ハルトは背後で教室のドアを閉めた。
カチッ。
その小さな音が、いつもよりずっとはっきり聞こえた。
たぶん、二階にはもうほとんど誰も残っていないからだ。
ミオはまだ窓際の席に座っていた。
夕日のオレンジ色の光が横から差し込み、教室の机の上へ長く伸びている。
ハルトはドアから数歩離れたところに立っていた。
ミオが彼を見る。
ハルトも見返した。
数秒。
どちらも何も言わない。
「……それで」
先に口を開いたのはミオだった。
「どうしてまだここにいるの?」
ハルトは少し眉を上げた。
「またそれ聞くの?」
ミオが瞬きをする。
それから、小さく笑った。
「そうだったね」
ハルトは自分の席へ向かった。
鞄はもうそこにはない。
さっき図書室へ持っていったからだ。
教室の電気がつけっぱなしになっていないか確認する。
それだけのつもりだった。
少なくとも、最初は。
ハルトはミオを見る。
「カラオケ、行かなかったの?」
ミオは少し驚いたようだった。
「知ってたの?」
「ソウタが言ってた」
「ああ」
ミオは小さくうなずく。
「最初は行くつもりだったんだけど」
「じゃあ、なんで?」
「やめた」
「どうして?」
ミオは黙った。
ほんの少しだけ。
そして笑う。
「面倒になったから」
ハルトは彼女を見た。
あまりにも単純な答えだ。
けれど、それ以上聞こうとは思わなかった。
「分かる」
今度はミオが戸惑った顔をする。
「え?」
「俺も面倒になって予定をやめることあるし」
ミオは口元を手で隠しながら笑った。
「アイザワくんなら、『約束をキャンセルするなんて失礼だ』とか言うかと思った」
「なんで俺がそんなこと言うんだよ」
「なんとなく」
ミオは椅子に少しもたれた。
「アイザワくんって、いつも予定通りに行動しそうだから」
ハルトは自分を見る。
「そう見える?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ観察が間違ってる」
「え?」
「俺、今日の晩ご飯すらまだ決めてない」
ミオがまた笑う。
ハルトも知らないうちに少し笑っていた。
再び静かになる。
不思議だった。
そこまで仲の良くない相手との沈黙は、普通なら気まずい。
けれど今は、それほど悪くなかった。
ハルトは照明のスイッチへ向かう。
「まだいるなら、電気は消さないほうがいいな」
「あ」
ミオが天井を見る。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「電気を消しに来たんだと思って」
「そのつもりだったけど」
ハルトは立ち止まる。
「まだ人がいるなら消さない」
ミオが笑った。
「ありがとう」
ハルトはうなずいた。
本来なら、それで終わるはずだった。
教室は確認した。
ミオはまだいる。
だから電気も必要だ。
なら、もう帰ればいい。
ハルトはドアへ向かう。
一歩。
二歩。
三歩。
「アイザワくん」
ハルトが止まる。
振り返った。
ミオが一冊の本を持ち上げている。
「図書室って、まだ開いてるよね?」
「うん」
「六時まで?」
「うん」
「そっか……」
ミオはもう一度本を見る。
ハルトは待った。
しかし、その先を彼女は言わなかった。
「何?」
「ううん」
ミオは笑う。
「ブラウ先生のお知らせを思い出しただけ」
ハルトはうなずく。
「そっか」
また帰ろうとする。
そのとき、壁の時計が目に入った。
17時34分。
いつも乗る次の電車までは、まだ時間がある。
急ぐ理由もない。
ハルトは廊下を見る。
静かだった。
そして、もう一度ミオを見る。
「勉強してるの?」
ミオは手に持っている本を見る。
「別に」
「何の本?」
ミオが表紙をこちらへ向ける。
小説だった。
ハルトの知らないタイトルだ。
「面白い?」
「まあまあ」
「じゃあ、そんなに面白くない?」
