交際ゼロ日からの、契約結婚

「まぁ君、あの──」
「俺も着替えてくる」

 菜穂子に顔を見られたくなかったのか、真澄は足早で和室を去ってしまった。

「足りない……とか言わないでほしいんですけど……」

 夫が片想いしてるからといって不満そうにするどころか、二人のことを陰ながら応援しているというのに。

 これ以上、いったい何を求めているというのか。

「ちゃんと言ってよ、もう……」

 具体的にどうしてほしいか言葉にしてくれたら、真澄が望む通りにするのに。

 出会った初日、真澄は大切なクライアントだった。彼の機嫌一つで職場のデザイン事務所が消えるかもしれないから、とにかく顔色を窺っていた。

 でも今は軽口も叩けるし、着付けまでしてもらう間柄になってしまった。

 もちろん仕事中の柊木社長は厳しいところもあるけれど、彼は常に仕事とプライベートを分けている。マンションに戻って気まずい空気になることもない。

 大恋愛の末の結婚だって喧嘩ぐらいするはずなのに、真澄と菜穂子は一度も険悪な空気になったことはない。

 そうならないよう菜穂子は努力してるし、真澄だって同じ気持ちでいてくれる。クリスマスの時だって、通勤用にと上質な肌触りのストールを贈ってくれた。本当は、智穂と過ごしたかっただろうに。

 契約結婚なんだから、遠慮せずに素直な気持ちを口に出せばいいのに。

 真澄を見ていると、菜穂子はじれったい気持ちが爆発しそうになる。

「あーーーもぉーーーー!」

 堪えきれず奇声を発した途端、ガラッと和室の襖が開いた。

 最悪のタイミングで顔を出した真澄は、シックなスーツに着替えていた。

「……取込み中のとこ悪いが、こっちの準備はできたぞ」
「取り込んでませんが、準備できたなら行きましょうか……あっ」

 何事もなかったような顔をして玄関に向かおうとした菜穂子だが、真澄を見て小さく声を上げた。

 真澄のジャケットの胸元には、菜穂子が誕生日に贈った万年筆が差してあったのだ。

「使ってくれてるんですね」
「ああ」
「でも、今日は仕事休みなんじゃ」
「関係ない。これはお守りみたいなものだから」
「……はぁ」

 普段使い用にと贈った万年筆が格上げされて、菜穂子はリアクションに困ってしまう。

 でも、要らないと言われるよりよっぽどいい。

「ご利益の保証はできませんが、いっぱい使ってもらえて何よりです」
「ははっ、謙虚だな。ところで……外は寒いがこのまま出るのか?」

 はいそうです、と頷きかけた菜穂子だが、真澄が何を言いたいのか、なんとなくわかってしまった。

「そうですよね。寒いですよね……ええっと……ストール持ってきます」

 いそいそと自室に向かう菜穂子の背に、真澄の「そうだな、それがいい」という呟きが追ってくる。どうやら正解だったようだ。

 贈られたストールのデザインは、菜穂子の好みのど真ん中なので、遠慮せずに使えるのはありがたい。ただあまり親しくし過ぎると、距離感がバグりそうで怖い。

 そんなことを考えながら、菜穂子はストールを羽織って和室に顔を出す。

 鏡の前でネクタイを締め直していた真澄と、鏡越しに目があった。

「良く似合ってる」

 目を細めて微笑む真澄がイケメン過ぎて、菜穂子はブンッと音が鳴る勢いで顔をそむけた。

 それから真澄の運転で、菜穂子は都内の一等地にある大豪邸──柊木本家に到着した。

「なんか、老舗旅館みたい……」

 これ以上の表現が見つからず、あんぐり口を開ける菜穂子とは対照的に、真澄はコンビニに来たくらいの気楽さだ。

「庭だけでも、実家が三つ入る……」
「入れるな、比べるな」

 呆れ顔になる真澄は、外で待機していた使用人に車のキーを渡している。

 不思議に思った菜穂子がじっと見つめていると、真澄は「行くぞ」と先を歩き出す。

「まさかいつも駐車場に停めさせてるんですか?」
「いつもじゃない」

 へぇー、ふぅーん、そぉーですかぁーと、菜穂子は雑な返事をしながら、真澄を盗み見る。

「……お坊ちゃま」
「やめろ」

 心底嫌な顔をした真澄は、菜穂子の手をつないで歩き出す。

「真澄さん、あのぉー……」
「意地悪を言った罰だ。あと真澄さんってなんだ?」
「あなたのお名前です」
「いつも通りでいい」
「……そっすか」

 手を繋ぐのがなんで罰になるのかわからないし、呼び方だってこの場に相応しくない。

 けれども、緊張でガチガチになっている菜穂子には、真澄の手の温かさは有り難い。

「まぁ君、私ねヘタこかないように頑張るから」

 菜穂子が繋いだ手に力を入れると、真澄も同じくらいの力で握り返す。

「頼もしいな。とりあえず菜穂ちゃんにお願いしたいのは……」

 足を止めた真澄は、菜穂子と向き合う。男性にしては長くほっそりした指を伸ばして、菜穂子のほつれたおくれ毛を直しながら顔をグッと近づける。

「あまり飲みすぎるなよ」
「っ……!!」

 ドキッとしたし、ギグッともした菜穂子は、顔を赤らめながらぎこちなく頷いた。