午前7時18分。
ホシミ中心部へ向かう朝の電車は、いつも少しだけ混みすぎている。
アイザワ・ハルトはドアのそばに立ち、片手でつり革を握っていた。
左肩にはスクールバッグ。
もう片方の手にはスマートフォン。
大切なメッセージが来ているわけではない。
どうしても読みたいニュースがあるわけでもない。
ただ、周囲の人たちを眺めているより、画面をゆっくりスクロールしているほうが楽だった。
隣では会社員らしい男性が立ったまま眠っている。
別の学校の生徒二人は、昨日の試合について言い合っていた。
小さな子どもが窓ガラスに顔を近づけ、外に見える何かを指さしている。
ハルトはスマートフォンの画面を消した。
窓の向こうを、ホシミの景色が流れていく。
マンション。
大通り。
開店したばかりの店。
歩道に沿って整然と植えられた木々。
ごく普通の現代都市。
きっと、それが本来あるべき姿なのだろう。
新しい建物の間には、いくつか古い建造物も残っている。
そのひとつの前には、大きなプレートが立っていた。
――ホシミ復興記念碑。
その下には「十二」という数字が刻まれている。
十二年。
ハルトは一瞬だけそちらに目を向けた。
ほとんど毎日のように通る場所だ。
歴史の授業によれば、十二年前まで、世界は今とはまったく違う時代にあったらしい。
武装した組織が存在し、
大きな争いがあり、
今では本の中の物語にしか聞こえないような力を持つ人々もいた。
すべてが終わったあと、再建を余儀なくされた都市さえある。
だがハルトにとって、それは遠い話だった。
本当に起きたことだとは、どこか実感できない。
彼が生まれたとき、世界はすでに平和だった。
ハルトたちの世代にとって、
戦争も混乱も、歴史のテストに出てくる一ページでしかない。
電車が速度を落とし始めた。
『ホシミ中央駅です。左側のドアが開きます』
ハルトはスマートフォンをポケットにしまった。
ドアが開く。
人の流れに合わせて、ホームへ降りる。
また一日が始まる。
◇
ホシミ市立高校は、駅から歩いて十五分ほどの場所にある。
それほど新しい校舎ではない。
白い壁の一部は少し色あせ、グラウンド近くのフェンスには修理した跡も残っている。
それでも学校自体は大きかった。
本校舎は四階建て。
その裏には部活動棟と運動場、それに昼休み以外はあまり人の来ない小さな庭がある。
ハルトは何十人もの生徒と一緒に校門をくぐった。
「ハルトぉぉぉ!」
足を止める。
振り返る必要すらなかった。
次の瞬間、肩に手が乗る。
「おはよう!」
ハルトが横を見る。
フジモト・ソウタが、満面の笑みで立っていた。
「おはよう」
ソウタが眉をひそめる。
「それだけ?」
「ほかに何を言えばいいんだよ」
「もうちょっと元気よく」
ハルトは再び歩き出した。
「まだ電車から降りたばっかりなんだけど」
「理由になってない」
「昨日も会っただろ」
「それも理由になってない」
ソウタは隣を歩きながら言った。
「もう一年近く友達やってるのに、朝の反応がいまだにNPCみたいなんだよな」
「じゃあ毎朝話しかけなければいい」
「無理」
「なんで?」
ソウタは自分自身を指さした。
「俺がいなくなったら、お前の学校生活から娯楽の九十パーセントが消えるから」
ハルトは彼を見る。
「その数字、どこから出てきた?」
「勘」
「信用できない」
「親友なら友達の勘を信じるものだぞ」
「親友なら朝八時前に邪魔しない」
ソウタは胸を押さえた。
まるで本当に傷ついたような顔をする。
「冷たすぎる……」
ハルトは笑いそうになるのを堪えた。
ソウタは、いつもこんな感じだ。
騒がしくて、
誰とでもすぐ仲良くなれて、
話題が尽きるということを知らない。
二人が初めて会ったのは、入学時のオリエンテーションだった。
隣の席だったソウタが突然、
「三階の自販機って、生徒から金を搾り取るためにわざと高くしてると思う?」
と聞いてきた。
どうしてそんな会話から親友になったのか、ハルトには今でもよく分からない。
たぶん、ソウタがハルトに話しかけるのに理由を必要としない人間だったからだ。
「アイザワ」
「ん?」
「数学の宿題、やった?」
「やった」
