―また、放課後に君と―

翌朝、ハルトはいつもより少し早く学校に来た。

7時41分。

二年B組の教室は、まだそれほど人が多くなかった。

すでに席についている生徒が何人かいて、教室の後ろでは二人の生徒が壁から剥がれかけた飾りを直している。

ハルトは鞄を置いた。

ソウタはまだ来ていない。

珍しい。

普段なら、ハルトが教室へ入る前からソウタの声が聞こえてくるくらいなのに。

ハルトは席に座る。

本を取り出す。

そして――

無意識にミオの席を見た。

空いている。

数秒、そこを見つめる。

すぐに本を開いた。

「……なんで見たんだ、俺」

理由なんてない。

ミオはまだ電車の中かもしれない。

朝食を買っているのかもしれない。

先生を手伝っているのかもしれない。

ハルトは本を読もうとした。

一ページ。

二ページ。

教室のドアが開く。

ハルトは反射的に顔を上げた。

ミオではない。

別の生徒だった。

ハルトはまた本に視線を戻す。

数分後。

再びドアが開いた。

今度は――

「おはよう」

ミオがリンと一緒に入ってきた。

ハルトはちらりと彼女を見る。

ミオもハルトを見た。

目が合う。

ミオの顔に、小さな笑みが浮かんだ。

「おはよう、アイザワくん」

「おはよう」

リンが一瞬立ち止まる。

視線をミオからハルトへ。

そしてまたミオへ戻した。

何も言わない。

ミオは自分の席へ向かった。

ハルトは再び本を読もうとする。

けれどそのときになって、

さっき読んだ二ページの内容を一文も覚えていないことに気づいた。

しばらくして。

廊下から聞き慣れた声が響く。

「ハルトォォォ!」

ハルトは本を閉じた。

「問題児が来た」

髪を少し乱したソウタが教室へ入ってきた。

「親友を迎える第一声がそれかよ」

「遅い」

「遅くない」

ソウタは時計を見る。

「まだ七分ある」

「お前基準なら遅い」

ソウタは鞄を置く。

そして教室の飾りを見る。

真剣な表情になった。

「誰だよ、俺の作品を直したの」

ハルトは昨日逆さだったバナーを見る。

「目がある人」

ソウタがハルトを見る。

「タチバナと仲良くなってから、お前どんどん性格悪くなってない?」

ハルトが止まる。

「何の関係があるんだよ」

ソウタが笑った。

「ほら」

ハルトはため息をつく。

「ソウタ」

「観察しただけ」

「間違った観察だ」

「間違ってるなら、なんでそんなにすぐ否定するんだ?」

ハルトはまた本を開いた。

「黙れ」

ソウタが笑う。

教室の反対側。

ミオは会話の一部を聞いていた。

こちらを見る。

ハルトはすぐに本へ視線を落とす。

リンがミオを見る。

「また笑ってる」

ミオが彼女を見る。

「笑ってない」

「笑ってる」

「リン」

「何?」

「朝から始めないで」

リンはうなずいた。

「分かった」

しかし、その笑顔はまったく分かっていない顔だった。

◇

一時間目は歴史だった。

ブラウは黒板の前で、いくつかの年代を書いていた。

「ここはテストに出るかもしれません」

教室からすぐに小さな不満の声が上がる。

ブラウが振り返った。

「文句を言っても出ます」

全員が静かになった。

ブラウは黒板に書いた年号を指す。

「復興期は、十二年前の大規模な紛争が終結したあとに始まりました」

ハルトは黒板を見る。

知らない話ではない。

小学生の頃から、何度も習ってきた内容だ。

「当時、多くの旧制度が解体されました」

ブラウは続ける。

「一部の組織はその役割を失い、それまで紛争の中心となっていた都市では復興が始まりました」

ブラウは少し間を置く。

「そして、最も重要なのが――」

一つの言葉を書く。

『市民生活の正常化』

「皆さんの世代が生まれた頃には、その大部分がすでに終わっていました」

何人かの生徒がノートを取る。

ハルトも書く。

ブラウは教室全体を見渡した。

「だから皆さんにとって、今の生活は『普通』なんです」

声の調子が、ほんの少し変わった。

悲しそうではない。

重苦しくもない。

ただ、少しゆっくりになった。

「学校」

ブラウは教室を指す。

「文化祭」

壁の飾りを見る。

「毎朝走る電車。夜まで開いている店。仕事を終えた親が家に帰り、家族と一緒に食事ができること」

教室が少し静かになる。

「そういうものは、小さなことに見えます」

ブラウがわずかに笑った。

「でも、小さなことほど当たり前だと思ってしまいやすいんです」

ハルトはペンを止めた。

なぜか。

ここ数日の放課後を思い出した。

誰もいない教室。

缶コーヒー。

ミルクティー。

駅までの道。

そして、あの何気ない一言。

See you again after school.

