―また、放課後に君と―

ハルトは背後で教室のドアを閉めた。

カチッ。

その小さな音が、いつもよりずっとはっきり聞こえた。

たぶん、二階にはもうほとんど誰も残っていないからだ。

ミオはまだ窓際の席に座っていた。

夕日のオレンジ色の光が横から差し込み、教室の机の上へ長く伸びている。

ハルトはドアから数歩離れたところに立っていた。

ミオが彼を見る。

ハルトも見返した。

数秒。

どちらも何も言わない。

「……それで」

先に口を開いたのはミオだった。

「どうしてまだここにいるの?」

ハルトは少し眉を上げた。

「またそれ聞くの?」

ミオが瞬きをする。

それから、小さく笑った。

「そうだったね」

ハルトは自分の席へ向かった。

鞄はもうそこにはない。

さっき図書室へ持っていったからだ。

教室の電気がつけっぱなしになっていないか確認する。

それだけのつもりだった。

少なくとも、最初は。

ハルトはミオを見る。

「カラオケ、行かなかったの?」

ミオは少し驚いたようだった。

「知ってたの?」

「ソウタが言ってた」

「ああ」

ミオは小さくうなずく。

「最初は行くつもりだったんだけど」

「じゃあ、なんで?」

「やめた」

「どうして?」

ミオは黙った。

ほんの少しだけ。

そして笑う。

「面倒になったから」

ハルトは彼女を見た。

あまりにも単純な答えだ。

けれど、それ以上聞こうとは思わなかった。

「分かる」

今度はミオが戸惑った顔をする。

「え?」

「俺も面倒になって予定をやめることあるし」

ミオは口元を手で隠しながら笑った。

「アイザワくんなら、『約束をキャンセルするなんて失礼だ』とか言うかと思った」

「なんで俺がそんなこと言うんだよ」

「なんとなく」

ミオは椅子に少しもたれた。

「アイザワくんって、いつも予定通りに行動しそうだから」

ハルトは自分を見る。

「そう見える?」

「ちょっとだけ」

「じゃあ観察が間違ってる」

「え?」

「俺、今日の晩ご飯すらまだ決めてない」

ミオがまた笑う。

ハルトも知らないうちに少し笑っていた。

再び静かになる。

不思議だった。

そこまで仲の良くない相手との沈黙は、普通なら気まずい。

けれど今は、それほど悪くなかった。

ハルトは照明のスイッチへ向かう。

「まだいるなら、電気は消さないほうがいいな」

「あ」

ミオが天井を見る。

「ごめん」

「なんで謝るの?」

「電気を消しに来たんだと思って」

「そのつもりだったけど」

ハルトは立ち止まる。

「まだ人がいるなら消さない」

ミオが笑った。

「ありがとう」

ハルトはうなずいた。

本来なら、それで終わるはずだった。

教室は確認した。

ミオはまだいる。

だから電気も必要だ。

なら、もう帰ればいい。

ハルトはドアへ向かう。

一歩。

二歩。

三歩。

「アイザワくん」

ハルトが止まる。

振り返った。

ミオが一冊の本を持ち上げている。

「図書室って、まだ開いてるよね?」

「うん」

「六時まで?」

「うん」

「そっか……」

ミオはもう一度本を見る。

ハルトは待った。

しかし、その先を彼女は言わなかった。

「何?」

「ううん」

ミオは笑う。

「ブラウ先生のお知らせを思い出しただけ」

ハルトはうなずく。

「そっか」

また帰ろうとする。

そのとき、壁の時計が目に入った。

17時34分。

いつも乗る次の電車までは、まだ時間がある。

急ぐ理由もない。

ハルトは廊下を見る。

静かだった。

そして、もう一度ミオを見る。

「勉強してるの?」

ミオは手に持っている本を見る。

「別に」

「何の本?」

ミオが表紙をこちらへ向ける。

小説だった。

ハルトの知らないタイトルだ。

「面白い?」

「まあまあ」

「じゃあ、そんなに面白くない?」

ミオはわざと不満そうな顔をした。

「『まあまあ』だって、面白いって意味になるよ」

