交際ゼロ日からの、契約結婚

 夏休みの間、家族の元を離れて祖母の家で過ごす。

 それは幼稚園の年長になった菜穂子にとって、人生で初めての経験だった。

 5歳の子供なら、きっとすぐにでも帰りたいと泣くだろう。そう思っていた両親と兄の予想を裏切り、菜穂子は不安がるどころか田舎を満喫していた。

 どこまでも続く緑の絨毯と、青い空。青々とした稲は、風が吹くたびにザワワッと流れ、まるで見えない何かを運んでいるようだ。

 都会では見ることのできない風景や、鳥や虫。毎日外で遊びまわっても、必ず新しい発見がある。幼稚園も楽しいけれど、こっちのほうがもっと楽しい。

 できることなら自宅にこの田舎を運んでほしいが、それが無理なことは5歳の菜穂子だってわかっている。

「あ……!」

 河原で祖母へのお土産にと、綺麗な石を選んでいた菜穂子は、橋を見上げて声をあげる。

 誰もいないと思っていたのに、いつのまにか少年が橋の欄干に腰かけていたのだ。

 手に持っていた石をポケットに入れた菜穂子は、そこへ駆け足で向かう。

 近づいてみると、少年が背中を丸めて、スケッチブックに何かを描いていた。

「ねぇ、なぁーにかいてるのぉー?……ぅわぁぁーー!」

 菜穂子がひょいと覗き込んだ途端、少年はびくっとして欄干から転げ落ちそうになった。

 寸前のところでバランスを取った少年は、落下は免れたが、スケッチブックは下に落ちてしまった。

「ごめんなさい!あたし、すぐひろってくる!」

 悪気はなかったけれど、少年がスケッチブックを落としたのは自分のせいだ。

「いいよ、拾わなくて」
「だめ!おとしまえつけなきゃ」

 父親の口癖を真似た菜穂子に、少年は微妙な顔になる。

「本当にいいよ。あんなの──」
「じゃあ、いっしょにいこ」

 菜穂子は、少年に手を差し出す。

 お出かけをするときは、いつもそうしているからだ。でも少年は、菜穂子の手を握らない。

「僕は汚いから……触っちゃ駄目だよ」

 欄干から降りた少年は、大きく一歩後退した。その仕草は、菜穂子を拒絶するというより、拒絶されるのを怖がって自ら距離を置いているみたいだ。

 そんな少年に向かい、菜穂子はにぱっと笑う。

「だいじょうぶ!わたしもきたないから」
「え……?」
「さっきミミズをつかまえたの。あとセミとカエルも。ママはきたないっておこるけど、おばあちゃんはおこらないの。おにいちゃんは、なにをつかまえたの?トカゲ?クモ?」

 キラキラと目を輝かせる菜穂子に、少年は困り顔になる。

「そういう意味じゃなくってさ──」
「あっ、かぜでとばされちゃう!はやくいこ!」

 少年の言葉を遮った菜穂子は、強引に手を繋ぐと河原へと急ぐ。

「あのね、わたしね、はやなみなほこ。おにいちゃんは?」
「僕は──」

 名を告げた少年に、菜穂子は「女の子みたいだね」と言って笑う。

「じゃあ、おにいちゃんはきょうから、まぁくんね。まぁくんは、なほのおにいちゃんになったから!あしたも、なほとあそばなきゃいけないんだよ」

 菜穂子の強引な誘いに、少年──真澄は、少し間を置いて「うん」と小さく頷いた。

*

「……なんなん、これ」

 真澄と契約結婚して、始めて迎えた元旦。菜穂子は、そんな奇妙な夢を見て目が覚めた。

 ベッドからむくりと起き上がった菜穂子は、ふぁあぁぁーと大きな欠伸をする。

 新年早々、5歳の自分が子供の真澄と出会い、遊び相手に指名するという──怖いもの知らずの夢を見てしまった。

 妄想が生み出したそれは悪夢というより、懐かしい光景を目にすることができたので、目覚めは悪くない。

「まぁ君、可愛かったなぁー」

 ベッドから降りた菜穂子は、寝ている間に床に落ちたカーディガンを拾い上げる。

「私は私のまんまだったけどさぁ」

 カーディガンの袖に腕を通しながら、菜穂子は「ははは……」と乾いた笑い声をあげる。

 今朝見たのは、過去の出来事と、妄想がごちゃ混ぜになった夢だった。

 5歳の夏に、親元から離れて母方の実家で過ごしたのは事実だ。でもその時、菜穂子は真澄にも、真澄に似た男の子にも出会っていない。

 夢占いによると、田舎で異性と会う夢は、自分が異性に接する時、気を遣い過ぎていることを暗示している。

 結婚をして二か月が過ぎても、菜穂子は真澄に気を遣っている。とはいえ、そのせいじゃないだろう。

「やっぱ、アレを見つけちゃったからか……」

 そう言いながら、菜穂子はドレッサーの一番上の引き出しを開ける。そこには、古いクロッキー帳があった。

 年末の大掃除中にリビングの本棚で見つけたこれは、菜穂子のものではない。真澄の私物だ。智穂が断言したから間違いない。

 ドレッサーの椅子に座った菜穂子は、クロッキー帳を開く。繊細なタッチの鉛筆画が、最後のページまで描かれている

『真澄さん小学生の頃ね、隠れて良く絵を描いてたのよ』

 智穂から「内緒だよ」と教えてもらった時、菜穂子は失礼ながらキャラじゃないと思ってしまった。

 ページの全てに描かれている風景画は、田園風景が多い。きっと真澄の思い入れのある場所なのだろう。他にも、小川に橋が架かっている景色や、さびれた神社なんかもある。

 そのどれもが、菜穂子の祖母の家の近所に酷似している。とはいえ田舎の風景なんて、どこも似たり寄ったりだ。

「智穂さんの実家なんだろうな、ここ」

 真澄は、色々あって幼い頃に智穂の実家で過ごしていた。

 そこで絵を描くことを覚えたのか、絵を描くことしかできなかったのかはわからないが、菜穂子には真澄の寂しさが伝わってくる。

 もし仮に、孤独に絵を描いている真澄を見つけたら、菜穂子は絶対に放っておかないだろう。だから、あんな夢を見たのだ。

 そんな結論を下した菜穂子は、そっとクロッキー帳を閉じる。捨てられたら嫌だという思いから、つい部屋に持ち込んでしまったが、返すタイミングが見つからない。

 本人も忘れているようだから、このまま貰ってもいいかな?と悪い自分が囁くが、さすがにそれは駄目だ。

「うん。まぁ……そのうちに……近いうちに……」

 ブツブツと言い訳をしながらドレッサーの引き出しにクロッキー帳を戻した菜穂子は、部屋を出てリビングに移動する。

 まだ早朝なのに真澄は既に着替えて、リビングのソファでコーヒーを飲んでいた。

「あ、おはよ」
「おはよう。早いな」
「うん。なんか目が覚めちゃって。あ、あけおめ」
「明けましておめでとう」

 マグカップをローテーブルに置いて立ち上がった真澄は、菜穂子の前に立つ。

「今年もよろしく」
「うん。こちらこそ」

 新年のあいさつを終えた二人は、同時に溜息を吐く。

「……それじゃあ……朝食を食べたら準備をするか」
「……そうだね」

 今日は元旦。菜穂子も真澄も、正月休み中だ。

 だが仕事は休みでも、のびのびと休暇を満喫するわけにはいかない。

 これから数時間後に、柊木本家で新年の宴が控えている。