ミオはわざと不満そうな顔をした。
「『まあまあ』だって、面白いって意味になるよ」
「本当に面白かったら普通は『面白い』って言うだろ」
ミオが目を細める。
「アイザワくんって、意外と意地悪なんだね」
ハルトは少し黙った。
「今気づいた?」
ミオが笑う。
ハルトは結局、教室の中へ戻った。
ミオから何席か離れたところの椅子を引く。
ミオが彼を見る。
「帰らないの?」
「まだ」
「どうして?」
ハルトは座った。
「次の電車まで時間あるから」
それがすべての理由ではない。
けれど、嘘でもなかった。
ミオはうなずいた。
「そっか」
ハルトはスマートフォンを取り出す。
新しいメッセージはない。
ニュースアプリを開く。
閉じる。
SNSを開く。
また閉じる。
しばらくして、窓際からページをめくる音が聞こえた。
ハルトがそちらを見る。
ミオはまた本を読んでいた。
二人は話さない。
五分。
もしかすると、それ以上。
時々、グラウンドから笛の音が聞こえる。
遠くの階下から、走る靴音も聞こえた。
外の空が少しずつ色を変えていく。
ハルトはもう一度ミオを見る。
本当に読書に集中している。
朝の教室にいるときより、表情がずっと穏やかだった。
話しかけてくる生徒はいない。
ノートを借りに来る人もいない。
リンもいない。
ソウタもいない。
ただ、ミオだけ。
ハルトはそこで初めて気づいた。
今ここにいるミオは、普段見ているミオとは少し違う。
大きく違うわけではない。
ただ――
静かで。
力が抜けていて。
何か決まった表情を保つ必要がないように見えた。
突然、ミオがこちらを見る。
ハルトはすぐにスマートフォンへ視線を落とした。
「……今、私のこと見てた?」
「見てない」
「答えるの早すぎない?」
「簡単な質問だったから」
ミオは数秒、彼を見つめる。
ハルトはスマートフォンを操作しているふりをした。
やがて、小さな音が聞こえる。
ミオが笑っていた。
「アイザワくん」
「ん?」
「嘘つくの、意外と分かりやすいね」
ハルトはため息をついた。
「本を見てただけ」
「本は下にあるけど」
ハルトが見る。
確かに。
ミオは本をかなり低い位置で持っていた。
「……窓のほうを見てた」
「私、その真ん前に座ってるよ」
ハルトは黙った。
ミオが満足そうに笑う。
「降参?」
「降参」
ミオがまた笑った。
ハルトは椅子の背にもたれる。
「いつもこうなの?」
「どういう意味?」
「人を尋問するのが好きなの?」
「怪しい人だけね」
「俺は座ってただけだ」
「そのあと人を見てた」
「一回だけ」
「二回」
「数えてたの?」
ミオが少し顎を上げる。
「もちろん」
ハルトは首を横に振る。
「変なの」
「アイザワくんもね」
「なんで俺?」
「普通の人ならもう帰ってるから」
ハルトが彼女を見る。
ミオは笑っていた。
「もう六時近いのに、私たち二人ともまだ学校にいる」
否定できなかった。
「確かに」
再び沈黙。
今度はミオから話し始めた。
「アイザワくん」
「ん?」
「いつもこんなに遅く帰るの?」
ハルトは少し黙った。
昼にソウタから聞かれたのと同じ質問だ。
「たまに」
「よくある?」
「たぶん」
「どうして?」
ハルトは時計を見る。
それから窓の外へ目を向けた。
「特に理由はない」
ミオはすぐには答えなかった。
ハルトが彼女を見る。
また質問されると思った。
けれど、ミオはただうなずいた。
「そっか」
ハルトは少し驚く。
「もっと聞かないの?」
「どうして?」
「普通なら『理由がないわけないでしょ』とか言わない?」
ミオは本を閉じた。
「話したくなったら、そのうち自分から話すでしょ」
ハルトは黙る。
ミオが小さく肩をすくめた。
「話したくないなら、それでもいいし」
単純な言葉だった。
ハルトはしばらく彼女を見る。
そして視線を逸らした。