「本当に面白かったら普通は『面白い』って言うだろ」

ミオが目を細める。

「アイザワくんって、意外と意地悪なんだね」

ハルトは少し黙った。

「今気づいた?」

ミオが笑う。

ハルトは結局、教室の中へ戻った。

ミオから何席か離れたところの椅子を引く。

ミオが彼を見る。

「帰らないの?」

「まだ」

「どうして?」

ハルトは座った。

「次の電車まで時間あるから」

それがすべての理由ではない。

けれど、嘘でもなかった。

ミオはうなずいた。

「そっか」

ハルトはスマートフォンを取り出す。

新しいメッセージはない。

ニュースアプリを開く。

閉じる。

SNSを開く。

また閉じる。

しばらくして、窓際からページをめくる音が聞こえた。

ハルトがそちらを見る。

ミオはまた本を読んでいた。

二人は話さない。

五分。

もしかすると、それ以上。

時々、グラウンドから笛の音が聞こえる。

遠くの階下から、走る靴音も聞こえた。

外の空が少しずつ色を変えていく。

ハルトはもう一度ミオを見る。

本当に読書に集中している。

朝の教室にいるときより、表情がずっと穏やかだった。

話しかけてくる生徒はいない。

ノートを借りに来る人もいない。

リンもいない。

ソウタもいない。

ただ、ミオだけ。

ハルトはそこで初めて気づいた。

今ここにいるミオは、普段見ているミオとは少し違う。

大きく違うわけではない。

ただ――

静かで。

力が抜けていて。

何か決まった表情を保つ必要がないように見えた。

突然、ミオがこちらを見る。

ハルトはすぐにスマートフォンへ視線を落とした。

「……今、私のこと見てた?」

「見てない」

「答えるの早すぎない?」

「簡単な質問だったから」

ミオは数秒、彼を見つめる。

ハルトはスマートフォンを操作しているふりをした。

やがて、小さな音が聞こえる。

ミオが笑っていた。

「アイザワくん」

「ん?」

「嘘つくの、意外と分かりやすいね」

ハルトはため息をついた。

「本を見てただけ」

「本は下にあるけど」

ハルトが見る。

確かに。

ミオは本をかなり低い位置で持っていた。

「……窓のほうを見てた」

「私、その真ん前に座ってるよ」

ハルトは黙った。

ミオが満足そうに笑う。

「降参?」

「降参」

ミオがまた笑った。

ハルトは椅子の背にもたれる。

「いつもこうなの?」

「どういう意味?」

「人を尋問するのが好きなの?」

「怪しい人だけね」

「俺は座ってただけだ」

「そのあと人を見てた」

「一回だけ」

「二回」

「数えてたの?」

ミオが少し顎を上げる。

「もちろん」

ハルトは首を横に振る。

「変なの」

「アイザワくんもね」

「なんで俺?」

「普通の人ならもう帰ってるから」

ハルトが彼女を見る。

ミオは笑っていた。

「もう六時近いのに、私たち二人ともまだ学校にいる」

否定できなかった。

「確かに」

再び沈黙。

今度はミオから話し始めた。

「アイザワくん」

「ん?」

「いつもこんなに遅く帰るの?」

ハルトは少し黙った。

昼にソウタから聞かれたのと同じ質問だ。

「たまに」

「よくある?」

「たぶん」

「どうして?」

ハルトは時計を見る。

それから窓の外へ目を向けた。

「特に理由はない」

ミオはすぐには答えなかった。

ハルトが彼女を見る。

また質問されると思った。

けれど、ミオはただうなずいた。

「そっか」

ハルトは少し驚く。

「もっと聞かないの?」

「どうして?」

「普通なら『理由がないわけないでしょ』とか言わない?」

ミオは本を閉じた。

「話したくなったら、そのうち自分から話すでしょ」

ハルトは黙る。

ミオが小さく肩をすくめた。

「話したくないなら、それでもいいし」

単純な言葉だった。

ハルトはしばらく彼女を見る。

そして視線を逸らした。

「……ミオも」

「ん?」

「なんでまだここにいるの?」

