午後三時四十分。
放課後のチャイムが鳴った。
その瞬間、二年B組の教室は椅子を引く音でいっぱいになった。
先生が完全に教室を出るより先に、ソウタが立ち上がる。
「自由だ!」
ハルトは教科書を鞄に入れた。
「刑務所から出てきたみたいな言い方するなよ」
「学校なんて、制服がちょっとマシな刑務所みたいなもんだろ」
「昨日は『学校は経験を積む場所だ』って言ってたじゃん」
「それは物理の授業を受ける前の俺だ」
ハルトは鞄を閉じた。
ソウタが彼のほうを向く。
「で?」
「何が?」
「今日もカラオケ行かない?」
「行かない」
「即答かよ」
「昨日と同じだから」
ソウタは大きくため息をついた。
「ハルト。もっと青春らしい生活を送ったほうがいいぞ」
「送ってる」
「夕方まで図書室にいるのは青春じゃない」
ハルトは黙った。
そして無意識に、教室の反対側へ視線を向ける。
ミオの席には、まだ彼女がいた。
リンと話しながら、教科書を鞄へ入れている。
ハルトはすぐに視線を逸らした。
ソウタが目を細める。
「ふーん」
「何?」
「別に」
「顔が『別に』じゃない」
ソウタが笑った。
「俺たち、だんだん分かり合えるようになってきたな」
「気持ち悪い」
「ひどい」
ハルトは立ち上がった。
「お前は行くの?」
「うん。C組のやつらがもう待ってる」
ソウタは鞄を持ち上げた。
「お前は?」
「分からない」
「また図書室?」
「たぶん」
ソウタは数秒、ハルトを見た。
それから肩をすくめる。
「まあ、いいけど」
ドアへ向かう。
そして教室を出る直前、振り返った。
「遅くなりすぎるなよ」
ハルトは眉を上げた。
「お前は俺の母親か?」
「違う」
ソウタは自分を指さす。
「心配してくれる親友だ」
「早く行け」
「はいはい」
笑いながら、ソウタは教室を出ていった。
ハルトはもう一度ミオの席を見た。
――空いている。
足が止まる。
ミオの鞄もない。
リンの姿も見えなかった。
もう帰った?
なぜそんな考えがすぐに浮かんだのか、ハルト自身にも分からなかった。
教室のドアを見る。
誰もいない。
「……俺、何してるんだ」
小さくため息をつく。
ハルトは鞄を持ち、教室を出た。
◇
図書室は昨日より混んでいた。
利用時間が延びたという話が、少しずつ広まったらしい。
何人かの生徒がグループで勉強している。
隅では漫画を読んでいる生徒もいた。
運動部らしい二人は、チームジャケットを着たまま机で眠っている。
ハルトは窓際の席を選んだ。
数学の教科書を開く。
一問。
二問。
三問。
五分後。
ハルトは時計を見る。
16時12分。
再び問題を解く。
数分。
また時計を見る。
16時19分。
教科書を閉じる。
そしてまた開く。
「集中しろ」
自分に言い聞かせ、次の問題を読む。
だが、今日は数字の並びがいつも以上につまらなく感じた。
結局、スマートフォンを手に取る。
新しいメッセージはない。
ソウタからカラオケの写真が届いていた。
マイクを持ちながら、必要以上に真剣な顔をしている。
ハルトは返信する。
ハルト:
音量下げろ。店が永久閉店するぞ。
五秒もしないうちに返信が来た。
ソウタ:
羨ましいんだろ
ハルト:
全然
ソウタ:
来いよ
ハルト:
行かない
ソウタ:
ちなみにミオも今日来なかったぞ
ハルトの指が止まった。
メッセージをもう一度読む。
そして入力する。
ハルト:
だから?