ソウタの歩く速度が落ちる。
「ハルト」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないだろ!」
「答えを見たいんだろ」
「比較したいだけだ」
「写すんだろ」
「詳細な比較」
「嫌だ」
ソウタが長いため息をついた。
「俺たちの友情が試されてる」
「先週もそれ言ってたぞ」
「毎週、新しい試練が来るんだよ」
二人は階段を上がり、二階へ向かった。
教室は廊下の端に近い。
二年B組。
ハルトが教室へ入ろうとした、そのとき。
何枚ものプリントを抱えた誰かが、中から出てきた。
危うくぶつかりそうになる。
「あっ」
少女は寸前で足を止めた。
肩を少し越えるくらいの黒髪。
胸の前には、何枚ものプリント。
「ごめん、アイザワくん」
ハルトは首を横に振った。
「大丈夫」
タチバナ・ミオ。
同じクラスの女子だ。
仲がいいかと聞かれれば、そうではない。
今まで何度か話したことはある。
ほとんどが授業や、先生から頼まれたことについてだった。
けれど、ミオのことはクラスのほとんど全員が知っている。
一番騒がしいからではない。
むしろ逆だ。
彼女は自分から目立とうとするタイプではなかった。
それなのに、なぜか誰もが自然に話しかける。
ノートを借りたり。
何かを手伝ってもらったり。
昼食に誘ったり。
廊下ですれ違ったとき、ただ挨拶をしたり。
ミオは腕の中のプリントに目を落とした。
「二人とも、文化祭の担当表見た?」
「まだ」
ハルトが答えると、
ソウタが二人の間から顔を出した。
「文化祭?」
ミオが彼を見る。
「フジモトくん……まさか忘れてないよね?」
「忘れてない」
少し沈黙。
「……いつからだっけ?」
ミオが小さく笑う。
「来週」
「あ」
ソウタがハルトを見る。
ハルトは肩をすくめた。
「俺を見るな」
ミオが笑った。
「二人って、本当にいつも一緒だね」
「残念ながら」
ハルトが言う。
「おい」
ミオはもう一度笑った。
それから、抱えているプリントを少し持ち上げる。
「これ、職員室に届けてくるね」
「分かった」
「おはよう」
「おはよう」
ミオが歩いていく。
ソウタはその背中を眺めた。
そして、ゆっくりハルトのほうを向く。
その表情を見ただけで分かった。
「やめろ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
ソウタは大きく笑う。
「アイザワくーん」
「教室入るぞ」
「タチバナさーん」
「ソウタ」
「はいはい」
ハルトは彼を教室の中へ押し込んだ。
◇
午前八時を数分過ぎたころ、最初のチャイムが鳴った。
ほとんどの生徒が席に着いたところで、教室のドアが開く。
出席簿を持った女性が入ってきた。
海のような青い髪が肩より下まで伸びている。
白いシャツとシンプルなブレザーとのコントラストが印象的だった。
厳しすぎる教師には見えない。
だが、彼女が教室へ入っただけで、自然と騒がしさが小さくなる。
名前はブラウ。
ただの、ブラウ。
なぜ担任が名字も何もなく「ブラウ」とだけ名乗っているのか、クラスの誰も知らない。
学期の初め、
「先生のフルネームは政府機密なんじゃないか」
という説をソウタが唱えたことがある。
その説は、歴史のレポートを期限までに提出できず、追加課題を出されたことで終わった。
ブラウは出席簿を机に置く。
「おはようございます」
「おはようございます、先生」
ブラウは、まだ後ろで立っている二人の生徒を見た。
「まだ座っていない人は、三秒後に遅刻扱いにします」
二人が慌てて動く。
ブラウが腕時計を見る。
「一」
椅子にぶつかりそうになる。
「二」
二人とも席に着いた。
ブラウは満足そうにうなずく。
「よろしい。朝から報告書を書くのは嫌なので」
教室から笑い声が上がる。
ハルトは少しだけ彼女を見た。
ブラウは怒鳴るような教師ではない。
ほかの先生と比べても、むしろかなり気さくだ。
ただ、本気になったときの彼女を試そうとする生徒は一人もいない。
ブラウは一人ずつ名前を呼び始めた。
出席確認を終えると、帳簿を閉じる。
「一時間目の前に、連絡が二つあります」