ほんの一瞬だけ。

ミオの動きが止まった。

気づかないほど短い時間。

そして、すぐいつもの表情に戻る。

「特に理由はないよ」

ハルトが見る。

ミオが笑った。

「これでおあいこ」

ハルトは小さく鼻を鳴らした。

「ずるい」

「先にやったのはアイザワくんでしょ」

なぜか、ミオの答えが完全に本当ではないような気がした。

けれどハルト自身も、説明しなくていいという選択肢をもらったばかりだ。

なら、ミオに説明を求めるのは不公平だろう。

ハルトは立ち上がった。

「飲み物買ってくる」

ミオが時計を見る。

「自販機、まだ使える?」

「たぶん」

「ついでにお願いしてもいい?」

ハルトが止まる。

「何?」

「ミルクティー」

ミオが財布を取り出す。

「もしあったら」

ハルトは彼女を見る。

「俺がちゃんと戻ってくるって信用してるの?」

ミオが瞬きをする。

「百五十円持って逃げるつもり?」

ハルトはミオの手の中の硬貨を見る。

「……割に合わないな」

「でしょ?」

ミオが硬貨を渡した。

ハルトは受け取る。

「ミルクティー?」

「うん」

「売り切れてたら?」

「レモンティー」

「それも売り切れてたら?」

「水」

「それも?」

ミオが彼を見る。

「アイザワくん」

「ん?」

「全部売り切れてたら、その自販機壊れてるよ」

ハルトは小さく笑った。

「確かに」

教室を出る。



自動販売機は一階の廊下の端にあった。

ハルトは自分用の缶コーヒーを買う。

それからミルクティーを探した。

あった。

ミオから預かった硬貨を入れる。

小さな缶が下へ落ちる。

ハルトはそれを取った。

立ち上がったとき、販売機のガラスに自分の姿が映る。

なぜか、ミオの飲み物を買っていることが少しだけ変な感じがした。

別に普通のことなのに。

クラスメイト同士で飲み物を頼むなんて、毎日のようにある。

ソウタなんて、どれを選べばいいか決められないという理由だけで、一度に三種類買ってきてくれと言ったこともある。

何もおかしくない。

ハルトは二本の飲み物を小さなビニール袋に入れた。

ロビーを通り過ぎるとき、

校門の近くに一台の車が止まるのが見えた。

そばに、一人の男性が立っている。

外灯の下で、髪が明るく見えた。

スマートフォンを見ている。

数秒後。

職員棟のドアが開いた。

ブラウが出てくる。

男性が手を上げる。

ブラウが笑った。

教室ではあまり見ない表情だった。

ハルトは一瞬だけ見て、そのまま歩き続けた。

たぶん、フリン。

彼女の夫だろう。

立ち止まって見る理由はない。



教室へ戻ると、ミオはまだ同じ場所にいた。

ただし、本はもう閉じられている。

「戻ってきた」

ハルトがビニール袋を持ち上げる。

「戻ってこないほうがよかったみたいな言い方だな」

「戻ってこなかったら、明日ブラウ先生に言うつもりだった」

「百五十円で?」

「金額の問題じゃないから」

ハルトはミルクティーを渡した。

ミオは両手で受け取る。

「ありがとう」

「ん」

ハルトもまた座る。

ほとんど同時に二人は缶を開けた。

カシュッ。

カシュッ。

二つの音が静かな教室に小さく響く。

ミオはミルクティーを一口飲む。

それからハルトのコーヒーを見る。

「コーヒー好きなの?」

「まあまあ」

ミオがすぐに彼を指さす。

「ほら」

「何?」

「『まあまあ』でも好きって意味になるでしょ」

ハルトが彼女を見る。

ミオは得意そうに笑った。

ハルトは小さく笑うのを我慢できなかった。

「分かった。ミオの勝ち」

「諦めるの早いね」

「勝てない議論は分かる」

「賢い」

「今それ言われても褒められてる気がしない」

「なんで?」

「笑ってるから」

「人は笑っちゃダメなの?」

ハルトはため息をつく。

ミオがまた笑った。

いつからかは分からない。

けれど二人の会話は、少しずつ楽になっていた。

学校祭のこと。