「……ミオも」
「ん?」
「なんでまだここにいるの?」
ほんの一瞬だけ。
ミオの動きが止まった。
気づかないほど短い時間。
そして、すぐいつもの表情に戻る。
「特に理由はないよ」
ハルトが見る。
ミオが笑った。
「これでおあいこ」
ハルトは小さく鼻を鳴らした。
「ずるい」
「先にやったのはアイザワくんでしょ」
なぜか、ミオの答えが完全に本当ではないような気がした。
けれどハルト自身も、説明しなくていいという選択肢をもらったばかりだ。
なら、ミオに説明を求めるのは不公平だろう。
ハルトは立ち上がった。
「飲み物買ってくる」
ミオが時計を見る。
「自販機、まだ使える?」
「たぶん」
「ついでにお願いしてもいい?」
ハルトが止まる。
「何?」
「ミルクティー」
ミオが財布を取り出す。
「もしあったら」
ハルトは彼女を見る。
「俺がちゃんと戻ってくるって信用してるの?」
ミオが瞬きをする。
「百五十円持って逃げるつもり?」
ハルトはミオの手の中の硬貨を見る。
「……割に合わないな」
「でしょ?」
ミオが硬貨を渡した。
ハルトは受け取る。
「ミルクティー?」
「うん」
「売り切れてたら?」
「レモンティー」
「それも売り切れてたら?」
「水」
「それも?」
ミオが彼を見る。
「アイザワくん」
「ん?」
「全部売り切れてたら、その自販機壊れてるよ」
ハルトは小さく笑った。
「確かに」
教室を出る。
◇
自動販売機は一階の廊下の端にあった。
ハルトは自分用の缶コーヒーを買う。
それからミルクティーを探した。
あった。
ミオから預かった硬貨を入れる。
小さな缶が下へ落ちる。
ハルトはそれを取った。
立ち上がったとき、販売機のガラスに自分の姿が映る。
なぜか、ミオの飲み物を買っていることが少しだけ変な感じがした。
別に普通のことなのに。
クラスメイト同士で飲み物を頼むなんて、毎日のようにある。
ソウタなんて、どれを選べばいいか決められないという理由だけで、一度に三種類買ってきてくれと言ったこともある。
何もおかしくない。
ハルトは二本の飲み物を小さなビニール袋に入れた。
ロビーを通り過ぎるとき、
校門の近くに一台の車が止まるのが見えた。
そばに、一人の男性が立っている。
外灯の下で、髪が明るく見えた。
スマートフォンを見ている。
数秒後。
職員棟のドアが開いた。
ブラウが出てくる。
男性が手を上げる。
ブラウが笑った。
教室ではあまり見ない表情だった。
ハルトは一瞬だけ見て、そのまま歩き続けた。
たぶん、フリン。
彼女の夫だろう。
立ち止まって見る理由はない。
◇
教室へ戻ると、ミオはまだ同じ場所にいた。
ただし、本はもう閉じられている。
「戻ってきた」
ハルトがビニール袋を持ち上げる。
「戻ってこないほうがよかったみたいな言い方だな」
「戻ってこなかったら、明日ブラウ先生に言うつもりだった」
「百五十円で?」
「金額の問題じゃないから」
ハルトはミルクティーを渡した。
ミオは両手で受け取る。
「ありがとう」
「ん」
ハルトもまた座る。
ほとんど同時に二人は缶を開けた。
カシュッ。
カシュッ。
二つの音が静かな教室に小さく響く。
ミオはミルクティーを一口飲む。
それからハルトのコーヒーを見る。
「コーヒー好きなの?」
「まあまあ」
ミオがすぐに彼を指さす。
「ほら」
「何?」
「『まあまあ』でも好きって意味になるでしょ」
ハルトが彼女を見る。
ミオは得意そうに笑った。
ハルトは小さく笑うのを我慢できなかった。
「分かった。ミオの勝ち」
「諦めるの早いね」
「勝てない議論は分かる」
「賢い」
「今それ言われても褒められてる気がしない」
「なんで?」
「笑ってるから」
「人は笑っちゃダメなの?」
ハルトはため息をつく。
ミオがまた笑った。
いつからかは分からない。
けれど二人の会話は、少しずつ楽になっていた。