ハルトは小さく首を振った。

なんで今、それを思い出したんだ?

ブラウは授業へ戻る。

「では、百二十四ページを開いてください」

教室は再びいつもの雰囲気に戻った。

けれどハルトは一瞬だけ、

ブラウが普段より少し長く窓の外を見つめていることに気づいた。

まるで――

この教室の誰も知らない何かを思い出しているように。

◇

昼休み。

ソウタがまた新しい問題を持ってきた。

「ハルト」

「何?」

「人が足りない」

「何の?」

「文化祭」

ハルトはそのまま弁当を食べる。

「装飾はほとんど終わったんじゃないの?」

「装飾はな」

ソウタが座る。

「でも、カフェ担当が接客練習する人員を必要としてる」

ハルトが止まった。

「なんでお前、店長みたいに話してるんだよ」

「連絡係に任命されたから」

「誰だ、そんな判断したの」

「クラス委員」

ハルトはため息をつく。

ソウタが名簿を取り出した。

「とにかく、放課後に何人か接客練習するから」

ハルトは自分の名前を見る。

アイザワ・ハルト。

すぐに指を差した。

「なんで俺の名前があるの?」

「物流も運営を手伝うことになった」

「俺、荷物運ぶ係だろ」

「今日から飲み物を客のテーブルまで運べ」

「ソウタ」

「逃げられないぞ」

ハルトはもう一度名簿を見る。

自分の名前の下。

そこには――

タチバナ・ミオ。

ハルトはすぐ紙を返した。

ソウタが見ている。

「何?」

「別に」

「今、顔変わったぞ」

「変わってない」

「少し変わった」

ハルトは食事を続ける。

ソウタは満足そうに笑った。

「俺、このキャラの成長好きだわ」

ハルトは箸を置く。

「それ以上言ったら練習行かない」

ソウタはすぐ両手を上げた。

「分かった。黙る」

二秒後。

「でも――」

ハルトが見る。

ソウタは口を閉じた。

◇

最後の授業が終わっても、

二年B組の教室はすぐには空にならなかった。

何人かの生徒が、カフェのシミュレーション用に机を動かしている。

客席が四つ。

レジ用の机が一つ。

注文を受けるための小さなスペース。

リンが前に立ち、メモを持っていた。

「接客担当は、一か所に固まらないでね」

ソウタが手を上げる。

「客がいなかったら?」

「練習だから」

「じゃあ、いるふりするの?」

リンが彼を見る。

「フジモトくん」

「はい?」

「働いてるふりが難しいなら、本当に働いて」

数人の生徒が笑う。

ハルトはトレーを持ち、注文カウンターの近くに立っていた。

その隣にはミオ。

ミオが二人の服装を見る。

練習なので、今日は簡単なエプロンだけだった。

ミオがハルトを見る。

「アイザワくん」

「ん?」

「似合ってる」

ハルトは自分が着ている黒いエプロンを見る。

「ただのエプロンだよ」

「だから似合う」

「どういう意味?」

ミオが小さく笑う。

ハルトはミオのエプロンを見る。

同じ色。

「じゃあ、ミオも似合ってる」

「ありがとう」

ハルトが黙る。

ミオは笑いを堪えた。

「私が文句言うと思った?」

「少し」

「なんで?」

「分からない」

ミオが笑った。

リンが手を叩く。

「始めるよ」

練習は一分目からめちゃくちゃだった。

ソウタはメニューを二枚落とす。

ある生徒は、どのテーブルが注文したのか忘れる。

別の生徒は三つの飲み物を全部違うテーブルへ持っていった。

ハルト自身は特に苦労しなかった。

リスト通りに動けばいいだけだ。

「二番テーブル、紅茶二つ」

ハルトはトレーを取る。

ミオが隣に現れる。

「私は三番」

「間違えるなよ」

ミオが眉を上げる。

「私、フジモトくんじゃないから」

後ろから声が聞こえる。

「聞こえてるぞ!」

ハルトとミオは笑った。

それぞれ別の方向へ向かう。

数分後。

ミオが戻ってきた。

「アイザワくん」

「ん?」

ミオはハルトのトレーを指さす。

「間違ってるよ」

ハルトが見る。

レモンティー。

本当はコーヒーだった。

固まる。

ミオが笑った。

「アイザワくんも間違えるんだね」

ハルトはグラスを見た。

「ソウタには言わないで」

「どうして?」

「からかう権利がなくなる」

ミオは少し考える。

「口止め料、高いよ」

ハルトが見る。

