交際ゼロ日からの、契約結婚

 どれくらい抱き合っていたのだろうか。一瞬だったかもしれないし、ずっとだったかもしれない。

 真澄の胸の鼓動を聞きながら、自分の心の内を悟られないようにと祈っていた菜穂子は、ヴヴッ……という振動音を感じて我に返った。

「あ、スマホが」
「すまない、菜穂ちゃん。ちょっと失礼する」

 真澄は上着の内ポケットからスマホを取り出すと、菜穂子と少し距離を置いて電話越しの相手と会話を始めた。

 菜穂子といえば潮風に顔を当て、頬に集まった熱を散らす。

 ──な、なんか……すんごいことしちゃった……!!

 真澄が寒がっていたとはいえ抱きしめ合うなんて、自分はどうかしていた。

 彼には好きな人がいる。25歳の年上の女性を一途に想っている。自分もそのことをわかっていて、陰ながら応援していたのに。なんたることだ。

「……なかったことにしよう」

 そうだ。一刻も早く記憶から消すのが一番いい。

 真澄も、わざわざ智穂に今日のことを打ち明けたりなんかしないだろう。だから、これは──

「浮気じゃない」
「ああ、そうだ」
「はい!?」

 自分に都合のいいことを呟いた瞬間、背後から真澄の声が聞こえて菜穂子は勢いよく振り返る。

「あ……電話終わったんだ」
「ああ。言っとくが、電話をかけてきたのは藤堂だ。浮気相手じゃない」
「藤堂?」
「ヒイラギフーズの専務だ。宴にいただろ?一番隅に座っていた禿げたおっさんだ」
「隅にいた……おじさん……あ!」

 記憶を探っていた菜穂子は、すぐに思い出した。唯一、真澄に酒を勧めなかったまともな男性だ。

「思い出したか?まぁ……あの人は存在感が薄いからな。頭皮と一緒で」

 真顔で禿げネタを語られても、菜穂子はリアクションに困ってしまう。

 なにせ菜穂子の父哲司は年相応に髪が薄いし、兄の恭司は、哲司の頭部を見て自分の未来を悲観している。

 そんな理由から、菜穂子は曖昧な笑みを浮かべてることしかできない。

 菜穂子の複雑な心境を感じ取ったのか、真澄は表情を曇らせた。

「どうかしたのか?」
「あ、ええっと……柊木の本家さんでやらかしちゃったから、そのことで電話があったのかなって……」

 指をこねながら口にしたのは、菜穂子の心の隅で引っ掛かっていたことだ。

「まあ君に迷惑かけちゃったら嫌だな」
「ははっ」

 不安そうな顔になる菜穂子とは正反対に、真澄は心底おかしそうに笑う。

「もうっ、何で笑うの?」
「可愛いから」
「っ……!」

 ナチュラルにそういうことを言うのはやめてほしい。この人は、自分の顔の良さを、もっとちゃんと自覚するべきだ。

「駄目だよ、まあ君。智穂さんが聞いたら、また誤解されちゃうよ?」
「また?」

 智穂の名を出した途端、真澄は急に不機嫌になった。

「俺は智穂さんに対して、誤解を生むような発言をしたことはない」

 きっぱりと言われて、菜穂子は”真澄は無自覚に女性を翻弄する罪な男”だと断定した。

「ふぅーん、そうですか。はいはい」
「おい」
「そろそろ帰ろ、寒いんでしょ?風邪ひいちゃうよ」
「別に寒くは……わかった」

 一度は否定しようとした真澄だが、結局は頷いた。やっぱ寒いんじゃん。

「ところで藤堂さんの電話って……あ、私が訊いても良かった?」

 来た道を戻りながら菜穂子が口元に手を当てて尋ねれば、真澄は歯を見せて笑う。

「もちろんだ。っていうか、菜穂ちゃんに聞いてほしい」
「なあに?聞きますよ」

 歩く足を止めずに、菜穂子は腕を後ろに組んで、真澄に視線を向ける。

「さっきの宴で菜穂ちゃんが言ったカップラーメンのアイデア、本気で採用したいってさ」
「嘘!?」
「嘘じゃない。藤堂のヤツ、かなり乗り気で仕事始めに早速取り掛かりたいから、今から打ち合わせをしたいらしい」
「それはそれは……」

 お正月休みを潰すことになって、申し訳ない。

「私にできること……ある?」
「そうだな。強いて言うなら、今日は最悪泊りになりそうだから、実家に帰ってもらえるか?」
「あ、うん……」
「明日、迎えに行くからゆっくりしておいで。俺も挨拶に行きたいし」
「……そっか」

 でも、わざわざ実家に泊まる必要なんてないのに。菜穂子の実家に挨拶に行きたいなら、明日一緒に行けばいいのに。

 そんなことを一瞬考えてしまった菜穂子だが、もしかしたら帰省中の智穂が早めに戻ってくるのかもしれないと思い直す。

 真澄は、今夜は智穂と二人で夜を過ごしたいのだろう。なら、自分は邪魔者だ。

「わかった。じゃあ……お父さんたちに、まあ君が来ること伝えとくね」
「ああ、頼んだ」

 楽しんできてね、という言葉がなぜか言えなくて、菜穂子はちょっと胸が軋む。

「……今日は、色々あったけど楽しかった。ありがとう」
「俺も楽しかった」

 噛み締めるように呟く真澄の声音には、嘘は感じられない。

 でも菜穂子は「嘘つき」と唇だけを動かして、真澄に訴える。

 どうせ、気づかれないし、気づいてもくれないだろう。

 いつの間にか陽は落ちて、冷たい潮風が頬を刺す。なんだか「頭を冷やせ」と言われてるみたいだ。

 ──この結婚生活が早く終わってほしい。

 菜穂子はそう願いながらも、この結婚生活の終わりを考えるのに苦痛を感じ始めているもう一人の自分に気づいて、すごく嫌だった。