学校祭のこと。
黒板に文字を書くのが速すぎる数学教師のこと。
いつも宿題を忘れるソウタのこと。
絶対に得意だと言い張るくせに、実はクレーンゲームがものすごく下手なリンのこと。
大切な話は一つもない。
秘密を打ち明けたわけでもない。
ほかの誰かなら、きっと覚えてもいないような話ばかりだ。
それでも。
ハルトが気づかないうちに、時間はずっと早く進んでいた。
やがて校内放送が流れる。
『まだ校内に残っている生徒にお知らせします。本校舎は十五分後に閉館します』
ハルトとミオは同時にスピーカーを見た。
ミオが時計を見る。
17時45分。
「え?」
本当に驚いた顔だった。
「もうこんな時間?」
ハルトも今になって気づいた。
「みたいだな」
ミオは慌てて本を鞄へ入れる。
ハルトも立ち上がった。
机を確認する。
窓を閉める。
忘れ物がないか確かめる。
ハルトが照明のスイッチへ向かう。
今度はミオもドアの近くに立っていた。
「大丈夫?」
「うん」
ハルトが電気を消す。
カチッ。
教室が暗くなった。
廊下の窓から差し込む最後のオレンジ色の光だけが、部屋を照らしている。
二人は一緒に教室を出た。
ハルトがドアを閉める。
ミオはその横に立っていた。
「なんか変な感じ」
「何が?」
「もう夜みたいな時間に教室から出るの」
「まだ夜じゃないだろ」
「高校生にとって六時は夜なの」
「どこのルールだよ」
「感覚」
ハルトは彼女を見る。
「ソウタみたいなこと言うな」
ミオはすぐに嫌そうな顔をした。
「今の取り消して」
ハルトは笑った。
二人は並んで階段を下りた。
一緒に帰ろうと約束したわけではない。
ただ、行く方向が同じだっただけだ。
正面玄関を通ると、職員がうなずいた。
「気をつけて」
「はい」
「ありがとうございます」
夕方の空気は、朝より少し冷たかった。
ホシミの空はすでに濃い青色へ変わり、
西の地平線にだけ細いオレンジ色が残っている。
二人は校門を出た。
ハルトは両手をポケットに入れる。
ミオは数歩横を歩いていた。
「電車?」
「うん」
「セントラル方面?」
「うん」
「じゃあ同じだ」
ハルトが見る。
「ミオも?」
彼女はうなずく。
「セントラルから二駅先」
「そっか」
また歩く。
数メートルのあいだ、会話はなかった。
すると突然、ミオが言った。
「アイザワくん」
「ん?」
「明日も遅く帰る?」
ハルトはすぐには答えなかった。
そもそも、いつも予定して残っているわけではない。
「たぶん」
ミオがうなずく。
「たぶん、か」
「なんで?」
「別に」
ミオは前を向いた。
それから小さく笑う。
「聞いただけ」
駅の手前の交差点に着いた。
信号はまだ赤い。
二人は立ち止まる。
ハルトはミオを見る。
彼女はもう空になったミルクティーの缶を軽く振っていた。
「これ、ありがとう」
「自分で払っただろ」
「でも取りに行ってくれたのはアイザワくんだから」
「じゃあ、どういたしまして」
信号が青になる。
二人は横断歩道を渡った。
駅前へ近づくにつれ、人の流れが増えていく。
学校の静けさは、少しずつ街の音に置き換わった。
改札へ入る前。
ミオが足を止める。
「アイザワくん」
ハルトが振り返る。
「明日」
「ん?」
ミオは小さく手を上げる。
「またね」
ハルトもうなずいた。
「また明日」
ミオは自分のホームへ向かって歩いていった。
ハルトは数秒その姿を見てから、反対方向へ向かう。
それは、ただの普通の一日の終わりになるはずだった。
普通の会話。
普通のクラスメイトとの時間。
特別なことなんて、何もない。
少なくとも、ハルトはそう思っていた。
翌日――
放課後のチャイムが鳴ったとき。
ハルトは初めて、
無意識にミオの席へ目を向けていた。
彼女がもう帰ったのか。
それとも――
まだ、そこにいるのかを確かめるために。