三つの点が表示された。
消える。
また現れる。
ソウタ:
別に☺
ハルトはすぐに画面を消した。
「馬鹿」
スマートフォンを机に置く。
数秒後。
また手に取る。
新しいメッセージはない。
ハルトはため息をついた。
ミオがカラオケへ行かなかったという情報が、なぜ自分に関係あるように感じたのか分からない。
昨日もミオは行くのをやめた。
たぶん、それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ハルトは再び勉強へ戻った。
◇
午後四時四十五分。
ハルトは図書室を出た。
まだ残っていてもよかった。
だが、もう集中できそうになかった。
二階の廊下を歩く。
窓から夕方の光が差し込み始めていた。
いくつかの教室では、文化祭の準備をしているグループがまだ残っている。
ハサミの音。
机を動かす音。
飾り付けについて言い合う声。
二年B組の前を通る。
電気は消えていた。
ハルトは足を止める。
入る理由なんてない。
それでも、ドアの小さな窓から中を覗いた。
空っぽ。
当然だ。
自分でも少し笑いそうになった。
何を期待していたんだろう。
昨日はただの偶然だった。
約束なんてしていない。
予定だってない。
ミオが毎日、夕方まで教室に残っている理由もない。
ハルトはまた歩き出した。
廊下の端まで来たとき。
空いている部屋のひとつから、何かが落ちる音がした。
ガタン。
ハルトが止まる。
続けて声が聞こえた。
「あっ――」
女の子の声。
ハルトは音のした場所へ向かう。
文化祭準備室。
ドアが少し開いていた。
ハルトはノックした。
「失礼します?」
返事はない。
ドアを開ける。
そこには――
段ボール箱に囲まれて立っているミオがいた。
色紙の束が床一面に散らばっている。
ミオがハルトを見る。
ハルトもミオを見る。
「あ」
ミオが瞬きをした。
「アイザワくん?」
ハルトは床の惨状を見る。
「……倉庫と戦ってたの?」
「違う」
「そう見えるけど」
ミオは散らばった紙を見る。
「上の棚が高すぎたの」
ハルトが中へ入る。
「それで?」
「装飾が入ってる箱を取ろうとして」
「全部落ちた」
「全部じゃないよ」
ミオは棚を指さす。
「まだ二箱残ってる」
ハルトは笑いを堪えた。
「それはすごい」
「ちょっと」
ハルトは鞄をドアの近くへ置いた。
そしてしゃがみ込み、散らばった紙を集め始める。
ミオも床へ座った。
「ごめん」
「なんで?」
「巻き込んじゃって」
「勝手に入ってきたのは俺だよ」
「それもそうだね」
ハルトが彼女を見る。
ミオは笑った。
「アイザワくんが言ったんだからね」
ハルトは首を横に振る。
二人で片付け始めた。
リボン。
厚紙。
折り紙。
去年の文化祭で使われた古い飾り。
ハルトは少し潰れた紙の星を拾った。
「これ、まだ使うの?」
ミオが見る。
「たぶん」
「もう死にかけてるけど」
「星は死なないよ」
「これは死ぬ」
ミオが笑った。
ハルトはそれを別の箱へ入れた。
「なんで一人なの?」
「リンは先に帰ったから」
「一緒に帰らなかったの?」
「クラスの仕事があるから」
ミオは机の上にある小さなリストを指さした。
「まだ使える飾りを確認してって頼まれたの」
ハルトはうなずく。
「物流?」
「違うよ」
ミオが笑う。
「装飾係」
ハルトが黙る。
ミオが彼を見る。
「何?」
「別に」
「絶対何かある」
ハルトは絡まったリボンを一本持ち上げた。
「ソウタと同じ係だね」
ミオの表情が一瞬で変わった。
「あ……」
ハルトは笑いそうになる。
「なんでそんな絶望した顔するの?」
「別に」
「今、完全に絶望してた」
「来週の仕事量を想像しただけ」