教室のあちこちから小さな不満の声が上がる。
ブラウが眉を上げる。
「話す前から文句を言うなら、三つに増やしてもいいですよ」
教室が一瞬で静かになった。
「一つ目。来週から文化祭の準備が始まります。担当表はもう掲示してあります」
ソウタが絶望したような顔でハルトを見る。
ハルトは気づかないふりをした。
「二つ目」
ブラウが紙を一枚取る。
「今月から、平日は図書室の閉館時間を一時間延長します」
生徒たちが小声で話し始める。
「それから、一部の自習室も午後六時まで使用できます」
ハルトが顔を上げた。
六時。
今まで図書室は五時に閉まっていた。
ブラウが教室全体を見渡す。
「部活動が終わるのを待つ人。勉強したい人。そのほか用事のある人は自由に使ってください」
少し間を置く。
「ただし、学校はホテルではありません」
何人かが笑う。
「図書室のソファで寝ている人を見つけたら、清掃員さんに引き渡します」
ソウタが手を上げた。
「先生」
「何ですか?」
「机で寝た場合は?」
ブラウが数秒間、彼を見つめる。
「フジモトだけは保護者に電話します」
教室が一気に笑いに包まれた。
ソウタは手を下ろす。
「それはやりすぎですよ」
「だったら寝ないこと」
ブラウが話を続けようとしたとき、
教卓に置かれていたスマートフォンが一度震えた。
画面が一瞬だけ光る。
ブラウはそれをちらりと見た。
ほんの少しだけ、表情が変わった。
大げさな変化ではない。
一瞬だけ、小さな笑みが浮かんだ。
そして画面を消す。
たまたま見ていたソウタが、小さく声を上げる。
「おおー」
ブラウが彼を見る。
「何か問題でも、フジモト?」
「いいえ、先生」
「よろしい」
ハルトは笑いを堪えた。
ブラウが結婚していることは、生徒たちも知っている。
左手に指輪をしているところを、何度か見たことがあった。
ただ、夫について知っている者はほとんどいない。
ブラウは自分の私生活について滅多に話さない。
そしてなぜか、ソウタはそれが気になって仕方ないらしい。
ハルト自身は、あまり興味がなかった。
抜き打ちテストさえしなければ、担任の私生活なんて自分には関係ない。
「はい」
ブラウが軽く机を叩く。
「教科書を開いて。始めますよ」
◇
昼休み。
ハルトとソウタは、本校舎裏の階段に座っていた。
教室で食べてもよかった。
ただ、教室は騒がしすぎる。
少なくとも、それがソウタの言い分だった。
もっとも、五分も経たないうちに、一番うるさく話しているのは本人なのだが。
「俺、装飾担当だった」
「おめでとう」
「祝うところじゃない」
ソウタがパンをかじる。
「俺、芸術的センスないんだけど」
「紙を貼ればいい」
「クラスの装飾って、紙貼るだけじゃないから」
「気持ちを込めて貼れ」
「余計ひどい」
ハルトは弁当箱を開いた。
「そのうち終わるだろ」
ソウタが壁にもたれかかる。
「お前は何担当?」
「物流」
ソウタが黙った。
それからハルトを指さす。
「なんでそんなに似合うんだよ」
「何が?」
「目立たないけど、いなくなると全部崩壊しそうなところ」
ハルトが一瞬止まる。
「それ、褒めてる?」
「俺にも分からない」
ハルトは再び食べ始めた。
グラウンドから運動部の声が聞こえる。
昼の風が、芝と土の匂いを運んできた。
ソウタがパンを食べ終える。
「そういえば」
「ん?」
「今日、学校終わったらすぐ帰る?」
ハルトは首を横に振った。
「たぶん帰らない」
「また?」
ハルトが彼を見る。
「何?」
「別に」
ソウタは肩をすくめた。
「最近、遅くまで学校にいること多いなと思って」
ハルトはすぐには答えなかった。
下に広がる校庭を見る。
何人かの生徒が庭を横切っている。
「家に帰っても、急いでやることないし」
単純な答え。
そして、完全な嘘というわけでもない。
ソウタは一瞬だけハルトを見る。
だが、それ以上は聞かなかった。
「そっか」
すぐに笑顔へ戻る。
「じゃあ装飾手伝って」
「嫌だ」
「ハルト!」
◇
最後の授業が終わったのは、午後三時四十分過ぎ。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が変わった。