カチッ。
その小さな音が、いつもよりずっとはっきり聞こえた。
たぶん、二階にはもうほとんど誰も残っていないからだ。
ミオはまだ窓際の席に座っていた。
夕日のオレンジ色の光が横から差し込み、教室の机の上へ長く伸びている。
ハルトはドアから数歩離れたところに立っていた。
ミオが彼を見る。
ハルトも見返した。
数秒。
どちらも何も言わない。
「……それで」
先に口を開いたのはミオだった。
「どうしてまだここにいるの?」
ハルトは少し眉を上げた。
「またそれ聞くの?」
ミオが瞬きをする。
それから、小さく笑った。
「そうだったね」
ハルトは自分の席へ向かった。
鞄はもうそこにはない。
さっき図書室へ持っていったからだ。
教室の電気がつけっぱなしになっていないか確認する。
それだけのつもりだった。
少なくとも、最初は。
ハルトはミオを見る。
「カラオケ、行かなかったの?」
ミオは少し驚いたようだった。
「知ってたの?」
「ソウタが言ってた」
「ああ」
ミオは小さくうなずく。
「最初は行くつもりだったんだけど」
「じゃあ、なんで?」
「やめた」
「どうして?」
ミオは黙った。
ほんの少しだけ。
そして笑う。
「面倒になったから」
ハルトは彼女を見た。
あまりにも単純な答えだ。
けれど、それ以上聞こうとは思わなかった。
「分かる」
今度はミオが戸惑った顔をする。
「え?」
「俺も面倒になって予定をやめることあるし」
ミオは口元を手で隠しながら笑った。
「アイザワくんなら、『約束をキャンセルするなんて失礼だ』とか言うかと思った」
「なんで俺がそんなこと言うんだよ」
「なんとなく」
ミオは椅子に少しもたれた。
「アイザワくんって、いつも予定通りに行動しそうだから」
ハルトは自分を見る。
「そう見える?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ観察が間違ってる」
「え?」
「俺、今日の晩ご飯すらまだ決めてない」
ミオがまた笑う。
ハルトも知らないうちに少し笑っていた。
再び静かになる。
不思議だった。
そこまで仲の良くない相手との沈黙は、普通なら気まずい。
けれど今は、それほど悪くなかった。
ハルトは照明のスイッチへ向かう。
「まだいるなら、電気は消さないほうがいいな」
「あ」
ミオが天井を見る。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「電気を消しに来たんだと思って」
「そのつもりだったけど」
ハルトは立ち止まる。
「まだ人がいるなら消さない」
ミオが笑った。
「ありがとう」
ハルトはうなずいた。
本来なら、それで終わるはずだった。
教室は確認した。
ミオはまだいる。
だから電気も必要だ。
なら、もう帰ればいい。
ハルトはドアへ向かう。
一歩。
二歩。
三歩。
「アイザワくん」
ハルトが止まる。
振り返った。
ミオが一冊の本を持ち上げている。
「図書室って、まだ開いてるよね?」
「うん」
「六時まで?」
「うん」
「そっか……」
ミオはもう一度本を見る。
ハルトは待った。
しかし、その先を彼女は言わなかった。
「何?」
「ううん」
ミオは笑う。
「ブラウ先生のお知らせを思い出しただけ」
ハルトはうなずく。
「そっか」
また帰ろうとする。
そのとき、壁の時計が目に入った。
17時34分。
いつも乗る次の電車までは、まだ時間がある。
急ぐ理由もない。
ハルトは廊下を見る。
静かだった。
そして、もう一度ミオを見る。
「勉強してるの?」
ミオは手に持っている本を見る。
「別に」
「何の本?」
ミオが表紙をこちらへ向ける。
小説だった。
ハルトの知らないタイトルだ。
「面白い?」
「まあまあ」
「じゃあ、そんなに面白くない?」
ミオはわざと不満そうな顔をした。