ハルトが小さく笑う。
ミオが指を差す。
「笑わないで」
「ごめん」
二人は片付けを続けた。
数分後。
床は元通りになった。
ハルトが立ち上がる。
上の棚を見る。
「取りたかった箱ってどれ?」
ミオが指を差す。
「青いやつ」
ハルトは棚の前に立った。
手を伸ばす。
少し高いが、届く。
「これ?」
「うん」
ハルトはゆっくり箱を引っ張った。
上から埃が落ちる。
ミオが一歩下がる。
「ゆっくりね」
「分かってる」
「また落ちたら?」
「最初からやり直し」
「やめて」
ハルトは無事に箱を下ろした。
ミオがすぐに笑う。
「成功」
「すごいな」
「今、馬鹿にした?」
「少し」
ミオが箱を受け取る。
そして止まった。
「アイザワくん」
「ん?」
「今日も帰るの遅いんだね」
ハルトは少し黙った。
昨日と同じ質問。
「ミオもね」
ミオは小さく笑う。
「そうだね」
ハルトは壁の時計を見る。
16時58分。
昨日よりはまだ早い。
「もう終わり?」
「もう少し」
ミオが箱を開けた。
中には花の形をした飾りがたくさん入っていた。
ハルトはリストを見る。
「まだ多い?」
「少しだけ」
ハルトはリストを手に取った。
「どれがまだ?」
ミオがいくつか指さす。
「これ」
ハルトは棚を見る。
「じゃあ、さっさと終わらせよう」
ミオが瞬きをする。
「手伝ってくれるの?」
「少しだけなら」
ミオの笑顔が少し大きくなる。
「ありがとう」
◇
午後五時二十分。
ようやく作業が終わった。
ミオが最後の箱を閉じる。
「終わった」
ハルトは机にもたれた。
「思ったよりかかったな」
「アイザワくんが全部真面目に確認するからだよ」
「手伝うなら最後までやったほうがいいだろ」
ミオが彼を見る。
ハルトは眉を上げる。
「何?」
「別に」
「笑ってる」
「人って笑っちゃダメなの?」
ハルトは昨日の会話を思い出した。
ミオを指さす。
「わざとだろ」
ミオが笑った。
「やっと気づいた」
ハルトはため息をつく。
「手伝ったの後悔してきた」
「嘘」
「なんで?」
「本当に後悔してたら、とっくに帰ってるでしょ」
ハルトは答えなかった。
ミオの言う通りだった。
いつでも帰れた。
でもなぜか、ずっとここにいた。
ミオが鞄を取る。
「喉乾いた」
「一階の自販機」
「知ってる」
二人は一緒に部屋を出た。
ハルトが準備室の電気を消す。
自動販売機の前へ着くと、ミオはすぐにミルクティーを選んだ。
ハルトが見る。
「また?」
ミオが硬貨を入れる。
「好きだから」
「だから昨日も頼んだんだ」
缶が落ちる。
ミオが取り出す。
「アイザワくんは?」
ハルトは昨日と同じコーヒーを選んだ。
ミオが見る。
「アイザワくんもまた同じ」
「だから?」
「別に」
二人はほとんど同時に缶を開けた。
カシュッ。
カシュッ。
ミオは二本の飲み物を見る。
そして笑った。
「何?」
「別に」
「笑ってる」
「ただの偶然」
「何が?」
ミオはミルクティーを少し持ち上げた。
「昨日もこうだったなって」
ハルトは自分のコーヒーを見る。
確かに。
同じ自動販売機。
同じ飲み物。
ほとんど同じ時間。
ハルトは肩をすくめる。
「偶然だろ」
ミオがうなずいた。
「うん」
けれど。
その声は、ほんの少しだけ違って聞こえた。
◇
二人は再び二階へ戻った。
特に理由はない。
ハルトは、そのまま帰るのだと思っていた。
けれどミオは二年B組の前で足を止める。
「まだ入るの?」
ハルトが聞く。
ミオは窓を見る。
「夕日がきれいだから」
ハルトも見る。
夕方の空は鮮やかなオレンジ色だった。
光が空っぽの教室いっぱいに差し込んでいる。
ミオがドアを開ける。
ハルトもついて入った。
二人は座った。
