―また、放課後に君と―

午後三時四十分。

放課後のチャイムが鳴った。

その瞬間、二年B組の教室は椅子を引く音でいっぱいになった。

先生が完全に教室を出るより先に、ソウタが立ち上がる。

「自由だ!」

ハルトは教科書を鞄に入れた。

「刑務所から出てきたみたいな言い方するなよ」

「学校なんて、制服がちょっとマシな刑務所みたいなもんだろ」

「昨日は『学校は経験を積む場所だ』って言ってたじゃん」

「それは物理の授業を受ける前の俺だ」

ハルトは鞄を閉じた。

ソウタが彼のほうを向く。

「で?」

「何が?」

「今日もカラオケ行かない?」

「行かない」

「即答かよ」

「昨日と同じだから」

ソウタは大きくため息をついた。

「ハルト。もっと青春らしい生活を送ったほうがいいぞ」

「送ってる」

「夕方まで図書室にいるのは青春じゃない」

ハルトは黙った。

そして無意識に、教室の反対側へ視線を向ける。

ミオの席には、まだ彼女がいた。

リンと話しながら、教科書を鞄へ入れている。

ハルトはすぐに視線を逸らした。

ソウタが目を細める。

「ふーん」

「何?」

「別に」

「顔が『別に』じゃない」

ソウタが笑った。

「俺たち、だんだん分かり合えるようになってきたな」

「気持ち悪い」

「ひどい」

ハルトは立ち上がった。

「お前は行くの?」

「うん。C組のやつらがもう待ってる」

ソウタは鞄を持ち上げた。

「お前は?」

「分からない」

「また図書室?」

「たぶん」

ソウタは数秒、ハルトを見た。

それから肩をすくめる。

「まあ、いいけど」

ドアへ向かう。

そして教室を出る直前、振り返った。

「遅くなりすぎるなよ」

ハルトは眉を上げた。

「お前は俺の母親か?」

「違う」

ソウタは自分を指さす。

「心配してくれる親友だ」

「早く行け」

「はいはい」

笑いながら、ソウタは教室を出ていった。

ハルトはもう一度ミオの席を見た。

――空いている。

足が止まる。

ミオの鞄もない。

リンの姿も見えなかった。

もう帰った?

なぜそんな考えがすぐに浮かんだのか、ハルト自身にも分からなかった。

教室のドアを見る。

誰もいない。

「……俺、何してるんだ」

小さくため息をつく。

ハルトは鞄を持ち、教室を出た。



図書室は昨日より混んでいた。

利用時間が延びたという話が、少しずつ広まったらしい。

何人かの生徒がグループで勉強している。

隅では漫画を読んでいる生徒もいた。

運動部らしい二人は、チームジャケットを着たまま机で眠っている。

ハルトは窓際の席を選んだ。

数学の教科書を開く。

一問。

二問。

三問。

五分後。

ハルトは時計を見る。

16時12分。

再び問題を解く。

数分。

また時計を見る。

16時19分。

教科書を閉じる。

そしてまた開く。

「集中しろ」

自分に言い聞かせ、次の問題を読む。

だが、今日は数字の並びがいつも以上につまらなく感じた。

結局、スマートフォンを手に取る。

新しいメッセージはない。

ソウタからカラオケの写真が届いていた。

マイクを持ちながら、必要以上に真剣な顔をしている。

ハルトは返信する。

ハルト:
音量下げろ。店が永久閉店するぞ。

五秒もしないうちに返信が来た。

ソウタ:
羨ましいんだろ

ハルト:
全然

ソウタ:
来いよ

ハルト:
行かない

ソウタ:
ちなみにミオも今日来なかったぞ

ハルトの指が止まった。

メッセージをもう一度読む。

そして入力する。

ハルト:
だから?