「『まあまあ』だって、面白いって意味になるよ」
「本当に面白かったら普通は『面白い』って言うだろ」
ミオが目を細める。
「アイザワくんって、意外と意地悪なんだね」
ハルトは少し黙った。
「今気づいた?」
ミオが笑う。
ハルトは結局、教室の中へ戻った。
ミオから何席か離れたところの椅子を引く。
ミオが彼を見る。
「帰らないの?」
「まだ」
「どうして?」
ハルトは座った。
「次の電車まで時間あるから」
それがすべての理由ではない。
けれど、嘘でもなかった。
ミオはうなずいた。
「そっか」
ハルトはスマートフォンを取り出す。
新しいメッセージはない。
ニュースアプリを開く。
閉じる。
SNSを開く。
また閉じる。
しばらくして、窓際からページをめくる音が聞こえた。
ハルトがそちらを見る。
ミオはまた本を読んでいた。
二人は話さない。
五分。
もしかすると、それ以上。
時々、グラウンドから笛の音が聞こえる。
遠くの階下から、走る靴音も聞こえた。
外の空が少しずつ色を変えていく。
ハルトはもう一度ミオを見る。
本当に読書に集中している。
朝の教室にいるときより、表情がずっと穏やかだった。
話しかけてくる生徒はいない。
ノートを借りに来る人もいない。
リンもいない。
ソウタもいない。
ただ、ミオだけ。
ハルトはそこで初めて気づいた。
今ここにいるミオは、普段見ているミオとは少し違う。
大きく違うわけではない。
ただ――
静かで。
力が抜けていて。
何か決まった表情を保つ必要がないように見えた。
突然、ミオがこちらを見る。
ハルトはすぐにスマートフォンへ視線を落とした。
「……今、私のこと見てた?」
「見てない」
「答えるの早すぎない?」
「簡単な質問だったから」
ミオは数秒、彼を見つめる。
ハルトはスマートフォンを操作しているふりをした。
やがて、小さな音が聞こえる。
ミオが笑っていた。
「アイザワくん」
「ん?」
「嘘つくの、意外と分かりやすいね」
ハルトはため息をついた。
「本を見てただけ」
「本は下にあるけど」
ハルトが見る。
確かに。
ミオは本をかなり低い位置で持っていた。
「……窓のほうを見てた」
「私、その真ん前に座ってるよ」
ハルトは黙った。
ミオが満足そうに笑う。
「降参?」
「降参」
ミオがまた笑った。
ハルトは椅子の背にもたれる。
「いつもこうなの?」
「どういう意味?」
「人を尋問するのが好きなの?」
「怪しい人だけね」
「俺は座ってただけだ」
「そのあと人を見てた」
「一回だけ」
「二回」
「数えてたの?」
ミオが少し顎を上げる。
「もちろん」
ハルトは首を横に振る。
「変なの」
「アイザワくんもね」
「なんで俺?」
「普通の人ならもう帰ってるから」
ハルトが彼女を見る。
ミオは笑っていた。
「もう六時近いのに、私たち二人ともまだ学校にいる」
否定できなかった。
「確かに」
再び沈黙。
今度はミオから話し始めた。
「アイザワくん」
「ん?」
「いつもこんなに遅く帰るの?」
ハルトは少し黙った。
昼にソウタから聞かれたのと同じ質問だ。
「たまに」
「よくある?」
「たぶん」
「どうして?」
ハルトは時計を見る。
それから窓の外へ目を向けた。
「特に理由はない」
ミオはすぐには答えなかった。
ハルトが彼女を見る。
また質問されると思った。
けれど、ミオはただうなずいた。
「そっか」
ハルトは少し驚く。
「もっと聞かないの?」
「どうして?」
「普通なら『理由がないわけないでしょ』とか言わない?」
ミオは本を閉じた。
「話したくなったら、そのうち自分から話すでしょ」
ハルトは黙る。
ミオが小さく肩をすくめた。
「話したくないなら、それでもいいし」
単純な言葉だった。
ハルトはしばらく彼女を見る。
そして視線を逸らした。
「……ミオも」
「ん?」