自分たちの席ではない。
ミオは昨日と同じように、窓際の机を選んだ。
ハルトは二つ前の机に座る。
本もない。
宿題もない。
ただ飲み物を飲むだけ。
グラウンドから運動部の声がかすかに聞こえる。
ミオは窓の外を眺めた。
「学校がいつもこんなに静かだったら、朝より夕方に来るほうが好きかも」
ハルトが彼女を見る。
「俺も」
ミオが振り返る。
「本当に?」
ハルトはうなずいた。
「静かだから」
「うん」
ミオはまた外を見る。
「朝って人多すぎるよね」
「昼休みも」
「フジモトくんが一番うるさいけど」
「それは同意」
二人は小さく笑った。
ミオは手の中で缶を回す。
「アイザワくん」
「ん?」
「遅く帰るようになったのって、いつから?」
ハルトは黙った。
窓の外を見る。
また同じ話題。
でも今回は、ミオの声に秘密を探ろうとする感じはなかった。
ただ純粋に気になっただけ。
「たぶん、中学生くらいから」
「結構前なんだ」
「うん」
「一人で?」
「だいたい」
ミオはうなずいた。
どうしてなのかは聞かなかった。
昨日と同じ。
ハルトはそれに気づいた。
「ミオは?」
ミオが彼を見る。
「何が?」
「遅く帰るの」
ミオは自分の缶を見る。
「アイザワくんほど前からじゃないよ」
「最近?」
「まあね」
ハルトは待った。
だがミオは、それ以上話さなかった。
ハルトも聞かなかった。
しばらくして、ミオが小さく笑う。
「ありがとう」
ハルトが眉をひそめる。
「何が?」
「聞かないでくれて」
ハルトは彼女を見る。
「昨日、自分で『話したくなったら自分から話す』って言ってたじゃん」
ミオが小さく笑う。
「覚えてたんだ」
「昨日のことだから」
「そうだね」
再び静かになる。
ハルトは少しずつ分かり始めていた。
ミオと一緒にいるときの沈黙は、何か違う。
話題がなくて黙っているわけではない。
何かを言い続けなければならない必要がない。
そんな沈黙。
ハルトは、それが好きだった。
もしかすると――
思っていた以上に。
◇
しばらくして、また校内放送が流れた。
『本校舎は十五分後に閉館します』
ミオはすぐに時計を見る。
17時45分。
「また?」
ハルトも驚いた。
「そろそろアラームでもかけたほうがいいな」
ミオが笑う。
二人は立ち上がり、片付け始めた。
今日は昨日より早かった。
窓を閉める。
椅子を戻す。
小さなゴミを捨てる。
ハルトが電気を消す。
二人は一緒に教室を出た。
階段を下りながら、ミオは一段前を歩いている。
「アイザワくん」
「ん?」
「明日、文化祭の作業ある?」
「たぶん」
「私も」
「装飾?」
「うん」
ミオが少し振り返る。
「もしフジモトくんが本当に何もできなかったら、私逃げるかも」
ハルトが笑った。
「見なかったことにするよ」
「ありがとう」
二人は正面玄関へ着いた。
夕方の空気が迎える。
今日は昨日より空が澄んでいた。
二人は駅へ向かって歩く。
また、約束したわけではない。
また、ただ方向が同じだっただけ。
ハルトは前を見る。
隣にはミオ。
今日も偶然会った。
昨日も偶然。
二回。
二つの放課後。
別に、おかしなことではない。
それでも。
改札の前へ着いたとき、ミオが足を止めた。
「また明日ね、アイザワくん」
ハルトはうなずく。
「また明日」
ミオが数歩進む。
しかし突然、振り返った。
「あ、そうだ」
ハルトが彼女を見る。
ミオは笑っていた。
「もし明日も放課後に学校に残ってたら……」
少し間を置く。
「……また会えるかもね」
ハルトは何も言えなかった。
ミオが小さく手を上げる。
「じゃあ、また」
そして去っていった。
ハルトは数秒、その場に立ったままだった。
ただの一言。
