王子様になりたい ~王子様の恋愛指南~

 終電まであと三十分。
「お客さん、そろそろラストオーダーですが何か注文されますか?」
 二人の世界に、店員さんの溌剌とした声が割り込んできた。
 咄嗟に振り向けば、店員さんが電卓を片手に立っていた。
 学生なのだろうか。深夜に近い時間帯だというのに、疲れを感じさせない爽やかな笑顔を浮かべている。
「いいえ、私たちはこれで。……藤島さんもいいかな」
「は、はい!大丈夫です」
 いつの間にか離れていた齋藤さんが、私に代わって答えてくれた。
 先ほどまで私に甘い言葉を囁いていたとは思えないほどスマートな答え方だ。
 対して、先ほどまでの余韻に飲まれていた私は、反射的に頷くしかできなかった。
「では、伝票を置いておきますね。ありがとうございました!」
 長く伸びた伝票を卓上に置き、店員さんは去っていった。
 再び、静寂が戻ってきてしまう。このまま恋愛話を続けられる空気ではない。
 同じことを考えたのか、齋藤さんは伝票を手に取ると席から立ち上がった。 
「では、私が払ってくるから、あなたは先に店から出ておいて」
「待ってください! 私も払いますから!」
 合計金額は確認できなかったが、私だって特別な日に浮かれた自覚はある。
 それに、伝票の長さ。きっと一人で払うには負担が大きいだろう。
 急いで財布を取り出そうとしたが、手の甲に彼の手が重ねられてしまった。
「しまってほしいな」
「よくありません。同期なんですから、一緒に払いましょう」
 彼の手から逃れようとするように、語尾を強くする。
「そういうところはあなたの美徳だけど、今日はダメ」
 齋藤さんは目尻を下げた。しかし、重ねられた手は離れず、ただただ時間だけが過ぎていく。
「……分かりました。ご好意に甘えさせていただきます」
「ふふっ、ありがとう」
 このままでは埒が明かない。根負けした私は、しぶしぶ財布を鞄にしまった。
 齋藤さんも安心したのか、荷物をまとめている。
「では、あなたは外で待っていてね」
 齋藤さんがレジへ向かっていくのを見送り、私も店から出た。
 ひんやりとした夜風が気持ちよく、火照っていた身体が少しずつ冷めていく。
 この数時間で、齋藤さんとの関係が大きく変わった。
 憧れの人。頼れる同期。期間限定の恋人。——そして、恋愛を教えてくれる王子様。
 これから彼と、どんな時間を過ごすのだろう。
 大きな期待と小さな不安が胸の中で混じり合っている。
 しばらくすると、齋藤さんが店から出てきた。
「おまたせ。……どうしたのかな?」
 彼の傍へ駆け寄った私は、深く頭を下げた。
 齋藤さんは、私の行動の意図が伝わらなかったのか不思議そうに首を傾げている。
「先ほどは曖昧な態度のまま感謝を述べてしまったので、きちんとお礼を伝えたくて」
 お金のことだけではない。
 私の恋愛相談を「王子様」として引き受けてくれた。
 ほんの数時間の間に、彼からたくさんの優しさをいただいた。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそだよ」
 優しい声色に、胸を撫でおろす。
 しかし……「こちらこそ」とは、何を指しているのだろう。
「それより、藤島さん。タクシーで帰った方がいいのでは?」
 想定していなかった提案に、思わず顔を上げた。
「え、電車で帰るつもりでした。なにか不都合が……?」
「不都合ではなく心配、かな。お酒をいつも以上に飲んでいたから」
 私を気遣っての提案だったらしい。そのささやかな優しさに、胸がくすぐられる。
「酔いも冷めてきたので問題ないですよ。……だから、財布をしまってください」
「おや、バレてしまったね」
「これ以上負担をかけてしまったら、私の心がもたなくなります」
「ふふっ、それはいけない。では、一緒に駅へ向かおうか」
 最後まで徹底した配慮をされてしまった。まったく、隙のない人だ。
 駅までは五分程度だから、急ぐ必要もない。二人で話しながら、ゆったりと歩いていく。
「そういえば、なぜ今日は半額を払わせてくれなかったのですか?」
 ——二人で飲みに行く時は、必ず半額を支払わせてほしい。
 初めての飲み会で私からお願いしたこと。
 それは「同期」であり「憧れ」の存在である齋藤さんと、少しでも肩を並べるための意地だった。
 なのに、初めて拒まれてしまった。何が原因だったのだろうか。
 私が問いかければ、彼は立ち止まってしまった。いつの間にか、駅まで到着していたようだ。
「理由は二つ」 
 駅に背を向けて、齋藤さんが私を見つめる。街灯の光が、彼の表情を照らし出した。
「一つ目、あなたの営業成績を祝う飲み会だから。そして……」
 ふわりとした笑みに、優しさと少しの甘さを含んだ声色。まるで、童話に登場する王子様みたいだ。
「二つ目。藤島さん、一日だけだとしても私はあなたの恋人になったんだ。——かっこつけさせてほしいな」
 齋藤さんの言葉に、息が止まった。頭が真っ白になり、周囲の音も瞬く間に消えさった。
 彼は「同期」よりも「恋人」の関係性を優先した。その違いを、痛感する。
「そんなに見つめられると、私も少し恥ずかしいな」
「あ、えっと……」
 あまりの衝撃で動けない。なんとか口を開いたが、しどろもどろな返事しかできなかった。
「ふふっ。真っ赤になっている。とても可愛らしい」
 からかうような口調。だけど、冗談ではないことは目が物語っていた。
 耳の奥でドクドクと血が跳ね、顔面がさらに熱くなる。
 ダメだ、今の私には刺激が強すぎる。
「練習はここまで。明後日の本番に向けて、少しずつ恋愛を知ってね」