「なんでまだここにいるの?」
ほんの一瞬だけ。
ミオの動きが止まった。
気づかないほど短い時間。
そして、すぐいつもの表情に戻る。
「特に理由はないよ」
ハルトが見る。
ミオが笑った。
「これでおあいこ」
ハルトは小さく鼻を鳴らした。
「ずるい」
「先にやったのはアイザワくんでしょ」
なぜか、ミオの答えが完全に本当ではないような気がした。
けれどハルト自身も、説明しなくていいという選択肢をもらったばかりだ。
なら、ミオに説明を求めるのは不公平だろう。
ハルトは立ち上がった。
「飲み物買ってくる」
ミオが時計を見る。
「自販機、まだ使える?」
「たぶん」
「ついでにお願いしてもいい?」
ハルトが止まる。
「何?」
「ミルクティー」
ミオが財布を取り出す。
「もしあったら」
ハルトは彼女を見る。
「俺がちゃんと戻ってくるって信用してるの?」
ミオが瞬きをする。
「百五十円持って逃げるつもり?」
ハルトはミオの手の中の硬貨を見る。
「……割に合わないな」
「でしょ?」
ミオが硬貨を渡した。
ハルトは受け取る。
「ミルクティー?」
「うん」
「売り切れてたら?」
「レモンティー」
「それも売り切れてたら?」
「水」
「それも?」
ミオが彼を見る。
「アイザワくん」
「ん?」
「全部売り切れてたら、その自販機壊れてるよ」
ハルトは小さく笑った。
「確かに」
教室を出る。
◇
自動販売機は一階の廊下の端にあった。
ハルトは自分用の缶コーヒーを買う。
それからミルクティーを探した。
あった。
ミオから預かった硬貨を入れる。
小さな缶が下へ落ちる。
ハルトはそれを取った。
立ち上がったとき、販売機のガラスに自分の姿が映る。
なぜか、ミオの飲み物を買っていることが少しだけ変な感じがした。
別に普通のことなのに。
クラスメイト同士で飲み物を頼むなんて、毎日のようにある。
ソウタなんて、どれを選べばいいか決められないという理由だけで、一度に三種類買ってきてくれと言ったこともある。
何もおかしくない。
ハルトは二本の飲み物を小さなビニール袋に入れた。
ロビーを通り過ぎるとき、
校門の近くに一台の車が止まるのが見えた。
そばに、一人の男性が立っている。
外灯の下で、髪が明るく見えた。
スマートフォンを見ている。
数秒後。
職員棟のドアが開いた。
ブラウが出てくる。
男性が手を上げる。
ブラウが笑った。
教室ではあまり見ない表情だった。
ハルトは一瞬だけ見て、そのまま歩き続けた。
たぶん、フリン。
彼女の夫だろう。
立ち止まって見る理由はない。
◇
教室へ戻ると、ミオはまだ同じ場所にいた。
ただし、本はもう閉じられている。
「戻ってきた」
ハルトがビニール袋を持ち上げる。
「戻ってこないほうがよかったみたいな言い方だな」
「戻ってこなかったら、明日ブラウ先生に言うつもりだった」
「百五十円で?」
「金額の問題じゃないから」
ハルトはミルクティーを渡した。
ミオは両手で受け取る。
「ありがとう」
「ん」
ハルトもまた座る。
ほとんど同時に二人は缶を開けた。
カシュッ。
カシュッ。
二つの音が静かな教室に小さく響く。
ミオはミルクティーを一口飲む。
それからハルトのコーヒーを見る。
「コーヒー好きなの?」
「まあまあ」
ミオがすぐに彼を指さす。
「ほら」
「何?」
「『まあまあ』でも好きって意味になるでしょ」
ハルトが彼女を見る。
ミオは得意そうに笑った。
ハルトは小さく笑うのを我慢できなかった。
「分かった。ミオの勝ち」
「諦めるの早いね」
「勝てない議論は分かる」
「賢い」
「今それ言われても褒められてる気がしない」
「なんで?」
「笑ってるから」
「人は笑っちゃダメなの?」
ハルトはため息をつく。
ミオがまた笑った。
いつからかは分からない。
けれど二人の会話は、少しずつ楽になっていた。
