交際ゼロ日からの、契約結婚

「──だからね、真澄さん。あの人(・・・)のことだけど、いい加減、お別れしてもらえないかしら?」

 今まさにリビングに続く扉を開けようとした菜穂子の手が、ピタッと止まる。

 美佐枝の言った”あの人”とは、おそらく自分のことだろう。

「あなたの結婚は、個人的な感情でできるものじゃないのはわかっているでしょ?こう言ったらあれだけど……あの人の家柄はうちには不釣り合いだわ」

 言い終えて美佐枝は小さく笑った。それは早波家を蔑む笑いで、続いて笑った純玲も同じ声音だった。

 確かに菜穂子の実家は、名門じゃない。それどころかグレーゾーンに片足を突っ込んでいた過去がある。

 それでも他人から笑われるような家じゃない。脛に傷があることを認め、隠さず、支え合い、信頼し合って生活している自慢の家族だ。

 ──……潰すか?

 細腕の女二人なら、余裕で勝てる。そんな物騒な考えが菜穂子の頭によぎった瞬間、真澄が笑った。

 世界中の人間を馬鹿にする冷笑だった。

「不釣り合い?それはそうでしょう。菜穂ちゃんの家は、うちと違ってですから」

 ドア越しに言った真澄の言葉を、菜穂子はすぐには理解できなかった。

 彼が、自分を擁護してくれていることに気づいたのは、瞬きを3回してからだった。

「菜穂ちゃんの家は、思いやりがあり、温かく、素晴らしい家庭です。はっ、うちとは違って」

 最後に真澄が言い捨てた言葉には、菜穂子には理解できない含みがあった。

 これ以上、立ち聞きしては、柊木家の闇に触れることになる。それは真澄に対して失礼だから、立ち去るべきだ。そうわかっているが、菜穂子はこの場から動けない。

「あなたがこの女との結婚を望むのは、あなたの私利私欲のためだ。俺には何の利点も利益もない。今すぐ帰ってくれ」
「いいえ、帰りません」

 はっきり拒絶したのは、美佐枝ではなく純玲だった。

「私は、今でもあなたの婚約者です。会長は、そう仰ってくださいました」
「俺は既婚者だ。婚約者なんていない」
「離婚すればいいだけではありませんか。私はあなたに離婚歴があっても気にしません」
「お前、頭大丈夫か?」

 声のトーンからして、真澄は純玲の発言にドン引きしている。怒りを忘れるほど。菜穂子も、真澄と同じ気持ちだ。

 正月の宴での純玲は、裕福な暮らし故の傲慢さが見え隠れするあざとい女性だった。しかし、扉の向こうにいる彼女はそれに加えて、真澄に並々ならぬ執着を持っている。

 そして菜穂子が思っているより、図太い神経の持ち主だった。

「心配してくれてありがとうございます、真澄さん。私は正気です。それと今の私の発言は、私個人の感情からではなく、私の家と柊木家の総意からだということもお忘れなく」
「それは警告か?」

 すかさず問うた真澄に、純玲はふふっと笑い声を漏らす。

「まさか。賢いあなたなら、誰を妻にするのが正解なのかわかってくれますよね?」

 既に答えを知っているような純玲の口ぶりに、菜穂子の心臓がドクンと跳ねた。

 瑞穂から聞いた話では、純玲は医者の娘で、政治家とか有名企業とも繋がりがある正統派令嬢だ。

 真澄と純玲の婚約は美佐枝が一方的に進めたらしいが、今の話を聞く限り、柊木家が満場一致で望んでいることなのだろう。

 確かに庶民の菜穂子と結婚するより、純玲と結婚する方が得るものはあるだろう。

 しかし真澄が、そういった理由で結婚相手を選ぶわけがない。だって彼は、もう既に心に決めた人がいるのだから。

「……ああ。あんたの言う通り、俺は正解がわかっている。俺が妻にしたいのは、あんたじゃなく菜穂ちゃんだ」
「なっ……!」

 悲鳴に近い声を上げた純玲に続いて、美佐江が「ちょっと、真澄さん!」と抗議の声を出す。

 そんな中、廊下にたたずむ菜穂子は、片手で口を押さえながら、冷や汗を垂らす。

 だって今の真澄の言葉は、キッチンにいるだろう智穂にも聞こえているはずだ。なんでわざわざ誤解を招く発言をするのだろう。

 どうせ自分達は、近いうちに離婚する関係だ。もっと他に言いようがあったはずなのに──

「真澄さん、いい加減にしなさい!純玲さんを傷つけるなんて、失礼にも程があるわっ。今すぐ謝りなさい、さあ!」
「断る」
「断るって……真澄さん、それが許されると思ってるの?」
「ああ」

 責める美佐枝に対して、真澄は徹底して謝罪を拒んでいる。その態度は、菜穂子が知っている真澄じゃなくて、少し怖い。

 菜穂子が無意識にゴクリと唾を吞んだ瞬間、再び美佐江が口を開いた。怒りでも怯えでもなく、呆れ切った声音で。

「はぁー……やっぱり、こういう時に育ちがでるものね。芸者に産ませた子なんて、所詮、柊木の子ではなかったのよ」
「おばさま、そんなことをおっしゃらないでください。確かに真澄さんの生い立ちには傷がありますが、私はそんなこと気にしてません。それに私と結婚すれば、真澄さんも周りから認めてもらえると──」

 ──バンッ!!

 聞くに堪えない美佐江と純玲の発言に、菜穂子の堪忍袋の緒が切れた。気づいたら、リビングに続く扉を豪快に開けていた。

「ただいま、まあ君」

 唖然とする美佐江と純玲を無視して、真澄に声をかけた菜穂子は、次いで智穂を目で探す。

 予想通り智穂はキッチンにいて、菜穂子と目が合うと、なぜかホッとした顔をする。てっきり「なぜ戻ってきた?」と責められると思ってたのに。

「それでは私は時間になりましたので、これで失礼します」

 戸惑う菜穂子をよそに、智穂は礼儀正しく一礼するとエプロンを外す。

 そして菜穂子に「後は任せた!」と言いたげな笑みを向けると、コートとカバンを持ってそそくさと玄関に向かってしまった。