交際ゼロ日からの、契約結婚

「さてっと。真澄さん、今日は夕方前に戻ってくると思うから、このままごちそうも作っちゃうわ」
「え?でも、まだ昼過ぎですよ」
「そうなんだけど、ローストビーフは時間がかかるから」
「……そうですか」

 ご家庭のキッチンでローストビーフを作る発想も技量も、菜穂子にはない。せいぜい頑張って、ビーフシチューが限界だ。

 これもまた智穂のマウント発言なのかな?と、菜穂子は意地の悪いことを考えてしまう。

「あの智穂さん」
「なぁに?」
「ちょっとお茶しません?」

 週末は自宅マンションで過ごしたがる真澄のせいで、智穂と二人っきりになれるのはかなり貴重だ。師走も目前だし、今日を逃したら次はいつになるかわからない。

 ──今日こそ、絶対に誤解を解く!

 ふんすっと鼻息を荒くしてお茶に誘った菜穂子を見て、智穂はふんわりと笑う。

「あら、光栄だわ。じゃあすぐにお茶を用意するから、ちょっと待っててくださいね」

 ケトルに水を入れ、コンロにかけた智穂は、作り付けの戸棚から茶葉とポットを取り出す。

 ここは菜穂子の家ではあるが、茶葉もポットの場所も知らない。真澄はきっと知っているだろう。

 実家にいたころ、それなりに家事手伝いをしていた菜穂子は、料理ができないわけではない。自炊しようと思えば、毎日だってできる。

 でもそうしないのは、このキッチンが智穂の領域だから。領土を犯せば100パーセントの確率で、もめ事が起きる。

 それをわかっているから、敢えてお客様スタイルを崩さないことを、智穂は理解してくれているのだろうか。

 そんなことを考えながら、菜穂子はソファに移動する。高層マンションから見える都会の空は曇っていて、今にも雨が降りそうだ。

 しばらくして智穂が淹れてくれた紅茶は、とても香り高く”お紅茶”と呼ぶべき逸品だった。

「美味しいです」

 一口飲んで素直な感想を菜穂子が告げると、智穂はふわわっと笑う。

「嬉しいわ。真澄さんはコーヒーしか飲んでくれないから、淹れる機会がなくて寂しかったの」
「そうですか」

 サラリと口にした智穂の言葉は、真澄との付き合いが、家政婦以上のものだと暗に示している。

「智穂さんは、ここでどれぐらい働いてるんですか?」
「そうねぇ……真澄さんが引っ越して来てからだから……5、6年ってとこかしら」
「長いですね」
「ふふっ、言われてみればそうかも。でもあっという間だったわ」

 カーペットに正座して微笑む智穂は、これまでの真澄との出来事を思い出しているのか、どこか遠くを見るような目つきになる。

「……ほんと、長い付き合いねぇ」

 過ぎ去った日々を思い返すように、しみじみと呟いたその表情は、とても穏やかなものだった。真澄と過ごした時間が良いものだったことを物語っている。

 そんな二人の間に入った自分は、邪魔者でしかない。

「あの、智穂さん……」
「なぁに?」

 ニコッと笑って続きを促された菜穂子は、智穂と同じようにカーペットに正座する。

「ど、どうしたの!?菜穂子さん──」
「ちゃんとお話すべきことがあります」

 目を丸くする智穂の膝に触れるくらい距離を縮めた菜穂子は、コホンと咳払いをする。

「私と真澄さんの結婚は、期間限定の契約結婚です。来年の秋に私たちは離婚します」
「え……!?」
「だから私のことは気にしないでください」
「ちょと、ちょっと待って。ごめんなさい……私、混乱して……」
「はい。智穂さんの気持ちわかります。離婚前提の結婚なんてあり得ないですし、ドン引きモノですよね。私自身も正直、なんで結婚しちゃったんだろうって思ってますんで」

 あははっと菜穂子は声に出して笑うが、智穂は神妙な表情を浮かべる。

 えっと……そんな顔をしてほしいわけじゃないのに。ただ安心してほしかっただけなのに。

「お二人の関係は、真澄さんから聞いてます」
「え……もう?知っちゃったの?」
「はい。細かい経緯までは聞かされてませんが、それでも私なりにちゃんと理解してます。そのうえで、私は結婚届にサインをしました」

 背筋をピンと伸ばして答える菜穂子を見て、智穂は驚きを隠せず口元に手を当て息を吞む。

「良く受け入れてくれたわね」
「まぁ、びっくりしましたけど。あ、でも今日から真澄さんとは24歳差になるんですよね」

 パンッと菜穂子が手を叩いて同意を求めれば、智穂は困り顔になる。

「ええ。でも、私の誕生日は3日後だから……すぐに25歳差になるけれど」
「あ……そう、そうですか」

 なんか残念な気持ちになってしまった菜穂子は、強引に話題を変えることにした。