三つの点が表示された。

消える。

また現れる。

ソウタ:
別に☺

ハルトはすぐに画面を消した。

「馬鹿」

スマートフォンを机に置く。

数秒後。

また手に取る。

新しいメッセージはない。

ハルトはため息をついた。

ミオがカラオケへ行かなかったという情報が、なぜ自分に関係あるように感じたのか分からない。

昨日もミオは行くのをやめた。

たぶん、それだけだ。

それ以上でも、それ以下でもない。

ハルトは再び勉強へ戻った。



午後四時四十五分。

ハルトは図書室を出た。

まだ残っていてもよかった。

だが、もう集中できそうになかった。

二階の廊下を歩く。

窓から夕方の光が差し込み始めていた。

いくつかの教室では、文化祭の準備をしているグループがまだ残っている。

ハサミの音。

机を動かす音。

飾り付けについて言い合う声。

二年B組の前を通る。

電気は消えていた。

ハルトは足を止める。

入る理由なんてない。

それでも、ドアの小さな窓から中を覗いた。

空っぽ。

当然だ。

自分でも少し笑いそうになった。

何を期待していたんだろう。

昨日はただの偶然だった。

約束なんてしていない。

予定だってない。

ミオが毎日、夕方まで教室に残っている理由もない。

ハルトはまた歩き出した。

廊下の端まで来たとき。

空いている部屋のひとつから、何かが落ちる音がした。

ガタン。

ハルトが止まる。

続けて声が聞こえた。

「あっ――」

女の子の声。

ハルトは音のした場所へ向かう。

文化祭準備室。

ドアが少し開いていた。

ハルトはノックした。

「失礼します?」

返事はない。

ドアを開ける。

そこには――

段ボール箱に囲まれて立っているミオがいた。

色紙の束が床一面に散らばっている。

ミオがハルトを見る。

ハルトもミオを見る。

「あ」

ミオが瞬きをした。

「アイザワくん?」

ハルトは床の惨状を見る。

「……倉庫と戦ってたの?」

「違う」

「そう見えるけど」

ミオは散らばった紙を見る。

「上の棚が高すぎたの」

ハルトが中へ入る。

「それで?」

「装飾が入ってる箱を取ろうとして」

「全部落ちた」

「全部じゃないよ」

ミオは棚を指さす。

「まだ二箱残ってる」

ハルトは笑いを堪えた。

「それはすごい」

「ちょっと」

ハルトは鞄をドアの近くへ置いた。

そしてしゃがみ込み、散らばった紙を集め始める。

ミオも床へ座った。

「ごめん」

「なんで?」

「巻き込んじゃって」

「勝手に入ってきたのは俺だよ」

「それもそうだね」

ハルトが彼女を見る。

ミオは笑った。

「アイザワくんが言ったんだからね」

ハルトは首を横に振る。

二人で片付け始めた。

リボン。

厚紙。

折り紙。

去年の文化祭で使われた古い飾り。

ハルトは少し潰れた紙の星を拾った。

「これ、まだ使うの?」

ミオが見る。

「たぶん」

「もう死にかけてるけど」

「星は死なないよ」

「これは死ぬ」

ミオが笑った。

ハルトはそれを別の箱へ入れた。

「なんで一人なの?」

「リンは先に帰ったから」

「一緒に帰らなかったの?」

「クラスの仕事があるから」

ミオは机の上にある小さなリストを指さした。

「まだ使える飾りを確認してって頼まれたの」

ハルトはうなずく。

「物流?」

「違うよ」

ミオが笑う。

「装飾係」

ハルトが黙る。

ミオが彼を見る。

「何?」

「別に」

「絶対何かある」

ハルトは絡まったリボンを一本持ち上げた。

「ソウタと同じ係だね」

ミオの表情が一瞬で変わった。

「あ……」

ハルトは笑いそうになる。

「なんでそんな絶望した顔するの?」

「別に」

「今、完全に絶望してた」

「来週の仕事量を想像しただけ」

ハルトが小さく笑う。

ミオが指を差す。

「笑わないで」

「ごめん」

二人は片付けを続けた。

数分後。

床は元通りになった。

ハルトが立ち上がる。

