交際ゼロ日からの、契約結婚

「……庇わなくっても良かったのに」

 美佐江の姉の足音が完全に消えてから、瑞穂は菜穂子の着物の袖を握って呟いた。

「ん?私が勝手にやったことだから、そんな顔しないで。っていうか”覚えておきなさいよ”って台詞、私さぁ初めて聞いた。本当に言う人いるんだね」
「うん。なんか昼ドラみたいだったね」

 真顔で答える瑞穂と目が合い、二人は同時に噴き出した。

 それから中途半端に残ったカップラーメンを完食した美穂子は、厨房を漁って大きなおにぎりを二つ作る。

「カップラーメン食べちゃったお詫びに、これ食べて」
「……ありがとう」

 おずおずと受け取った瑞穂に「なんか言われたら、私に押し付けられたって言うんだよ」と付け加える。瑞穂は花がほころぶように笑って、頷いてくれた。

「あのね、私ね……お正月とかイベント日ってさ……大嫌いだったけど、なほ姉のおかげで、ちょっと好きになった」
「そっか。じゃあ、今度はひな祭りの時にうちにおいで」
「ひな祭りなんて、ずっと先じゃん……」

 拗ね顔になる瑞穂は、ギュッとしたくなるほど可愛い。

「いつでも来ればいいよ。あ、うちの住所わかる?」
「……知ってる。すみ兄が教えてくれた」
「なら、いつでもおいで」

 手を伸ばして瑞穂の頭を撫でたら、子猫のように目を細めてくれた。まったく大人の女性をメロメロにするなんて、罪な子だ。

「それじゃあ私は、そろそろ行くね」
「うん。ここを出て右にひたすら行って、突き当りを左に曲がったら”鶴の間”に着くから」
「つるのま?」
「……すみ兄がいるところ。伯母さんもいるし、多分……純玲も来てると思う」
「了解。教えてくれてありがと」

 心配そうな顔をする瑞穂に負担をかけたくなくて、菜穂子は笑顔で厨房を出る。

 しかし、やらかしてしまった自覚がある手前、その足取りはめちゃくちゃ重かった。

 瑞穂に教えられた道順で無事に鶴の間に到着した菜穂子は、大きく深呼吸をして襖を開けた。

「……あ」

 たった一言呟いて、菜穂子はそこから動けなくなる。

 真澄の隣──自分が座っていた席に、若い女性が座っていたからだ。

 週一で美容院でトリートメントしてるなと思わせる艷やかな髪をハーフアップにした女性は、品のいいワンピース姿で柊木家の皆と談笑している。

 違和感なく馴染んでいる若い女性は、襖から動けない菜穂子に気づいたけれど、席を立つこともなく再び柊木家に話しかけた。

 まるで「あんたの座る席なんかどこにもないわよ」と言いたげに。

 この人が、瑞穂が言っていた純玲という女性か。忠告通り、性格に難がありそうだ。

 そんなふうに冷静に分析していた菜穂子だが、客人達の視線に気づいて息を呑む。そこにいる全員が全員、菜穂子に敵意の視線を向けていたのだ。

 歓迎されていないのはわかっていたし、どうせ今年の秋に離婚するんだから気にしなくていい。そう頭では理解しているが、数で圧倒されるとなかなか堪えるものがある。

 一旦、落ち着こう。菜穂子は襖の縁を掴んで、目を閉じる。その時──

「菜穂ちゃん、遅かったな」

 優しく、馴染みのある声が降ってきて、菜穂子は目を開けて、見上げる。

「まぁ君……」
「あんまり遅いから、迎えに行こうかと思ってた」
「ごめんなさい。ちょっと……」
「謝らなくていいよ、菜穂ちゃん。責めてるんじゃない。俺が寂しかっただけだ」

 真澄がこれ以上ないほど甘い声を出した瞬間、鶴の間は水を打ったかのように静まり返った。菜穂子もあんぐりと口を開けてしまう。

 激甘ボイスで辺りをドン引きさせた自覚がない真澄は、呆然としている菜穂子の手を引き、上座に戻る。

「どけ。邪魔だ」

 さっきとは打って変わって冷たい声を出した真澄に、純玲は酷い意地悪を受けたような表情を浮かべる。

「……でも、私の座るところがなくなっちゃうわ……」
「なら帰れ。ここは菜穂ちゃんの席だ」

 更に冷たい声になる真澄に、純玲は口元に手を当て「ひどい……」と呟く。しかし、潤んだ目に、しっかり媚が浮かんでいるのを菜穂子は見逃さなかった。もちろん、真澄も。

 とはいえ、真澄の両親は、どこまでも純玲の味方をする。

「真澄さん、そんな言い方をしたら純玲さんが可哀想よ」
「そうだぞ真澄。新年なんだし、そんなに目くじらを立てるな。それに菜穂子さんだって、わかってくれるよな?」

 なぜここで自分に振る!?と、菜穂子は心の中でゲッと呻く。重矩が真澄の父ではなく、柊木グループの会長でもなければ、粋な返しをして黙らせることができる。しかし今は空気的に、無言を貫くのが妥当だ。

 僅かな時間でそう判断した菜穂子は唇を引き結ぶと、真澄にどうすべきか視線で判断を仰ぐ。

 視線を受けた真澄は、「わかっている。心配するな。ここは俺に任せろ」とでも言いたげに、力強く頷いた。

「呼んでもいないのに、勝手に来たお前の相手をしてやってたんだ。もう十分だろ?そんなにここに居たいなら、座敷の奥で大人しくしてろ」

 真澄が吐き捨てた途端、鶴の間の空気が凍りつく。円満解決を望んでいた菜穂子の顔も引きつった。

 しかし真澄だけは、自分の発言に後悔することなく平然としていた。