誘いのようにも聞こえない。
約束ですらない。
ただの可能性。
それなのに。
その日の帰り道。
ハルトは同じことを何度も考えている自分に気づいた。
明日。
放課後。
本当に、また会えるのだろうか。
そして初めて――
ハルトは、
その答えが「うん」であってほしいと思った。
放課後のチャイムが鳴った。
その瞬間、二年B組の教室は椅子を引く音でいっぱいになった。
先生が完全に教室を出るより先に、ソウタが立ち上がる。
「自由だ!」
ハルトは教科書を鞄に入れた。
「刑務所から出てきたみたいな言い方するなよ」
「学校なんて、制服がちょっとマシな刑務所みたいなもんだろ」
「昨日は『学校は経験を積む場所だ』って言ってたじゃん」
「それは物理の授業を受ける前の俺だ」
ハルトは鞄を閉じた。
ソウタが彼のほうを向く。
「で?」
「何が?」
「今日もカラオケ行かない?」
「行かない」
「即答かよ」
「昨日と同じだから」
ソウタは大きくため息をついた。
「ハルト。もっと青春らしい生活を送ったほうがいいぞ」
「送ってる」
「夕方まで図書室にいるのは青春じゃない」
ハルトは黙った。
そして無意識に、教室の反対側へ視線を向ける。
ミオの席には、まだ彼女がいた。
リンと話しながら、教科書を鞄へ入れている。
ハルトはすぐに視線を逸らした。
ソウタが目を細める。
「ふーん」
「何?」
「別に」
「顔が『別に』じゃない」
ソウタが笑った。
「俺たち、だんだん分かり合えるようになってきたな」
「気持ち悪い」
「ひどい」
ハルトは立ち上がった。
「お前は行くの?」
「うん。C組のやつらがもう待ってる」
ソウタは鞄を持ち上げた。
「お前は?」
「分からない」
「また図書室?」
「たぶん」
ソウタは数秒、ハルトを見た。
それから肩をすくめる。
「まあ、いいけど」
ドアへ向かう。
そして教室を出る直前、振り返った。
「遅くなりすぎるなよ」
ハルトは眉を上げた。
「お前は俺の母親か?」
「違う」
ソウタは自分を指さす。
「心配してくれる親友だ」
「早く行け」
「はいはい」
笑いながら、ソウタは教室を出ていった。
ハルトはもう一度ミオの席を見た。
――空いている。
足が止まる。
ミオの鞄もない。
リンの姿も見えなかった。
もう帰った?
なぜそんな考えがすぐに浮かんだのか、ハルト自身にも分からなかった。
教室のドアを見る。
誰もいない。
「……俺、何してるんだ」
小さくため息をつく。
ハルトは鞄を持ち、教室を出た。
◇
図書室は昨日より混んでいた。
利用時間が延びたという話が、少しずつ広まったらしい。
何人かの生徒がグループで勉強している。
隅では漫画を読んでいる生徒もいた。
運動部らしい二人は、チームジャケットを着たまま机で眠っている。
ハルトは窓際の席を選んだ。
数学の教科書を開く。
一問。
二問。
三問。
五分後。
ハルトは時計を見る。
16時12分。
再び問題を解く。
数分。
また時計を見る。
16時19分。
教科書を閉じる。
そしてまた開く。
「集中しろ」
自分に言い聞かせ、次の問題を読む。
だが、今日は数字の並びがいつも以上につまらなく感じた。
結局、スマートフォンを手に取る。
新しいメッセージはない。
ソウタからカラオケの写真が届いていた。
マイクを持ちながら、必要以上に真剣な顔をしている。
ハルトは返信する。
ハルト:
音量下げろ。店が永久閉店するぞ。
五秒もしないうちに返信が来た。
ソウタ:
羨ましいんだろ
ハルト:
全然
ソウタ:
来いよ
ハルト:
行かない
ソウタ:
ちなみにミオも今日来なかったぞ
ハルトの指が止まった。
メッセージをもう一度読む。
そして入力する。
ハルト:
だから?
