交際ゼロ日からの、契約結婚

「……菜穂ちゃんさ、俺と結婚して良かったって言ってくれたんだよ……」

 口元に手を当てながら呟く真澄は、歴史を揺るがす事件があったかのような口調だ。

 一方智穂といえば、憐みの表情になる。

「それは良かったね。でも、水を差すようで悪いけど、それって恋愛感情から言ってるわけじゃないような気がするんだよね、私……」
「ああ、そうだ。別れた男に対して未練を持たずにいれた感謝の気持ちだ」
「そっか。感謝かぁ……」
「何度も口説いて振られた俺が、菜穂ちゃんの恩人になれたんだぞ?すごい快挙だ。でもなぁ……」

 自画自賛していた真澄だが、急に表情を曇らせた。

「俺さ、今回の人生って、これまでと真逆のことばかりやってるんだ。そのおかげで菜穂ちゃんと結婚できたのかもしれない。でも、本当にこれで合ってるのかわからないんだ」

 そこまで言って、真澄は部屋のベッドにどさりと座る。

「俺の知らないトリガーがまだあって、それを知らず知らずのうちに引いてて、ふっと気づいたら、また9歳の自分に戻ってるかもしれない。それが……すごく怖いんだ……」

 夜寝て、目が覚めたら、この生活が終わっているかもしれない。そんな不安を抱えて、真澄はもうずっとロクに寝ていない。

 慢性的な寝不足は、判断力を鈍らせる。今日だって思い返せば、菜穂子に不必要に触れていた。あのまま一緒にマンションに戻ったら、手を出さない自信はなかった。

 過去、何度も人生を繰り返すことに疲れた真澄は、浴びるほど酒を飲んで異性を抱いてしまったことがある。

 酷い後悔に襲われ、抱いた女性から背を向けた瞬間、真澄は9歳の自分に戻っていた。

 あれ以来、真澄は酒を一滴も口にしていない。

「ところで智穂さん、なんか収穫あった?」

 ネガティブな気持ちを無理矢理押さえ込んだ真澄は、智穂に視線を向けた。

 これほど書類の束を持ち帰ってきてくれたのだからと、多少の期待を込めて智穂の返事を待つ。

 しかし、返ってきたのは望まぬものだった。

「ごめん……結論から言うと収穫は無し。強いて言うなら、うちの実家周辺の地域による影響?呪い?そういうのじゃないってことは間違いない。これが収穫かな」
「……そっか」

 気落ちする真澄に、智穂は「コーヒー飲む?」と尋ねる。

 よほど落ち込んでいるのか、真澄はベッドに倒れこんだまま微動だにしなかったが、しばらくして「飲む」と小声で言った。

「真澄君はさ、最初の人生って智穂ちゃんとどんな夏休みを過ごしてたの?」

 そう言いながら智穂は、淹れたてのコーヒーを飲めと真澄に押し付ける。

「どんなって……別に普通だよ。絵をかいたり、虫取ったり、河原で石を選んだり……なんでそんなこと訊くんだ?智穂さん」
「んー?そこにヒントがあるって思ってるから」

 唇に手を当てながら、智穂は自分の推測を語りだす。

「真澄君が何度も人生を繰り返すのって、一番最初に何か(・・)をしたのが原因だと私は確信している」
「ああ、それは俺も同感だ」
「で、その何か(・・)なんだけど……真澄君は何度も人生を繰り返してるけれど、気づいていないんじゃない?」
「いや、気づいている。俺は、菜穂ちゃんとの約束を守るために、人生を繰り返している」

 夕日に染まった境内で、菜穂子と真澄は結婚の約束をした。

 誰もいない神社は葉擦れの音だけが響いて、菜穂子の声はとても鮮明だった。聞き間違うことなど絶対にない。

「大人になったら結婚しようって。そう菜穂ちゃんは言ってくれたんだ。その約束を守るために……守りたいから、俺はずっと同じ人生を繰り返してるはずなんだ」

 そうじゃなきゃ、こんな滅茶苦茶な人生耐えられない。

 そんな真澄の悲痛な気持ちを感じ取った智穂は、真澄の頭をぺちんっと叩く。

「あーもぉーイライラする!ウジウジしない!大の大人がショゲるな。まだ悪いことなんて何も起こってないんだから」
「智穂さん、痛い。手加減してくれよ……」
「わざと痛くしたの!ったく、私がこうして色々調べてるのに。とりあえず土地の影響はないってことなら、あとは真澄君と菜穂子さんが最初の人生で何か(・・)をしたってことでしょ?それがわかっただけでも進歩じゃん」
「まぁ……確かに」

 ちょっとだけ気持ちが浮上した真澄に、智穂はコーヒーカップを指さす。

「とりあえずコーヒー飲みな。冷めちゃうよ」
「……はい」
「全部飲み終わったら、まだ訊きたいことがあるから」
「わかった」

 素直にうなずいた真澄は、ゆっくりと時間をかけて智穂が入れてくれたコーヒーを飲み干した。