交際ゼロ日からの、契約結婚

 人の人生の長さは、それぞれだ。

 生まれ、死に──人は己の人生が、どれほどの長さだったかを知る。

 なら、何度も同じ時間を繰り返す人間の人生は、果たしてどこからどこまでを測ればいいのだろう。

*

「──ここでいい、止めてくれ。少し歩きたい」

 運転する山南に命じて車を停めさせた真澄は、ドアを開けて歩道を歩き始める。

 師走が近い街は、シャンシャンと鈴の音とクリスマスソングが流れ、緑と赤の飾りに溢れている。

 午後から降り出した雨は弱くなったが、その分、冷え込みは増した。そんな中でも、真澄の目には街を歩く人々は浮足立っているように見える。

「……そろそろか」

 足を止めた真澄は、おしゃべりに夢中になっている女子高生の一人の腕を力任せに引く。

 驚いた女子高生が小さく悲鳴を上げるのと、キキーッ!と耳をつんざくような鋭い車のブレーキ音が重なった。

 真澄と女子高生の目の前に、歩道に乗り上げた軽自動車がある。

 あとちょっと真澄が女子高生の腕を引くのが遅かったら、女子高生は間違いなくこの軽自動車の下敷きになっていただろう。

 そんなことが容易に推測できるほど、至近距離で車は急停車した。

 フロントガラスの向こうにいる高齢男性の運転手は、青ざめた顔をして小刻みに震えている。だが、幸いにも怪我はないようだ。

「大丈夫か?」

 真澄は腕を離しながら、女子高生に声をかける。

「……あ、う……ん」

 間の抜けた声を出す女子高生は、まだ現状を把握できていないのだろう。ポカンとした表情で、真澄を見つめている。

「大丈夫みたいだな。では、失礼」

 女子高生の視線から逃げるように、真澄は背を向ける。

 そして、何事かと歩道に集まる人の流れに逆らって真澄は早足で歩きだす。

 以前、紳士的にふるまった結果、女子高生にSNSで実名を晒され、少々面倒な事態になった。

 あの時、女子高生を助けたことを、真澄はちょっぴり後悔した。

 でも未来ある少女を、みすみす見殺しにすることができない真澄は、こうしてまた(・・)女子高生を助けてしまった。

「頼むから、今度は(・・・)余計なことをしてくれるなよ」

 助けたお礼なんていらないから、どうか大人しくしててくれ。

 そんなことを願いながら、真澄は自宅マンションへと向かった。

 いつも通り、マンションのロックを解除して、真澄は玄関扉を開ける。

 休日出勤の真澄と違い、菜穂子はゆっくりここで過ごしているはずだ。

 おかえりなさい。そう言って菜穂子が出迎えてくれる日常を、真澄はこれまでずっと切望してきた。

 願いが叶った今、緩んでしまう口元を引き締めるのに毎日苦労している。

 露骨に嬉しそうにしてはいけない。気持ちを素直に伝えてはいけない。

 真澄は片想いしている25歳年上の女性に夢中で、その人を傍に置きたいために契約結婚した自分勝手な夫でいないといけないのだから。

「ただいま……っ……?」

 表情を消してリビングに入った真澄だが、出迎えたのは菜穂子ではなく智穂だった。

「あれ?智穂さん、まだいた──」
「おーかぁーえーりぃー、真澄。待ちくたびれたわぁー」

 無駄に語尾を伸ばす智穂に、真澄の顔が引きつる。

 智穂がこういう口調になるのは、決まって自分が彼女を怒らせてしまった時だ。

 真澄にとって、智穂は母であり、姉であり、自分の唯一の理解者であり──頭が上がらない存在だ。

「え、えっと……俺、何かした?」

 おずおずと真澄が尋ねると、智穂は親指を真下に向けた。

「とりあえず、座れ」

 智穂から有無を言わせない口調で命令され、真澄は滑舌良く「はい」と返事をすると、そこに正座した。

「真澄君、あなた菜穂子さんになんて言って結婚した?」

 正座した途端、智穂にそう尋ねられた真澄は、すすっと視線を逸らす。

「こら」
「……言えない」
「そう。じゃあ質問を変えるわ。結婚しよう、ただし一年後には離婚しよう。真澄君は菜穂子さんにそう言って結婚しましたか?」
「っ……!な、なんで……知ってるんだっ」

 狼狽える真澄に、智穂は馬鹿な子を見る目つきになる。

「そんなの一つしかないでしょ?」
「菜穂ちゃん……余計なことを……」
「責任転嫁しない!!」
「はい!」

 腰に手を当てた智穂から怒鳴りつけられて、真澄は背筋をピンッと伸ばす。

 今の智穂と真澄は、家政婦と家主ではない。保護者と子供である。

「私さぁ、菜穂子さんから”二人の関係を知っている”って言われたときね、真澄君が何度も人生を繰り返しているのと、そっち系に関して見えちゃう私の特技を知ってるって勘違いしちゃったじゃない。お陰で更にややこしい状態になったわ。この馬鹿!で、真澄君は菜穂子さんに、どうして離婚前提の結婚を持ち掛けたの?」

 怒涛の勢いでまくし立てられた挙句、最後に一番答えずらいことを問われた真澄は、無駄だとわかっていても、また視線を逸らす。

「……あり得ないことを言うけど、まさか私のことが好き……とか言ってないよね?」
「智穂さん、すごい。千里眼だ」

 賞賛した真澄の言動は、火に油を注ぐ行為でしかない。

「こぉんのぉーーー馬鹿!!なんでそんな鳥肌が立つような嘘を言うの!!」
「だって!」
「だってぇー?は?だってぇーーー、なぁーーーん、ですかぁーーーー?ま、す、み、くぅーーん?」

 ギロリと智穂から睨まれた真澄は、竦みあがる。それでも質問には答える。だって、無言のままでいる方が怖いから。

「だって菜穂ちゃんを死なせたくなかったから……でもOKしてもらえる雰囲気じゃなかったから、咄嗟に一年だけって付け加えたんだ。それならワンチャン結婚してもらえるかもと……」

 真澄の知っている未来では、菜穂子は耀太と別れずに結婚する。

 しかし夫となった耀太は、浮気を繰り返し、借金をつくり、それを咎めた菜穂子は、ありとあらゆるハラスメントを受けた。

 身も心もボロボロになってしまった菜穂子を見て、早波一家はもちろん黙っていなかった。法を犯さないギリギリの報復行為をして、耀太がカスカスになるまで慰謝料を搾り取って離婚させた。

 でも心身ともに傷ついた菜穂子は、家族や医者がどんなに手を尽くしても、結局は27歳で命を落としてしまった。

「ねぇ……真澄君」
「なんですか?智穂さん」

 上目づかいで続きを促した真澄に、智穂は大仰に溜息を吐いた。

「あなた、どうして菜穂子さんのこととなると、こんなにポンコツになるの?」

 容姿端麗、頭脳明晰。何をさせても完璧にこなす──これが世間一般の柊木真澄の評価だ。

 現在、床に正座して項垂れている男と、同一人物だとは思えない。

「ごめん、智穂さん。俺もなんでなのかわからない」

 さらに項垂れる真澄を見て、智穂は救いようのない馬鹿を見る目になった。