大財閥の御曹司っていう肩書の男と結婚したいだけでしょ?違うの?」

 重ねた問いに、純玲は答えなかった。けれども「あなただってそうなんでしょ?」と、嚙みつくように菜穂子を問い詰めた。

 これが自滅の第一歩とも気づかずに。

「まさか。私、まあ君が今すぐ無職になってもいいですよ。っていうか、別に風呂なしアパートに住んでも平気ですし」

 なにせ庶民なんで。と、菜穂子が心の中で付け加えれば、純玲はあからさまに、驚いた顔をする。素直かっ。

「金持ちと結婚すれば幸せになれるっていう考え、浅はか過ぎますよ。結婚相手って、肩書で決めるものじゃなくって、どんなに辛いことがあっても、どれだけ年月が経っても、揺らぐことがない決定的な理由が必要なんだと思います」

 言い終えて、菜穂子は本当にその通りだと思う。

 あの日──真澄からのプロポーズを受けたのは、無条件に菜穂子の味方になってくれたからだ。

 スチール缶を片手で握りつぶせる握力にドン引きすることなく、浮気された馬鹿な女だと同情することも、憐れむこともなく。

 それは菜穂子にとったら救いだった。真澄の前では、自分を偽ることも、飾る必要もない。

 真澄に出会うことがなかったら、菜穂子は次の恋人にも素の自分をさらけ出せなかっただろう。ずっとずっと、相手が望む女性を演じ続けていたはずだ。

 でも、そんな風に無理する必要はない。ありのままの自分を肯定してくれた真澄の存在は、菜穂子にとって希望にすら近かった。

「あなたのように肩書でしか人を見れない女性に、まあ君は不釣り合いです。二度と彼との結婚を望まないでください」

 声高々に菜穂子が宣言すれば、美佐枝が「いい加減にしなさい!」と怒鳴りながら立ち上がった。

「好き放題言ってますけどね、あなたにとやかく言われる筋合いもなければ、言う権利もないのよ、菜穂子さん!」
「いや、ありますよ」

 唾を飛ばしながら叫ぶ美佐枝とは対照的に、菜穂子はどこまでも冷静だ。なぜなら──

「私は柊木真澄の妻、柊木菜穂子ですから。婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立します。この国に住んでいる以上、金持ちだろうが、貧乏人だろうが、第三者が私たちの結婚に口出すことはできません。あれ?学校で習いませんでした??」

 無教養なんですねぇーと言いたげに、菜穂子は最後はキョトンと首を傾げた。

「あ、あなた……!」

 言葉すら満足に紡げないほど怒り狂った美佐枝は、顔を真っ赤にして菜穂子に詰め寄る。そして片手を大きく振り上げた。