交際ゼロ日からの、契約結婚

 頬の熱が早く冷めるようにと祈りながら、菜穂子は真澄と日本庭園風の庭を通って玄関に入る。

 待ち構えていたのは武田信玄の甲冑と、真澄によく似た青年だった。

「兄さん、おかえり」
「……ああ」
「あと、あけましておめでとう」
「……ああ」
「外、寒かったよね。早く中に入って!みんな待ってるよ」
「……ああ」

 二十歳前後に見えるから、多分、真澄の弟なのだろう。

 塩対応の真澄にめげずに、必死に笑顔で話しかけている。よほどのお兄ちゃん子なんだろうと菜穂子は微笑ましい気持ちになる。

 とはいえ、いじらしいほど兄に愛を伝えている真澄の弟だが、菜穂子のことはガン無視だ。

「幹久」

 真澄が厳しい声で名を呼ぶ。途端に真澄の弟──幹久は笑みを消し、ビクッと身体を震わせた。

「彼女は菜穂子さん。俺の妻だ」

 肩を抱き寄せられた菜穂子は、とりあえず小さく会釈をする。

「はじめまして、幹久さん。菜穂子です」
「……どうも」

 ブスくれた幹久を見ても、菜穂子は寛容に微笑む。

 歓迎されないのは覚悟してたし、同じ兄をもつ者として、お兄ちゃん子の幹久は菜穂子にとったら、ただ可愛いだけである。でも──

「幹久、真澄さん。二人とも、こんなところで立ち話しないで中に入りなさい」

 そんなふうに声をかけながら姿を現したのは、色無地の着物に身を包んだ大輪の花のような中年の女性だった。話し方からして、おそらく真澄と幹久の母だろう。

 彼女もまた幹久と同じように、菜穂子を綺麗に無視して真澄にだけ笑みを向けている。

「母さん、紹介する。この女性は俺の──」
「あっ!いけないっ。持永様がいらっしゃったみたいだわ」

 パン!と手を叩いて真澄の言葉を遮った真澄の母親は、草履を履いて庭へと出ていってしまった。

 突風のように消えてしまった母親に真澄と幹久は唖然としているが、菜穂子は半目になっている。

 なぜならすれ違う瞬間、真澄の母親にこう囁かれたのだ。

「よく本家に顔を出せたわね。厚かましい……!」

 これは控えめに言って、宣戦布告である。

 真澄の母親からの全力の敵意は、殺意すら感じるものだった。とはいえ美亜は、事を荒立てるつもりはない。

 なぜなら真澄が、ものすごく怖い顔をしているからだ。

「……まぁ君、お怒りのところわるいけど、何のジャンルで怒ってる?」
「……言わせる気か?」
「……ううん、まさか。ただもし私のために怒ってくれてるなら、それいらないよって言いたかっただけで」
「そういう言い方をするな。菜穂ちゃんに失礼な態度を取るやつを、無視しろってか?ふざけるな。親だろうが、政治家だろうが俺は許せない」
「あ、持永さんって政治家だったんだ」
「気にするところは、そこか?」

 菜穂子の空気の読めない発言で、真澄はフッと笑った。

 反対に、幹久の顔は青ざめている。先ほど菜穂子をガン無視したことを、後悔しているのだろう。

「まぁ……アレだよ。まぁ君がいっぱい怒ってくれたから、私はなんかスッとした。ってことで、怒るのは次回にして。じゃあ行こっか。幹久さん、案内お願いできますか?」

 真澄に口を挟む間を与えず、菜穂子は幹久に笑みを向ける。

「どうぞ……こちらです」

 笑みは返してくれなかったが、幹久は嫌な顔はせずに菜穂子たちを客間へと案内した。

 幹久に案内された部屋は、宴会場みたいなだだっ広い和室だった。

 上座と下座がきっちり区別された席には、既に食事が用意されている。上座には、和服姿の中年男性が胡坐をかいて座っており、他は空いている。

 反対に下座の席は満席だ。夫婦で招かれた人もいるが、子供の姿は見当たらない。中年と初老の人たちが緊張した面持ちで、菜穂子たちに視線を向ける。

「おお!やっと来たか。待ちくたびれたぞ」

 場の空気を読まずに明るい声を出したのは、上座に座っている和服の男性だ。真澄に似ているから、彼は真澄と幹久の父親だろう。

「菜穂子さんも、立ってないでこっちに座りなさい。さぁ、ほら」

 てっきりここでも無視されると思っていたのに、手招きしながら笑みを向けられてしまい、菜穂子は面食らってしまう。

「行くぞ」
「……あ、はい」

 わずかに身を引いてしまった菜穂子を、真澄は緊張していると勘違いしたのだろう。菜穂子の背に手を添えて、父親の隣の席に向かう。幹久も後に続く。

 菜穂子たちが上座に着席すると、真澄の父は辺りをキョロキョロし始めた。

「あとは、美佐枝だけか。あいつはどこに行ったんだ?」
「持永様がお見えになられたそうで、出迎えに行ってます」
「ん?持永殿が……?今日は欠席と事前に連絡があったが」
「なら急遽、参加できるようになったのでしょう。あの人は、随分と慌てて外にでていきましたから」

 棘のある真澄の口調に、真澄の父親は困り顔になる。父と兄の会話を聞いていた幹久は、ハラハラしている。

 そんな中、菜穂子は言葉にできないほど複雑な気持ちになっている。

 真澄の母親は嘘をついてまで、菜穂子を真澄の妻だと認めたくなかった──そのことに真澄は、とっくに気づいていた。

 ──だから、あんなに怒っていたのか。でも……。

 合点はいったが、真澄がそこまで怒る理由が菜穂子にはわからなかった。