交際ゼロ日からの、契約結婚

 唾を飲むことすら躊躇われる空気の中、ぐすっ……と純玲が鼻をすする。

「ごめんなさい。私……呼ばれてないのに勝手に来てしまって。でも私、ただ……お二人を祝福したかっただけなんです。真澄さんを怒らせるつもりなんてなくって……ぐすっ……ぅう……」

 涙声でいじらしく訴える純玲は、見た目の綺麗さもあって、誰の目にも健気なお嬢様に見える。この演技力を活かして、女優にでもなればいいのに。

「おじさま、おばさま、私……お邪魔みたいなんで、これで失礼します」

 わざとらしく両手をついて真澄の両親に頭を下げる純玲は、絶対に引き止められるのを待っている。その証拠に、無駄にゆっくりと涙をハンカチで拭っている。

 その時間稼ぎが功を奏したのか、一人の女性が純玲を引き止めた。予想通り、美佐枝の姉だ。

「純玲さん、あなたが出ていく必要はないわ。出ていくべきは、あなたでしょ?菜穂子さん」
「え……?」

 まさかの指名にキョトンとした菜穂子に、美佐枝の姉は意地悪く唇を動かす。

「だってあなた、ここより厨房の方がいいのでしょう?浅ましくカップラーメンを食べていらっしゃったじゃない?まぁ、あそこの方が落ち着く気持ちはわかりますけど」

 この、庶民風情がっ。とでも言いたげに、ふふんっと笑う美佐枝に便乗して、客人たちもクスクスと菜穂子を嘲笑う。

 菜穂子といえば、まさかこのタイミングで暴露されるとは!と、冷汗を流す。カップラーメンを食べたことではなく、真澄に嘘をついてしまったことに。

「まぁ君、ごめん……あの──」
「そうか。試食してくれたのか。ありがとう、菜穂ちゃん。どうだった?我が社の新作の味は」

 パッと笑顔になって菜穂子の両肩を掴んだ真澄の目は、「俺のアドリブに合わせろよ」とギラギラしている。迷うことなく、菜穂子はこの演技に乗っかった。

「ええ。すごく美味しかったわ。まぁ君から急に試食を頼まれたときはビックリしたけど、さすがヒイラギフーズの新作ね!」

 パンッと両手を叩いて、菜穂子はカップラーメンを絶賛する。実のところ、食べたそれが、どこのメーカーだったかなんて覚えてない。

 でも容器は捨てたし、現場を目撃した美佐枝の姉はカップラーメンを庶民の食べ物と見下しているから、自社製品かどうかなんてわからないだろう。

 悔しそうに顔を歪める美佐枝の姉が小気味よく、菜穂子はついでにと、これまでずっと抱えていた願望を口にする。

「それでね、あのカップラーメンなんだけど……味は完璧なんだけど、途中で味を変える粉末とか液体を加えるのってどう?二度美味しく食べれたらお得じゃない?」
「ほう?」

 菜穂子の提案に、真澄は演技ではなく本気で食いついてきた。

「キムチとか粉チーズとか、定番のもアリなんだけど、あえてご当地の調味料を使うと珍しいから話題になりそう。あ!味変の粉とか液体を入れると色が変わるのも面白いかも。カップラーメンの麺の形が猫型だと可愛いけど……それはちょっと難しいか」

 菜穂子が口に出したアイデアは、全て早波家の願望だ。どれか一つでも叶えてもらえたら、早波一家は間違いなく喜んで買うだろう。

 そんな自信もあって、胸を張って提案する菜穂子に、真澄は眩しいものを見るように目を細めた。

「さすが俺の妻だ。惚れ直した」
「っ……!!」

 これは完全に不意打ちだった。

 演技とはいえ、イケメンからそんなことを言われた菜穂子は、赤くなる顔を両手を覆って隠すことしかできなかった。

 顔を覆った菜穂子の耳に、真澄が唇を寄せる。

「照れているのか?……可愛いな」
「っ!……っ……!!」

 フッと息まで吹きかけられて、菜穂子は死ぬかと思った。

「まぁ君……ちょっと!」

 小芝居とはいえ、やりすぎです!と、訴えるために菜穂子は、真澄のわき腹を肘で打つ。

 手加減なしにやったので、よほど痛かったのだろう。真澄が「うっ……!」と呻く気配が伝わってきた。

 でも今回に限っては菜穂子は謝らない。だって、そうさせたのは真澄だ。断じて、自分は悪くない。

 菜穂子は顔を覆っていた手を離して、真澄を軽く睨む。

 けれども、今回もまた返ってきたのは笑顔だけ。

「そうか、そんなに恥ずかしかったんだな。悪かった、君は人前で褒められるのが苦手だったのに。それにしても……たったこの程度、褒めただけで照れるなんて、俺の妻は実に謙虚だ。そう思いませんか?本田殿」

 同意を求められた本田は、ひぃっと声にならない悲鳴を上げる。ちなみに本田と呼ばれたこの男、美佐江の姉の夫である。

「……そ、そうですね……とても、謙虚で……素晴らしい奥様でございます」

 妻と御曹司に睨まれた本田は、家庭平和と出世を天秤にかけ……最終的に出世を選んだ。すぐさま、美佐江の姉の顔が般若のようになる。

「柊木家は今でこそ世間で大財閥と呼ばれるようになったが、順風満帆だったわけじゃない。家族の支えや協力によって、今の柊木グループがある」

 誰に、というわけではなく、ここにいる全員に向け、真澄は語り出した。