交際ゼロ日からの、契約結婚

 小春日の日差しを受けて、水面がキラキラと輝いている。

 寄せては返す波は穏やかで、まっさらな砂浜に足跡をつけたくなる──これが、夏ならば。

 海岸沿いに車を止めた真澄は、スーツ姿で車を降りる。続いて降りた菜穂子は、ダウンコート姿だ。

「うわぁ、寒いっ」

 車内から見た景色は非情に穏やかだったけれど、外に出ると思ったより風が強かった。

 これが着物だったら裾がはだけてしまい、すぐさま車に戻っていただろう。着替えてよかった。

 といっても、今、菜穂子が着ている服は、全て真澄からの贈り物である。

 ミステリーツアーの最初の目的地は、真澄の大学時代の友人が経営しているセレクトショップだった。

 正月休みにもかかわらず、急遽店を開けることになった店長は「お前じゃなかったら無視してた」とぼやいていた。

 でもその口調は明るくて、これが軽口であるのは、他人である菜穂子にもわかった。

 それからあれよあれよという間に、真澄は菜穂子の服から靴まで全て買い与えた。値札も見ずに。

 選ばれた品々は、どれも菜穂子の好むデザインだったので、嬉しい限りではあったが、一点だけでも、まぁまぁ値が張る。コートから靴まで買うとなったら、菜穂子にとっては大金だ。

 当然、菜穂子は全額負担はさせられないと訴えた。しかし真澄はそれを綺麗にスルーして、さっさと会計を終えてしまった。

 その後、店内の一室を借りて菜穂子は和服を脱いで着替えをした。脱いだ着物は、真澄が綺麗に畳んでくれた。

 着付けもできなければ、着物の扱いも全く知らない菜穂子は、心の底から申し訳なかった。

「菜穂ちゃん、こっちおいで」

 真澄に手招きされ、菜穂はトコトコとそこまで行く。

 すぐに真澄は、菜穂子の首に中途半端に巻いてあったストールを引き抜いた。

「ちゃんと巻かないと風邪ひくぞ」

 そう言いながらストールを巻き直す真澄の手つきは、ちょっとだけぎこちない。

「まあ君にも苦手なことがあったんだ」
「いじるな。こういうの、慣れてないんだ」
「……ふぅーん」

 嘘つき。という言葉を吞みこんで、菜穂子は海を見る。

「少し歩いてもいいか?」
「もちろん。あ、でも……まあ君は寒くないの?」

 菜穂子はダウンのロングコートを着ているが、真澄はスーツ姿だ。コートを着ていない。

「平気だ。寒くない。それよりも、早く行こう」
「う、うん……」

 真澄が寒くないというなら、寒くないのだろう。もし途中で寒くなったら、自分のストールを貸せばいい。

 そう結論を下した菜穂子は、真澄と肩を並べて歩き出した。

 誰もいない砂浜に、二人の足跡が描かれていく。

 ザァーザァーと繰り返す波の音と、微かに聞こえる車の行き交う音を聞きながら、菜穂子と真澄は、ゆっくりと歩く。

 時折、「雲の流れが速いね」とか「鳥がいるねー」とか見たままを菜穂子が口にすると、真澄は「ああ」とか「そうだな」と相槌を打つ。

 ついさっきまで、殺伐とした新年の宴に参加していたなんて嘘みたいに穏やかだ。

「まあ君、寒くはない?」
「菜穂ちゃんは?」
「私は平気。っていうか、歩いてたら暖まってきた」

 笑って答えたら、真澄は安堵の笑みを浮かべる。まるで、この時間を続けられることを喜んでいるかのように。

「とはいえ、手は冷たいな」
「そっか。なら、そろそろ──」
「そうだな。手を繋ごう」
「え?」

 なんで、そういう流れになるのかわからない。でも真澄は、「んっ」と言って菜穂子に手を差し出す。なんだよ、「ん」って!

「私の手も冷たいよ?」
「なら余計手を繋いだほうがいい」
「でも……あっ……!」

 躊躇う菜穂子の手を、真澄は奪うように繋いだ。

 一瞬、ヒヤッとなるが、じわじわと真澄の熱が手のひらに伝わってくる。

「……あったかい」
「だろ?」

 軽く眉を上げた真澄は、手を繋いだまま歩き出す。

 冬の日暮れは早い。夕刻にはまだ早いけれど、陽は既に沈みかけている。夕日が水面に反射して、とても幻想的だ。

 繋いだ手から、温もりが波紋のように全身に広がった菜穂子は、心も解れていく。今なら、言えなかったことも言える気がする。

「まあ君、私と結婚してくれてありがとね」

 菜穂子が言い終えたと同時に、真澄の足がピタリと止まった。