三つの点が表示された。
消える。
また現れる。
ソウタ:
別に☺
ハルトはすぐに画面を消した。
「馬鹿」
スマートフォンを机に置く。
数秒後。
また手に取る。
新しいメッセージはない。
ハルトはため息をついた。
ミオがカラオケへ行かなかったという情報が、なぜ自分に関係あるように感じたのか分からない。
昨日もミオは行くのをやめた。
たぶん、それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ハルトは再び勉強へ戻った。
◇
午後四時四十五分。
ハルトは図書室を出た。
まだ残っていてもよかった。
だが、もう集中できそうになかった。
二階の廊下を歩く。
窓から夕方の光が差し込み始めていた。
いくつかの教室では、文化祭の準備をしているグループがまだ残っている。
ハサミの音。
机を動かす音。
飾り付けについて言い合う声。
二年B組の前を通る。
電気は消えていた。
ハルトは足を止める。
入る理由なんてない。
それでも、ドアの小さな窓から中を覗いた。
空っぽ。
当然だ。
自分でも少し笑いそうになった。
何を期待していたんだろう。
昨日はただの偶然だった。
約束なんてしていない。
予定だってない。
ミオが毎日、夕方まで教室に残っている理由もない。
ハルトはまた歩き出した。
廊下の端まで来たとき。
空いている部屋のひとつから、何かが落ちる音がした。
ガタン。
ハルトが止まる。
続けて声が聞こえた。
「あっ――」
女の子の声。
ハルトは音のした場所へ向かう。
文化祭準備室。
ドアが少し開いていた。
ハルトはノックした。
「失礼します?」
返事はない。
ドアを開ける。
そこには――
段ボール箱に囲まれて立っているミオがいた。
色紙の束が床一面に散らばっている。
ミオがハルトを見る。
ハルトもミオを見る。
「あ」
ミオが瞬きをした。
「アイザワくん?」
ハルトは床の惨状を見る。
「……倉庫と戦ってたの?」
「違う」
「そう見えるけど」
ミオは散らばった紙を見る。
「上の棚が高すぎたの」
ハルトが中へ入る。
「それで?」
「装飾が入ってる箱を取ろうとして」
「全部落ちた」
「全部じゃないよ」
ミオは棚を指さす。
「まだ二箱残ってる」
ハルトは笑いを堪えた。
「それはすごい」
「ちょっと」
ハルトは鞄をドアの近くへ置いた。
そしてしゃがみ込み、散らばった紙を集め始める。
ミオも床へ座った。
「ごめん」
「なんで?」
「巻き込んじゃって」
「勝手に入ってきたのは俺だよ」
「それもそうだね」
ハルトが彼女を見る。
ミオは笑った。
「アイザワくんが言ったんだからね」
ハルトは首を横に振る。
二人で片付け始めた。
リボン。
厚紙。
折り紙。
去年の文化祭で使われた古い飾り。
ハルトは少し潰れた紙の星を拾った。
「これ、まだ使うの?」
ミオが見る。
「たぶん」
「もう死にかけてるけど」
「星は死なないよ」
「これは死ぬ」
ミオが笑った。
ハルトはそれを別の箱へ入れた。
「なんで一人なの?」
「リンは先に帰ったから」
「一緒に帰らなかったの?」
「クラスの仕事があるから」
ミオは机の上にある小さなリストを指さした。
「まだ使える飾りを確認してって頼まれたの」
ハルトはうなずく。
「物流?」
「違うよ」
ミオが笑う。
「装飾係」
ハルトが黙る。
ミオが彼を見る。
「何?」
「別に」
「絶対何かある」
ハルトは絡まったリボンを一本持ち上げた。
「ソウタと同じ係だね」
ミオの表情が一瞬で変わった。
「あ……」
ハルトは笑いそうになる。
「なんでそんな絶望した顔するの?」
「別に」
「今、完全に絶望してた」
「来週の仕事量を想像しただけ」
ハルトが小さく笑う。
ミオが指を差す。
「笑わないで」
「ごめん」
二人は片付けを続けた。