上の棚を見る。

「取りたかった箱ってどれ?」

ミオが指を差す。

「青いやつ」

ハルトは棚の前に立った。

手を伸ばす。

少し高いが、届く。

「これ?」

「うん」

ハルトはゆっくり箱を引っ張った。

上から埃が落ちる。

ミオが一歩下がる。

「ゆっくりね」

「分かってる」

「また落ちたら?」

「最初からやり直し」

「やめて」

ハルトは無事に箱を下ろした。

ミオがすぐに笑う。

「成功」

「すごいな」

「今、馬鹿にした?」

「少し」

ミオが箱を受け取る。

そして止まった。

「アイザワくん」

「ん?」

「今日も帰るの遅いんだね」

ハルトは少し黙った。

昨日と同じ質問。

「ミオもね」

ミオは小さく笑う。

「そうだね」

ハルトは壁の時計を見る。

16時58分。

昨日よりはまだ早い。

「もう終わり?」

「もう少し」

ミオが箱を開けた。

中には花の形をした飾りがたくさん入っていた。

ハルトはリストを見る。

「まだ多い?」

「少しだけ」

ハルトはリストを手に取った。

「どれがまだ?」

ミオがいくつか指さす。

「これ」

ハルトは棚を見る。

「じゃあ、さっさと終わらせよう」

ミオが瞬きをする。

「手伝ってくれるの?」

「少しだけなら」

ミオの笑顔が少し大きくなる。

「ありがとう」



午後五時二十分。

ようやく作業が終わった。

ミオが最後の箱を閉じる。

「終わった」

ハルトは机にもたれた。

「思ったよりかかったな」

「アイザワくんが全部真面目に確認するからだよ」

「手伝うなら最後までやったほうがいいだろ」

ミオが彼を見る。

ハルトは眉を上げる。

「何?」

「別に」

「笑ってる」

「人って笑っちゃダメなの?」

ハルトは昨日の会話を思い出した。

ミオを指さす。

「わざとだろ」

ミオが笑った。

「やっと気づいた」

ハルトはため息をつく。

「手伝ったの後悔してきた」

「嘘」

「なんで?」

「本当に後悔してたら、とっくに帰ってるでしょ」

ハルトは答えなかった。

ミオの言う通りだった。

いつでも帰れた。

でもなぜか、ずっとここにいた。

ミオが鞄を取る。

「喉乾いた」

「一階の自販機」

「知ってる」

二人は一緒に部屋を出た。

ハルトが準備室の電気を消す。

自動販売機の前へ着くと、ミオはすぐにミルクティーを選んだ。

ハルトが見る。

「また?」

ミオが硬貨を入れる。

「好きだから」

「だから昨日も頼んだんだ」

缶が落ちる。

ミオが取り出す。

「アイザワくんは?」

ハルトは昨日と同じコーヒーを選んだ。

ミオが見る。

「アイザワくんもまた同じ」

「だから?」

「別に」

二人はほとんど同時に缶を開けた。

カシュッ。

カシュッ。

ミオは二本の飲み物を見る。

そして笑った。

「何?」

「別に」

「笑ってる」

「ただの偶然」

「何が?」

ミオはミルクティーを少し持ち上げた。

「昨日もこうだったなって」

ハルトは自分のコーヒーを見る。

確かに。

同じ自動販売機。

同じ飲み物。

ほとんど同じ時間。

ハルトは肩をすくめる。

「偶然だろ」

ミオがうなずいた。

「うん」

けれど。

その声は、ほんの少しだけ違って聞こえた。



二人は再び二階へ戻った。

特に理由はない。

ハルトは、そのまま帰るのだと思っていた。

けれどミオは二年B組の前で足を止める。

「まだ入るの?」

ハルトが聞く。

ミオは窓を見る。

「夕日がきれいだから」

ハルトも見る。

夕方の空は鮮やかなオレンジ色だった。

光が空っぽの教室いっぱいに差し込んでいる。

ミオがドアを開ける。

ハルトもついて入った。

二人は座った。

自分たちの席ではない。

ミオは昨日と同じように、窓際の机を選んだ。

ハルトは二つ前の机に座る。

本もない。

宿題もない。

ただ飲み物を飲むだけ。

グラウンドから運動部の声がかすかに聞こえる。

