交際ゼロ日からの、契約結婚

 入籍しただけで真澄の妻になった菜穂子だが、本来なら様々な手順を踏んで結婚するのがセオリーだ。

 まして大財閥の御曹司ともなれば、本来ならノリと勢いでの結婚なんて許されない。

 とはいえ離婚前提の結婚をした菜穂子に、常識を語る資格はない。それに、知らないまま事が過ぎる方がいい時も、この世にはある。

 菜穂子の実家は、真澄があいさつに来た時点で二人の結婚を認めている。

 現在は初孫誕生というビッグイベントを控えているので、「両家の顔合わせはいつ?」とか「式は挙げるの?」などという返答に困ることも訊いてこない。

 職場のデザイン事務所は、連日、大口取引の対応で目が回る忙しさだ。菜穂子が左手の薬指に指輪をしていても、誰も触れてこない。

 そんな事情から、菜穂子は仕事に専念させてもらっていた。内心「いいのかな?」と思うときもあったけれど、自分の立場上、その話題を口にするのには抵抗があった。

 しかし昨年の12月30日。真澄からこう言われた。

『すまない。逃げられなくなった……』

 元半グレの父親を持つ菜穂子は、血生臭いアレコレが頭の中で一瞬よぎった。

 しかしそういったジャンルではなく、元旦に柊木本家に顔を出さなくてはいけないという内容だった。

 迷うことなく「行く」と頷いた菜穂子を見た真澄の顔は、言葉では言い表せないほど複雑な顔をしていた。

 そんな経緯があり、元旦を迎えた今、朝食を食べ終えた二人は柊木本家に向かう準備をしている。



「──着物なんて、成人式以来だなぁ」

 鏡の前に立つ菜穂子は、長襦袢姿だ。すぐ後ろには、水仙柄の訪問着を広げている真澄がいる。

「そんなもんだろ。ほら、手」
「はーい」

 着物の袖を通すと、後ろから真澄に抱きしめられるような状況になり、菜穂子は自分の頬が赤くならないことを必死に祈る。

 真澄といえば、飄々としている。子供の服を着せている母親のような表情だ。

「まぁ君ってさ」
「なんだ?」
「できないことってあるの?」
「ないなら、菜穂ちゃんとこんな結婚してないさ」
「なぁーるほど」

 ふむっと頷いたら、真澄から「動くな」と叱責が飛ぶ。

 会話をしつつも真澄の手は止まらないから、シュッシュッと音を立てて襟を整え、腰ひもまで結び終えている。次は、帯だ。

 和服で訪問しなければいけないなんて、いかにも名家という感じだ。いかにも過ぎて、嫌だとゴネる理由すら見つからない。

 ただ一人で着物が着れない菜穂子のために、腕まくりをしながら着付けをしてくれている真澄に申し訳ない気持ちはかなりある。

「なんか手伝うことありますか?」
「手伝ってくれる気持ちがあるなら、動かないでくれ」

 真澄がつれない返事をしたのは、帯を締めるのに忙しいからか、暗に「邪魔するな」と言いたいのか。

 おそらく両方だろうという結論を下した菜穂子は、片手を上げる。

「はぁーい」
「こら、だから動くなって言っただろ!」
「……はい」

 人の気も知らないでと、心の中でぼやきながら、菜穂子は身体がブレないよう両足にグッと力を込めた。

 着付けが終わったのは、それからすぐだった。

「おぉ……すごい。別人みたいだ」

 鏡に映る自分をガン見する菜穂子に、真澄はクスッと笑う。

「気に入ってもらえたようで、何よりだ」
「綺麗に着せてもらってありがとうございます」
「綺麗に着せてやったついでに、髪もやるからちょっと待っとけ」
「はい……はい?あ、待って……!」

 それぐらいは自分でやると止めようとしたけれど、真澄はあっという間にダイニングから椅子とタオルなどが入ったカゴを持って、和室に戻ってきてしまった。

 鏡の前に椅子を置いた真澄は、菜穂子に顎で「座れ」と指示を出す。

「自分でできますよぅ」
「いいから、座れ」

 逆らえない圧を感じて、菜穂子はしぶしぶ鏡の椅子に腰かける。すぐ肩にタオルがかけられ、なんだか美容院にいるみたいだ。

「お客様、本日はどんな髪型をご希望ですか?」

 菜穂子の気持ちを察してくれたのか、真澄はイケメン美容師を演じてくれる。意外とノリがいいんだな、この人。

「そうですねぇー……お任せで!」

 考えるそぶりを見せたけれど、実のところ何も考えていなかった菜穂子は、真澄に丸投げする。

「かしこまりました。腕が鳴りますね」

 本当に指をゴキッと鳴らした真澄に、菜穂子は恐る恐る振り返る。

「……気合入れ過ぎじゃないですか?」
「入れ過ぎて困ることはないだろう?」

 あるような気がする……という言葉を菜穂子は吞みこみ、別の言葉を紡ぐ。

「お手柔らかにお願いします」
「ははっ、どうだろうな」

 笑いながら曖昧な返事をする真澄に嫌な予感がしたが、それから15分後──菜穂子の心配は杞憂に終わった。

「なんか、更に別人になって、もはや私がどこにいるのかわかりません」

 真澄の手によって髪を整えられ、化粧までされた菜穂子は、成人式の時より美しかった。

「ちょっとアップデートしただけで、大げさな。菜穂ちゃんはどこにも消えてない」
「アップデート?アップグレードの間違いでは?」
「そこまで大規模な変化はしてない」

 真顔で言われ、菜穂子は口をむぎゅっと閉じる。

 遠回しとはいえイケメンに、素材は悪くないと言われたのだ。女子としては、嬉しいに決まっている。

 でも真澄には、智穂さんという片想い相手がいる。素直に喜んだり、露骨に照れたりしたら、真澄が困ってしまうだろう。

 誕生日を二人っきりで過ごせなかった代わりに、クリスマスこそいい感じの時間を過ごしてもらおうと思ったけれど、智穂はインフルエンザになってしまった。

 そして、そのまま智穂は年末休暇に入ってしまったので、次に会うのは4日も先になる。

「まぁ君は、明日って何か用事ある?」
「いや」

 即答した真澄に、菜穂子は良案を思いつく。しかしその前に、真澄が口を開いた。

「言っとくけど智穂さんは県外に帰省中だぞ」
「……そぉっかぁー」

 お見舞いイベントは、好感度アップの大チャンスだったのに。

 がっかり感を丸出しにする菜穂子に、真澄は溜息を吐いた。

「前にも言ったけどさ。菜穂ちゃんさ、もう少し妻の自覚を持ってくれ」
「……持ってるよ?」

 自分のことを、夫の幸せを願う良き妻だと思っている菜穂子は、キョトンとする。

「全然、足りない」
「そう?」

 首を傾げる菜穂子に、真澄は無言で首を横に振る。

 その顔は苛立っているというより、悲しみとか、遣る瀬無いという表現がぴったりの表情だった。