数分後。
床は元通りになった。
ハルトが立ち上がる。
上の棚を見る。
「取りたかった箱ってどれ?」
ミオが指を差す。
「青いやつ」
ハルトは棚の前に立った。
手を伸ばす。
少し高いが、届く。
「これ?」
「うん」
ハルトはゆっくり箱を引っ張った。
上から埃が落ちる。
ミオが一歩下がる。
「ゆっくりね」
「分かってる」
「また落ちたら?」
「最初からやり直し」
「やめて」
ハルトは無事に箱を下ろした。
ミオがすぐに笑う。
「成功」
「すごいな」
「今、馬鹿にした?」
「少し」
ミオが箱を受け取る。
そして止まった。
「アイザワくん」
「ん?」
「今日も帰るの遅いんだね」
ハルトは少し黙った。
昨日と同じ質問。
「ミオもね」
ミオは小さく笑う。
「そうだね」
ハルトは壁の時計を見る。
16時58分。
昨日よりはまだ早い。
「もう終わり?」
「もう少し」
ミオが箱を開けた。
中には花の形をした飾りがたくさん入っていた。
ハルトはリストを見る。
「まだ多い?」
「少しだけ」
ハルトはリストを手に取った。
「どれがまだ?」
ミオがいくつか指さす。
「これ」
ハルトは棚を見る。
「じゃあ、さっさと終わらせよう」
ミオが瞬きをする。
「手伝ってくれるの?」
「少しだけなら」
ミオの笑顔が少し大きくなる。
「ありがとう」
◇
午後五時二十分。
ようやく作業が終わった。
ミオが最後の箱を閉じる。
「終わった」
ハルトは机にもたれた。
「思ったよりかかったな」
「アイザワくんが全部真面目に確認するからだよ」
「手伝うなら最後までやったほうがいいだろ」
ミオが彼を見る。
ハルトは眉を上げる。
「何?」
「別に」
「笑ってる」
「人って笑っちゃダメなの?」
ハルトは昨日の会話を思い出した。
ミオを指さす。
「わざとだろ」
ミオが笑った。
「やっと気づいた」
ハルトはため息をつく。
「手伝ったの後悔してきた」
「嘘」
「なんで?」
「本当に後悔してたら、とっくに帰ってるでしょ」
ハルトは答えなかった。
ミオの言う通りだった。
いつでも帰れた。
でもなぜか、ずっとここにいた。
ミオが鞄を取る。
「喉乾いた」
「一階の自販機」
「知ってる」
二人は一緒に部屋を出た。
ハルトが準備室の電気を消す。
自動販売機の前へ着くと、ミオはすぐにミルクティーを選んだ。
ハルトが見る。
「また?」
ミオが硬貨を入れる。
「好きだから」
「だから昨日も頼んだんだ」
缶が落ちる。
ミオが取り出す。
「アイザワくんは?」
ハルトは昨日と同じコーヒーを選んだ。
ミオが見る。
「アイザワくんもまた同じ」
「だから?」
「別に」
二人はほとんど同時に缶を開けた。
カシュッ。
カシュッ。
ミオは二本の飲み物を見る。
そして笑った。
「何?」
「別に」
「笑ってる」
「ただの偶然」
「何が?」
ミオはミルクティーを少し持ち上げた。
「昨日もこうだったなって」
ハルトは自分のコーヒーを見る。
確かに。
同じ自動販売機。
同じ飲み物。
ほとんど同じ時間。
ハルトは肩をすくめる。
「偶然だろ」
ミオがうなずいた。
「うん」
けれど。
その声は、ほんの少しだけ違って聞こえた。
◇
二人は再び二階へ戻った。
特に理由はない。
ハルトは、そのまま帰るのだと思っていた。
けれどミオは二年B組の前で足を止める。
「まだ入るの?」
ハルトが聞く。
ミオは窓を見る。
「夕日がきれいだから」
ハルトも見る。
夕方の空は鮮やかなオレンジ色だった。
光が空っぽの教室いっぱいに差し込んでいる。
ミオがドアを開ける。
ハルトもついて入った。
二人は座った。
自分たちの席ではない。
ミオは昨日と同じように、窓際の机を選んだ。
ハルトは二つ前の机に座る。
本もない。
宿題もない。
ただ飲み物を飲むだけ。
グラウンドから運動部の声がかすかに聞こえる。
