交際ゼロ日からの、契約結婚

 雑居ビルを出て少し歩くと小さくクラクションを鳴らされ、菜穂子は振り返る。

「あ……」

 見覚えのある高級車に菜穂子が小さく声を上げたと同時に、後部座席の窓が開き、真澄が顔をのぞかせた。

「迎えに来た。乗ってくれ」
「それは、どうも」

 ペコッと頭を下げて菜穂子は素早く車に乗り込む。暖房が効いてる車内は、とても快適だ。でも──

「わざわざ迎えに来なくても良かったのに」

 今日から菜穂子は郊外の実家ではなく、真澄が用意した新居に住む。都心の一等地で、駅からも近い高級マンションだ。

 事前に住所を教えてもらったし、合鍵も貰っているので、一人でそこに向かうことに不安はなかった。

 ──気を遣わなくっていいのに。

 そんな気持ちで口にしたけれど、真澄は違う意味に捉えてしまったようだ。

「迷惑だったか?」
「まっさかぁー」

 あまりに的外れなことを言われ、菜穂子はケラケラと笑う。

「寒かったし、電車にも揺られずに済んだから助かりましたよ」
「なら、可愛げないことを言うな」
「はぁーい」

 ムスッとする真澄だが、なんだかソワソワとしている。

「……トイレ行きたいなら、停めてもらいましょうか?」
「馬鹿、違う」

 気を遣ったのに、馬鹿と言われてしまった。腑に落ちない気持ちはあるが、更にソワソワする真澄の方がよっぽど気になる。

「あの……なんかありましたか?」
「これからある」

 そうか、それは大変ですね。と他人事のように同情の眼差しを真澄に送った菜穂子だが、20分後、真澄よりもっとソワソワする状況になってしまった。

 新居となるマンションの玄関を開ければ、既に室内は明るく、暖房で温められていた。

 お金持ちって電気代気にしないんだと、驚いた菜穂子だが、パタパタ……とキッチンから中年の女性が姿を現わしてもっと驚いた。

「おかえりなさい、真澄さん。はじめまして、菜穂子さん。家政婦の中野智穂です」

 長い髪を一つに束ねて、シンプルなパンツ姿の女性は、見たところ40代。使い込んだデニム時のエプロンから、家政婦歴が長いと菜穂子は推察する。

「こちらこそ、はじめまして。早……あ、いえ……菜穂子です」

 旧姓を口にしかけて、真澄に睨まれてしまった。

 そんな二人を、智穂は微笑ましい目で見つめている。でも、その瞳の奥では菜穂子を品定めしているかのように鋭い。

 同性のそういう視線が何なのか、菜穂子は気づいてしまった。

「まぁ君がソワソワしていた理由、私、わかった」

 断言した菜穂子に、真澄は「どんな理由だ?」とは問い詰めず、さっさと靴を脱いで室内に入る。

 菜穂子も智穂に促され、おずおずとダイニングに入る。テーブルには和洋折衷のご馳走が並んでいた。

「今日は特別な日だから、腕を振るったんで沢山食べてくださいね」

 対面キッチンに入った智穂は、笑顔で菜穂子に声をかけ、次いで意味ありげに真澄を見る。真澄は無表情で頷き、腕時計を外そうとしているが、もたついている。

 はぁーん、なるほどですか。このご馳走は歓迎ではなく「あなたなんか、こんな手の込んだ料理できないでしょ?」という智穂からの挑戦状にも受け止められる。

 夫の片想い相手に出迎えられるという波乱の幕開けで始まった新婚生活だが、菜穂子は目くじらを立てるつもりはない。

 むしろ、こんな風にマウントを取られて「脈ありじゃん。良かったね!」と真澄にエールすら送りたい気分だ。

 ただ……この料理、毒とか入っていないよね?

「あの智穂さん、良かったら一緒に食べませんか?」

 エプロンを外して帰り支度を始めた智穂は、菜穂子の提案にぱぁぁぁっと顔を輝かせる。

「いいんですか?あ、でも……お邪魔じゃ」
「ぜーんぜん、お邪魔じゃないです。ご馳走は皆と食べたほうが美味しく感じますし。是非!」

 なんなら食事の後に2、3時間、外出しますけど?という言葉を飲み込んで、菜穂子は智穂を手招きする。

 その間、真澄は「マジかよ、お前」という視線を菜穂子に送り続けているが、菜穂子は無視し続けた。

「じゃあ、私、ちょっとうがいと手洗いを済ませてくるんで。先に食べててくださーい」

 席を立った菜穂子は、洗面所に向かった。真澄と智穂を二人っきりにしてあげるために。

 いつもの3倍時間をかけて手洗いとうがいを済ませた菜穂子がダイニングに戻ると、真澄と智穂はテーブルに着いてはいるが、食事にはまだ手を付けてなかった。

「お待たせしてごめんなさい」

 パタパタと小走りでテーブルに向かった菜穂子だが、どこに座ればいいか悩んでしまう。

「ここだ」

 自分の向かいの席を指で示した真澄に、菜穂子は素直に従う。ちなみにそこは、智穂の隣の席でもある。これはちょっと、アルコールが必要だ。

「えっと、ビール……あります?あったら飲んでもいいですか?」

 おずおず菜穂子が真澄に尋ねると、智穂が素早く立ち上がる。そして冷蔵庫から冷えたビールとグラスを菜穂子の前に置く。

「あ、えっと……お二人は飲まないんですか?」
「ああ」
「ええ」

 同時に頷かれてしまい、菜穂子は手酌でビールをグラスに注ごうとするが、智穂にビール缶を奪われてしまった。

「あ、すみません」
「いいのよぉ」

 恐縮する菜穂子に笑顔で応えた智穂は、グラスにビールを注ぎ終えると、おもむろに立ち上がった。

「それでは!真澄さん、菜穂子さん、結婚おめでとうございまーす!」

 頼んでもいないのに智穂は乾杯の音頭を取って、お茶の入ったグラスを掲げる。

「……あ、ありがとうございます」
「どうも」

 菜穂子と真澄も、ぎこちなくグラスを掲げる。

 カンッと涼やかな音がダイニングに響くが、菜穂子には戦いのゴングに聞こえて仕方がない。

 一流レストランより美味しい智穂の手料理を口に運びながら、菜穂子は宣戦布告をされる前に、戦う意思がないことをどう伝えればいいか頭を悩ませる。

 しかしこの後、会話の流れから智穂が53歳ということを知った菜穂子は驚愕し、戦意がないことを伝えられぬまま晩餐は幕を閉じてしまった。