「いくら?」

「ミルクティー」

ハルトはため息をついた。

「恐喝」

「取引」

ハルトは正しいコーヒーを取る。

「分かった」

ミオは満足そうに笑った。

「交渉成立」

◇

練習が終わったのは、午後四時五十分頃だった。

何人かの生徒はすぐ帰る。

ソウタはまだ片付けを手伝っている。

リンはメモをまとめていた。

ハルトはエプロンを返す。

ミオが近くに立っている。

「忘れないでね」

ハルトが見る。

「何を?」

ミオが目を細めた。

「ミルクティー」

ハルトはそこで思い出した。

「あ」

「忘れてた?」

「忘れてない」

「絶対忘れてた」

ハルトは鞄を取った。

「行くよ」

ミオが笑う。

二人は教室を出た。

離れたところからリンが見ていた。

その隣にソウタが立つ。

二人とも黙っている。

やがてソウタが言った。

「俺たち、親みたいな気分になるべき?」

リンが彼を見る。

「ならない」

「なんで?」

「それはちょっと気持ち悪い」

ソウタはうなずいた。

「確かに」

◇

自動販売機の前は、

すでに見慣れすぎた場所になっていた。

ハルトは硬貨を入れる。

ミオは隣に立っている。

「いつもの?」

ハルトが聞く。

ミオはうなずいた。

「いつもの」

ハルトはミルクティーのボタンを押す。

缶が落ちる。

それを取り出し、ミオへ渡した。

「借りは返した」

ミオが受け取る。

「ありがとう」

ハルトは自分用のコーヒーを買った。

ミオは二本の缶を見る。

「四日目」

ハルトが止まる。

「数えてるの?」

ミオは少し気まずそうな顔をした。

「違うよ」

「今、四日目って言った」

ミオは顔を逸らす。

「その……飲み物買うのが四日目って意味」

ハルトが眉を上げる。

「それを数えてるって言うんじゃない?」

ミオが彼を見る。

「だから?」

ハルトは小さく笑う。

「別に」

ミオが目を細めた。

「アイザワくん、意地悪」

「前から知ってるだろ」

ミオが笑う。

二人はすぐには教室へ戻らなかった。

今日は裏庭近くのベンチへ座った。

まだ夕方の光は十分明るい。

運動部の声も、ここではよりはっきり聞こえる。

ミオが缶を開ける。

カシュッ。

ハルトも同じように開ける。

カシュッ。

ミオは空を見た。

「明日から本格的な飾り付けだね」

「うん」

「明後日は文化祭」

ハルトがうなずく。

「早いな」

ミオは足を小さく揺らした。

「私、文化祭前の日って好き」

「どうして?」

「みんな、何かを楽しみにしてるから」

ハルトが彼女を見る。

ミオは続ける。

「文化祭」

「部活のイベント」

「クラス写真」

「食べ物」

「いろいろ」

小さく笑う。

「何ていうか、全部が何かに向かってる感じがするんだよね」

ハルトは庭を見る。

「何かを待つのが好きなの?」

ミオは少し黙った。

「それがちゃんと来るって分かってるなら」

その答えに、ハルトは彼女を見る。

ミオはまだ前を向いていた。

「分からないときは?」

ハルトが聞く。

ミオは手の中で缶を回した。

「それは違う」

ハルトは待つ。

でもミオは説明しなかった。

数秒後。

肩をすくめる。

「例えば通販の荷物とか」

ハルトは小さく笑った。

「例えが悪い」

「なんで?」

「何か真面目なこと言うのかと思った」

ミオが彼を見る。

「なんで真面目じゃなきゃいけないの?」

「分からない」

ミオが笑う。

「物事って、たまにただ単純なだけだよ、アイザワくん」

ハルトは黙った。

その言葉は、

まだ自分が聞いてすらいない何かへの答えのように聞こえた。

ミオが立ち上がる。

「戻ろう」

「なんで?」

「飾り、もう一回確認したい」

「こだわりすぎ」

「アイザワくんも手伝って」

「それ、お願いじゃないだろ」

「うん」

ミオは先に歩き出す。

ハルトも立ち上がった。

◇

二年B組へ戻ると、

教室にはほとんど人が残っていなかった。

数人だけ。

リンはまだいた。

ソウタはいつの間にかどこかへ消えている。

ミオは飾りを確認する。

ハルトはドアの近くに立った。

リンが二人を見る。

「どこ行ってたの?」

「飲み物買いに」

ミオが答える。

リンはミルクティーの缶を見る。

次にハルトのコーヒー。