学校祭のこと。
黒板に文字を書くのが速すぎる数学教師のこと。
いつも宿題を忘れるソウタのこと。
絶対に得意だと言い張るくせに、実はクレーンゲームがものすごく下手なリンのこと。
大切な話は一つもない。
秘密を打ち明けたわけでもない。
ほかの誰かなら、きっと覚えてもいないような話ばかりだ。
それでも。
ハルトが気づかないうちに、時間はずっと早く進んでいた。
やがて校内放送が流れる。
『まだ校内に残っている生徒にお知らせします。本校舎は十五分後に閉館します』
ハルトとミオは同時にスピーカーを見た。
ミオが時計を見る。
17時45分。
「え?」
本当に驚いた顔だった。
「もうこんな時間?」
ハルトも今になって気づいた。
「みたいだな」
ミオは慌てて本を鞄へ入れる。
ハルトも立ち上がった。
机を確認する。
窓を閉める。
忘れ物がないか確かめる。
ハルトが照明のスイッチへ向かう。
今度はミオもドアの近くに立っていた。
「大丈夫?」
「うん」
ハルトが電気を消す。
カチッ。
教室が暗くなった。
廊下の窓から差し込む最後のオレンジ色の光だけが、部屋を照らしている。
二人は一緒に教室を出た。
ハルトがドアを閉める。
ミオはその横に立っていた。
「なんか変な感じ」
「何が?」
「もう夜みたいな時間に教室から出るの」
「まだ夜じゃないだろ」
「高校生にとって六時は夜なの」
「どこのルールだよ」
「感覚」
ハルトは彼女を見る。
「ソウタみたいなこと言うな」
ミオはすぐに嫌そうな顔をした。
「今の取り消して」
ハルトは笑った。
二人は並んで階段を下りた。
一緒に帰ろうと約束したわけではない。
ただ、行く方向が同じだっただけだ。
正面玄関を通ると、職員がうなずいた。
「気をつけて」
「はい」
「ありがとうございます」
夕方の空気は、朝より少し冷たかった。
ホシミの空はすでに濃い青色へ変わり、
西の地平線にだけ細いオレンジ色が残っている。
二人は校門を出た。
ハルトは両手をポケットに入れる。
ミオは数歩横を歩いていた。
「電車?」
「うん」
「セントラル方面?」
「うん」
「じゃあ同じだ」
ハルトが見る。
「ミオも?」
彼女はうなずく。
「セントラルから二駅先」
「そっか」
また歩く。
数メートルのあいだ、会話はなかった。
すると突然、ミオが言った。
「アイザワくん」
「ん?」
「明日も遅く帰る?」
ハルトはすぐには答えなかった。
そもそも、いつも予定して残っているわけではない。
「たぶん」
ミオがうなずく。
「たぶん、か」
「なんで?」
「別に」
ミオは前を向いた。
それから小さく笑う。
「聞いただけ」
駅の手前の交差点に着いた。
信号はまだ赤い。
二人は立ち止まる。
ハルトはミオを見る。
彼女はもう空になったミルクティーの缶を軽く振っていた。
「これ、ありがとう」
「自分で払っただろ」
「でも取りに行ってくれたのはアイザワくんだから」
「じゃあ、どういたしまして」
信号が青になる。
二人は横断歩道を渡った。
駅前へ近づくにつれ、人の流れが増えていく。
学校の静けさは、少しずつ街の音に置き換わった。
改札へ入る前。
ミオが足を止める。
「アイザワくん」
ハルトが振り返る。
「明日」
「ん?」
ミオは小さく手を上げる。
「またね」
ハルトもうなずいた。
「また明日」
ミオは自分のホームへ向かって歩いていった。
ハルトは数秒その姿を見てから、反対方向へ向かう。
それは、ただの普通の一日の終わりになるはずだった。
普通の会話。
普通のクラスメイトとの時間。
特別なことなんて、何もない。
少なくとも、ハルトはそう思っていた。
翌日――
放課後のチャイムが鳴ったとき。
ハルトは初めて、
無意識にミオの席へ目を向けていた。
彼女がもう帰ったのか。
それとも――
まだ、そこにいるのかを確かめるために。