黒板に文字を書くのが速すぎる数学教師のこと。

いつも宿題を忘れるソウタのこと。

絶対に得意だと言い張るくせに、実はクレーンゲームがものすごく下手なリンのこと。

大切な話は一つもない。

秘密を打ち明けたわけでもない。

ほかの誰かなら、きっと覚えてもいないような話ばかりだ。

それでも。

ハルトが気づかないうちに、時間はずっと早く進んでいた。

やがて校内放送が流れる。

『まだ校内に残っている生徒にお知らせします。本校舎は十五分後に閉館します』

ハルトとミオは同時にスピーカーを見た。

ミオが時計を見る。

17時45分。

「え?」

本当に驚いた顔だった。

「もうこんな時間?」

ハルトも今になって気づいた。

「みたいだな」

ミオは慌てて本を鞄へ入れる。

ハルトも立ち上がった。

机を確認する。

窓を閉める。

忘れ物がないか確かめる。

ハルトが照明のスイッチへ向かう。

今度はミオもドアの近くに立っていた。

「大丈夫?」

「うん」

ハルトが電気を消す。

カチッ。

教室が暗くなった。

廊下の窓から差し込む最後のオレンジ色の光だけが、部屋を照らしている。

二人は一緒に教室を出た。

ハルトがドアを閉める。

ミオはその横に立っていた。

「なんか変な感じ」

「何が?」

「もう夜みたいな時間に教室から出るの」

「まだ夜じゃないだろ」

「高校生にとって六時は夜なの」

「どこのルールだよ」

「感覚」

ハルトは彼女を見る。

「ソウタみたいなこと言うな」

ミオはすぐに嫌そうな顔をした。

「今の取り消して」

ハルトは笑った。

二人は並んで階段を下りた。

一緒に帰ろうと約束したわけではない。

ただ、行く方向が同じだっただけだ。

正面玄関を通ると、職員がうなずいた。

「気をつけて」

「はい」

「ありがとうございます」

夕方の空気は、朝より少し冷たかった。

ホシミの空はすでに濃い青色へ変わり、

西の地平線にだけ細いオレンジ色が残っている。

二人は校門を出た。

ハルトは両手をポケットに入れる。

ミオは数歩横を歩いていた。

「電車?」

「うん」

「セントラル方面?」

「うん」

「じゃあ同じだ」

ハルトが見る。

「ミオも?」

彼女はうなずく。

「セントラルから二駅先」

「そっか」

また歩く。

数メートルのあいだ、会話はなかった。

すると突然、ミオが言った。

「アイザワくん」

「ん?」

「明日も遅く帰る?」

ハルトはすぐには答えなかった。

そもそも、いつも予定して残っているわけではない。

「たぶん」

ミオがうなずく。

「たぶん、か」

「なんで?」

「別に」

ミオは前を向いた。

それから小さく笑う。

「聞いただけ」

駅の手前の交差点に着いた。

信号はまだ赤い。

二人は立ち止まる。

ハルトはミオを見る。

彼女はもう空になったミルクティーの缶を軽く振っていた。

「これ、ありがとう」

「自分で払っただろ」

「でも取りに行ってくれたのはアイザワくんだから」

「じゃあ、どういたしまして」

信号が青になる。

二人は横断歩道を渡った。

駅前へ近づくにつれ、人の流れが増えていく。

学校の静けさは、少しずつ街の音に置き換わった。

改札へ入る前。

ミオが足を止める。

「アイザワくん」

ハルトが振り返る。

「明日」

「ん?」

ミオは小さく手を上げる。

「またね」

ハルトもうなずいた。

「また明日」

ミオは自分のホームへ向かって歩いていった。

ハルトは数秒その姿を見てから、反対方向へ向かう。

それは、ただの普通の一日の終わりになるはずだった。

普通の会話。

普通のクラスメイトとの時間。

特別なことなんて、何もない。

少なくとも、ハルトはそう思っていた。

翌日――

放課後のチャイムが鳴ったとき。

ハルトは初めて、

無意識にミオの席へ目を向けていた。

彼女がもう帰ったのか。

それとも――

まだ、そこにいるのかを確かめるために。