「また?」

ミオが固まった。

ハルトはリンを見る。

リンが小さく笑う。

「何も言ってないけど」

ミオはため息をついた。

ハルトは笑いを堪える。

リンは鞄を取った。

「私は先に帰るね」

ミオが彼女を見る。

「もう?」

「うん」

リンは二人の横を通る。

教室を出る前に立ち止まった。

「明日は早めに来るの忘れないでね」

「分かってる」

リンはうなずく。

そしてハルトを見る。

「アイザワくん」

「はい?」

「ミオ一人に全部やらせないでね」

ミオがすぐ抗議する。

「リン」

ハルトはうなずいた。

「手伝うよ」

リンが笑う。

「よかった」

そのまま出ていった。

ミオはドアを見る。

「最近、リンがどんどん変になってる」

ハルトもうなずく。

「ソウタも」

「暇すぎる友達を持つと大変だね」

「同感」

ミオが小さく笑った。

二人はまた座った。

その日は、あまり多く話さなかった。

ミオは文化祭のリストを確認する。

ハルトは少し宿題をする。

時々、どちらかが何かを聞く。

時々、二人とも黙る。

でも気まずさはなかった。

ハルトにとって、

それは少しずつ普通になり始めていた。

そして――

普通になり始めていること自体が、

むしろ不思議だった。

四日前まで。

ミオは、たまに話す程度のクラスメイトだった。

今では――

ハルトは彼女の好きな飲み物を知っている。

教室が静かになると、ミオが小説を読むのが好きだと知っている。

考え事をするとき、缶を手の中で回す癖があることも。

大勢といるときの笑顔と、

二人きりのときの笑顔が少し違うことも知っている。

小さなこと。

いつからそんなことに気づくようになったのか、

ハルトには分からなかった。

◇

二人が学校を出たのは午後五時半過ぎだった。

今日は少し早い。

駅へ向かって歩く途中、

ミオはいつもより口数が少なかった。

ハルトが横目で見る。

「疲れた?」

ミオがうなずく。

「少し」

「文化祭?」

「うん」

ミオは腕を伸ばす。

「明日はもっと忙しくなるだろうね」

ハルトがうなずく。

数歩歩いたあと。

ミオが彼を見る。

「アイザワくん」

「ん?」

「明日も準備が終わったあと、残る?」

ハルトは少しだけ足を緩めた。

分からない。

残らなければいけない理由はない。

でも今は――

その質問には、

とても分かりやすい答えがあるような気がした。

「たぶん」

ミオはすぐに笑った。

「また『たぶん』」

ハルトが彼女を見る。

「ミオは?」

ミオは考えるふりをする。

「たぶん」

ハルトが小さく笑う。

「仕返し?」

「さあね」

二人は駅へ着いた。

いつものように、

改札を抜ければ二人の向かう方向は別になる。

ミオが数歩進む。

そして振り返る。

今回はもう、

ハルトには彼女が何を言うのか、

何となく分かっていた。

ミオは片手を上げた。

「See you again after school.」

ハルトは一瞬黙った。

そして――

初めて同じ言葉を返した。

「Yeah」

小さく笑う。

「See you again after school.」

ミオは少し驚いたような顔をした。

ほんの一瞬だけ。

そのあと、

笑顔がいつもより大きくなった。

「また明日」

「また明日」

ミオは振り返り、

自分のホームへ向かって歩いていく。

ハルトも反対方向へ歩き始めた。

けれど数歩進んだところで、

一つのことに気づいた。

明日の朝。

二人はまた教室で会う。

クラスのみんなと一緒に授業を受ける。

ソウタが問題を起こすのを見る。

ブラウが飾りについて文句を言うのを聞く。

文化祭の準備で忙しくなる。

一日中、

同じ場所にいる。

なのに――

ハルトが待ち遠しいのは朝ではなかった。

昼休みでもない。

文化祭でもない。

全部が終わったあとの時間。

教室が静かになる時間。

太陽が沈み始める時間。

そして――

そこにまだ一人、

残っているかもしれない時間。

そのとき初めて、

ハルトは気づいた。

自分は放課後のチャイムを待つようになっている。

早く帰りたいからではない。

チャイムが鳴ったあとに――

待ちたいと思うものが、

できてしまったからだ。