交際ゼロ日からの、契約結婚

 年が明けても、菜穂子が働くデザイン事務所は目が回るほど忙しい。

 いや、これまで受けていた小案件とノベルティの納期に加え、ヒイラギフーズから新規依頼も加わり、年が明けてからの方が遥かに忙しくなった。

 あまりに忙しすぎて求人をかける暇もなく、スタッフの机の上には栄養剤の空き瓶が並び、最終的になんかもう皆、変にハイテンションになりながら一つ一つ案件を処理していった。

 そうして2月もあと数日といった今日、やっとノベルティデザインの納品が完了し、ヒイラギフーズからの修正依頼も先方から及第点を貰えることができた。

*

 ホワイトボードにデザイン案がペタペタと貼られたままだし、ヒイラギフーズからサンプルでもらったカップラーメンの段ボールが山積みになったままだけれど、菜穂子が働くデザイン事務所は、今日は定時で業務終了だ。

 しかしスタッフはまだ帰らない。各自、紙コップに好きな飲み物を入れている。

「全員紙コップ持ったかい?じゃあ、ひとまず皆お疲れ様。それと最後まで気を抜かず、明日からも頑張ろう!かんぱーい!!」
「かんぱーい!」

 所長の音頭で全員、コップを掲げると、スタッフ同士で紙コップを合わせていく。

「いやぁー、ここの家賃の支払いに困らない日が来るなんて夢みたいだよ」

 ほわほわと夢心地でそんな事を言う所長だが、紙コップの中身はウーロン茶だ。

 ちなみに菜穂子を含めたスタッフも、中身は違えどノンアルコールの飲み物を飲んでいる。

 しかしアルコールの力を借りなくても、一山超えた今日だけは十分に酔える。

「早波さん、ほんとありがとう!うちの子、来年大学受験だから転職しないですんで助かったわー」
「あたしも!親権取るのに無職じゃ厳しかったから、めっちゃ感謝してる!」

 両脇からバツイチシングルマザーの稲富と、バツイチシングルマザー志望の渡辺から感謝の言葉を貰ったけれど、内容がちょっとディープで菜穂子は嬉しさより、安堵の方が大きい。

「お役に立てて光栄です」
「もぉー謙虚なんだからぁー」
「そういうとこ、ほんと好き!」

 稲富からハグされ、渡辺から頭を撫でられた菜穂子は、へへっと照れ笑いをしてしまう。やっぱりあの日、打ち合わせをすっぽかさなくて大正解だった。

「ねぇ早波さん、良かったらこれを機に、もうちょっと専門的にデザインの勉強をしてみたらどうですか?」

 唐突にそんな提案を口にしたのは、デザイン事務所で最年少──21歳の江上航平だった。

 物静かな性格で、几帳面。仕事は丁寧だけれど、人付き合いが苦手。中肉中背で、もじゃもじゃ頭に眼鏡の彼は、典型的な職人タイプで、今日も大人しく壁側の自分の席でオレンジジュースを飲んでいる。

 航平はこれまで、事務所内で揉め事を起こしたことはなかったけれど、積極的にスタッフと関わろうともしなかった。

 それなのに急に、菜穂子に対してフレンドリーな態度を取ったので、事務所は波を打ったかのように静まり返ってしまった。

「えっと……僕、なんか変なこと言いましたか?」

 沈黙に耐え切れなかったのか、周囲に問いかける航平の声は若干不機嫌だ。事務所内の空気が、更におかしくなる。

 その空気に今度は、菜穂子が耐えられなくなった。

「あ、ええっと……江上君、変なことは言ってないよ。ただ驚いちゃっただけ」
「驚く?なんで?」

 不思議そうな顔になる航平に、菜穂子は言葉が詰まる。正直、こっちのほうが「なんで?」と尋ねたい。

 稲富と渡辺も菜穂子と同じ気持ちのようで、困り顔になっている。

 そんな中、所長だけは孫の成長を喜ぶ祖父のような顔になっていた。

「うんうん、江上君も大人になったねぇ。他人の頑張りを素直に認めることができるなんて」
「え?」
「はぁ?」
「はぁー!?」

 所長の突拍子もない発言に、菜穂子たちは目を丸くする。これのどこが大人の態度なのか?どこを素直に認めているのか??

 三人とも理解できない顔をしているが、江上はなぜか図星を刺されて照れ顔になる。

「今回のことでわかったけど、早波さんって発想力あるし、クライアントの望むイメージを正確に読み取れるし、変更依頼が多くても絶対にキレたりしないし、僕たちの意見もちゃんと先方に伝えてくれる。あとは専門的な知識があれば、アシスタント卒業して単独で仕事を受けれると思うんだよね」

 饒舌になった航平は、本当に我がデザイン事務所の航平なのだろうかと、この場にいた誰もが思った。所長さえも。

 そんな驚きを抱えながらも、菜穂子は真澄と離婚した後の自分を想像する。

 これまでは、元の生活に戻るだけだと思っていたが、違う未来があることに胸がドキドキする。

「夜間で通える学校とか……調べてみます」

 口に出してみて、菜穂子は変な気持ちになる。

 自分の可能性が広がって嬉しいはずなのに、真澄と別れることに現実味を帯びてしまい、胸がほんの少しだけ苦しい。

「あら、早波さん、学校なんて行ってていいの?」

 心配そうに顔を覗き込んできた稲富に、菜穂子は首を傾げる。事務所的に何か不都合があるのだろうか。

 不安になる菜穂子だが、そういったジャンルではなかった。

「早波さん、昼間仕事して夜は学校ってなると、彼氏から嫌な顔されちゃわない?」
「っ……あ、これは……」

 稲富から左の薬指にはめられた指輪をツンツンされ、菜穂子は焦る。

 今日まで職場は多忙を極めていたので、指輪のことは誰にも触れてこなかった。事務所はアットホームだが、各自のプライベートにはいい意味で無関心だ。

 そういった環境のせいで、菜穂子は完全に気を抜いていたが、ちゃんと気づかれていた。ただ結婚指輪ではなく、ペアリングと思われていたことは喜ぶべきなのだろうか。

「稲富さん、心配する気持ちはわかるけど、これ以上は早波さんが決めることだからね」

 立場上、菜穂子がしれっと既婚者になったことを知っている所長は、菩薩のような顔で菜穂子に助け舟を出す。できた上司だ。

「所長も、稲富さんもありがとうございます。江上君もアドバイスありがとう。ちゃんと後悔しないように考えてから決めます。えっと、かなり前向きに……」

 彼氏の話題に触れないよう言葉を選びながら菜穂子は、二人に向け小さく頭を下げる。

 そうすれば、なぜか渡辺から「スキルアップを邪魔する男なんて付き合う価値はないよ」というアドバイスが飛んできた。

 耀太と付き合っていた頃なら有り難く受け取るが、今は上手に受け止めきれない。

 自分でも戸惑うほど複雑な心を抱えた菜穂子は、また頭を下げて誤魔化すことしかできなかった。