ミオは窓の外を眺めた。

「学校がいつもこんなに静かだったら、朝より夕方に来るほうが好きかも」

ハルトが彼女を見る。

「俺も」

ミオが振り返る。

「本当に?」

ハルトはうなずいた。

「静かだから」

「うん」

ミオはまた外を見る。

「朝って人多すぎるよね」

「昼休みも」

「フジモトくんが一番うるさいけど」

「それは同意」

二人は小さく笑った。

ミオは手の中で缶を回す。

「アイザワくん」

「ん?」

「遅く帰るようになったのって、いつから?」

ハルトは黙った。

窓の外を見る。

また同じ話題。

でも今回は、ミオの声に秘密を探ろうとする感じはなかった。

ただ純粋に気になっただけ。

「たぶん、中学生くらいから」

「結構前なんだ」

「うん」

「一人で?」

「だいたい」

ミオはうなずいた。

どうしてなのかは聞かなかった。

昨日と同じ。

ハルトはそれに気づいた。

「ミオは?」

ミオが彼を見る。

「何が?」

「遅く帰るの」

ミオは自分の缶を見る。

「アイザワくんほど前からじゃないよ」

「最近?」

「まあね」

ハルトは待った。

だがミオは、それ以上話さなかった。

ハルトも聞かなかった。

しばらくして、ミオが小さく笑う。

「ありがとう」

ハルトが眉をひそめる。

「何が?」

「聞かないでくれて」

ハルトは彼女を見る。

「昨日、自分で『話したくなったら自分から話す』って言ってたじゃん」

ミオが小さく笑う。

「覚えてたんだ」

「昨日のことだから」

「そうだね」

再び静かになる。

ハルトは少しずつ分かり始めていた。

ミオと一緒にいるときの沈黙は、何か違う。

話題がなくて黙っているわけではない。

何かを言い続けなければならない必要がない。

そんな沈黙。

ハルトは、それが好きだった。

もしかすると――

思っていた以上に。



しばらくして、また校内放送が流れた。

『本校舎は十五分後に閉館します』

ミオはすぐに時計を見る。

17時45分。

「また?」

ハルトも驚いた。

「そろそろアラームでもかけたほうがいいな」

ミオが笑う。

二人は立ち上がり、片付け始めた。

今日は昨日より早かった。

窓を閉める。

椅子を戻す。

小さなゴミを捨てる。

ハルトが電気を消す。

二人は一緒に教室を出た。

階段を下りながら、ミオは一段前を歩いている。

「アイザワくん」

「ん?」

「明日、文化祭の作業ある?」

「たぶん」

「私も」

「装飾?」

「うん」

ミオが少し振り返る。

「もしフジモトくんが本当に何もできなかったら、私逃げるかも」

ハルトが笑った。

「見なかったことにするよ」

「ありがとう」

二人は正面玄関へ着いた。

夕方の空気が迎える。

今日は昨日より空が澄んでいた。

二人は駅へ向かって歩く。

また、約束したわけではない。

また、ただ方向が同じだっただけ。

ハルトは前を見る。

隣にはミオ。

今日も偶然会った。

昨日も偶然。

二回。

二つの放課後。

別に、おかしなことではない。

それでも。

改札の前へ着いたとき、ミオが足を止めた。

「また明日ね、アイザワくん」

ハルトはうなずく。

「また明日」

ミオが数歩進む。

しかし突然、振り返った。

「あ、そうだ」

ハルトが彼女を見る。

ミオは笑っていた。

「もし明日も放課後に学校に残ってたら……」

少し間を置く。

「……また会えるかもね」

ハルトは何も言えなかった。

ミオが小さく手を上げる。

「じゃあ、また」

そして去っていった。

ハルトは数秒、その場に立ったままだった。

ただの一言。

誘いのようにも聞こえない。

約束ですらない。

ただの可能性。

それなのに。

その日の帰り道。

ハルトは同じことを何度も考えている自分に気づいた。

明日。

放課後。

本当に、また会えるのだろうか。

そして初めて――

ハルトは、

その答えが「うん」であってほしいと思った。