ミオは窓の外を眺めた。
「学校がいつもこんなに静かだったら、朝より夕方に来るほうが好きかも」
ハルトが彼女を見る。
「俺も」
ミオが振り返る。
「本当に?」
ハルトはうなずいた。
「静かだから」
「うん」
ミオはまた外を見る。
「朝って人多すぎるよね」
「昼休みも」
「フジモトくんが一番うるさいけど」
「それは同意」
二人は小さく笑った。
ミオは手の中で缶を回す。
「アイザワくん」
「ん?」
「遅く帰るようになったのって、いつから?」
ハルトは黙った。
窓の外を見る。
また同じ話題。
でも今回は、ミオの声に秘密を探ろうとする感じはなかった。
ただ純粋に気になっただけ。
「たぶん、中学生くらいから」
「結構前なんだ」
「うん」
「一人で?」
「だいたい」
ミオはうなずいた。
どうしてなのかは聞かなかった。
昨日と同じ。
ハルトはそれに気づいた。
「ミオは?」
ミオが彼を見る。
「何が?」
「遅く帰るの」
ミオは自分の缶を見る。
「アイザワくんほど前からじゃないよ」
「最近?」
「まあね」
ハルトは待った。
だがミオは、それ以上話さなかった。
ハルトも聞かなかった。
しばらくして、ミオが小さく笑う。
「ありがとう」
ハルトが眉をひそめる。
「何が?」
「聞かないでくれて」
ハルトは彼女を見る。
「昨日、自分で『話したくなったら自分から話す』って言ってたじゃん」
ミオが小さく笑う。
「覚えてたんだ」
「昨日のことだから」
「そうだね」
再び静かになる。
ハルトは少しずつ分かり始めていた。
ミオと一緒にいるときの沈黙は、何か違う。
話題がなくて黙っているわけではない。
何かを言い続けなければならない必要がない。
そんな沈黙。
ハルトは、それが好きだった。
もしかすると――
思っていた以上に。
◇
しばらくして、また校内放送が流れた。
『本校舎は十五分後に閉館します』
ミオはすぐに時計を見る。
17時45分。
「また?」
ハルトも驚いた。
「そろそろアラームでもかけたほうがいいな」
ミオが笑う。
二人は立ち上がり、片付け始めた。
今日は昨日より早かった。
窓を閉める。
椅子を戻す。
小さなゴミを捨てる。
ハルトが電気を消す。
二人は一緒に教室を出た。
階段を下りながら、ミオは一段前を歩いている。
「アイザワくん」
「ん?」
「明日、文化祭の作業ある?」
「たぶん」
「私も」
「装飾?」
「うん」
ミオが少し振り返る。
「もしフジモトくんが本当に何もできなかったら、私逃げるかも」
ハルトが笑った。
「見なかったことにするよ」
「ありがとう」
二人は正面玄関へ着いた。
夕方の空気が迎える。
今日は昨日より空が澄んでいた。
二人は駅へ向かって歩く。
また、約束したわけではない。
また、ただ方向が同じだっただけ。
ハルトは前を見る。
隣にはミオ。
今日も偶然会った。
昨日も偶然。
二回。
二つの放課後。
別に、おかしなことではない。
それでも。
改札の前へ着いたとき、ミオが足を止めた。
「また明日ね、アイザワくん」
ハルトはうなずく。
「また明日」
ミオが数歩進む。
しかし突然、振り返った。
「あ、そうだ」
ハルトが彼女を見る。
ミオは笑っていた。
「もし明日も放課後に学校に残ってたら……」
少し間を置く。
「……また会えるかもね」
ハルトは何も言えなかった。
ミオが小さく手を上げる。
「じゃあ、また」
そして去っていった。
ハルトは数秒、その場に立ったままだった。
ただの一言。
誘いのようにも聞こえない。
約束ですらない。
ただの可能性。
それなのに。
その日の帰り道。
ハルトは同じことを何度も考えている自分に気づいた。
明日。
放課後。
本当に、また会えるのだろうか。
そして初めて――
ハルトは、
その答えが「うん」であってほしいと思った。