椅子が動き、
鞄が閉じられ、
あちこちから話し声が上がる。
部活動へ向かう生徒。
そのまま帰宅する生徒。
どこへ食べに行くか相談している生徒。
ソウタがハルトの机の横に立った。
「本当に来ないの?」
「どこに?」
「カラオケ」
「行かない」
「答えるの早すぎだろ」
「予想できたから」
ソウタはバッグを整える。
「タチバナとキサラギも来るって」
ハルトは教室の前方を見る。
ミオがキサラギ・リンと話していた。
リンは短い黒髪で、
何も言わなくても相手を細かく観察しているような目をしている。
ミオが、リンの何かの言葉に笑った。
ハルトはソウタへ視線を戻す。
「それで?」
ソウタが目を細めた。
「別に」
「帰れ」
「いつか絶対、お前を動揺させてみせる」
「頑張れ」
ソウタが歩き出す。
「明日、歴史の宿題忘れるなよ!」
「お前こそ」
ソウタが止まる。
「……そうだった」
ハルトが彼を見る。
「まだやってない?」
「まだ」
「帰れ」
「はい、お母さん」
「行け」
ソウタは笑いながら、ようやく教室から出ていった。
ほかの生徒たちも、一人、また一人と去っていく。
声が少しずつ遠くなった。
ハルトはまだ座っていた。
数学の本を開く。
特別な理由はない。
ただ、まだ立ち上がる気にならなかった。
数分後。
誰かが机の横で足を止めた。
ブラウだった。
「今日は部活ないの?」
「はい、先生」
「勉強?」
「少しだけ」
ブラウは開かれた本を見る。
「それで『少し』なら、『たくさん』がどれくらいなのか知りたくないですね」
ハルトがわずかに笑った。
ブラウはブレザーのポケットに片手を入れる。
「学校は六時に閉まるから、忘れないように」
「はい」
ブラウがうなずいた。
数歩進む。
しかし、そこで止まった。
「アイザワ」
ハルトが振り返る。
「はい?」
ブラウはしばらく彼を見た。
「学校を第二の家にしすぎないようにね」
ハルトは少し驚く。
「そこまでじゃないですよ」
「なら、いいです」
ブラウが小さく笑った。
そして再び歩き出した。
教室を出る直前、彼女のスマートフォンがまた震えた。
ブラウが取り出す。
ハルトは覗くつもりなどなかった。
ただ、ブラウがちょうどドアの近くで止まったため、
通話に出たときの小さな声が耳に入った。
「うん、フリン?」
声が少しだけ柔らかくなる。
「もう着いたの?」
ブラウはドアを閉めながら、教室を出ていった。
ハルトは本へ視線を戻した。
フリン。
たぶん、彼女の夫なのだろう。
それ以上、考えることはなかった。
◇
午後四時三十分過ぎ。
ハルトはようやく教室を出た。
二階の廊下は、もうかなり静かになっている。
大きな窓から夕日の光が差し込み、床に長い線を描いていた。
遠くでは、まだ運動部の声が聞こえている。
ハルトは図書室へ向かった。
そこで一時間近く過ごした。
問題をいくつか解き、
本を数ページ読み、
スマートフォンを確認して、
また本を読む。
時計が午後五時二十分を示したところで、本を閉じた。
本棚へ戻す。
図書室を出ようとすると、司書が彼にうなずいた。
「もう帰るの、アイザワくん?」
「はい」
「気をつけてね」
ハルトは再び廊下を歩いた。
ほとんどの教室は、すでに電気が消えている。
窓の外では、空がオレンジ色に染まっていた。
こんな時間のホシミは、いつもと違って見える。
ゆっくりしていて、
静かで。
ハルトは、こうなったあとの学校が好きだった。
走り回る生徒はいない。
何十もの会話が混ざる音もない。
廊下の向こうから自分を呼ぶ声もない。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
二年B組の前まで来る。
そして、足を止めた。
教室の明かりが、まだついている。
ハルトは眉をひそめた。
誰かが消し忘れたのかもしれない。
ドアを開ける。
カチッ。
引き戸が動く。
教室へ足を踏み入れ、
そして止まった。
中に、誰かいる。
窓際の席に、一人の少女が座っていた。
机の横には、まだ鞄が置かれている。
夕日が、彼女の黒髪を照らしていた。
少女は窓の外を眺めている。
タチバナ・ミオ。
ハルトは数秒、その場で立ち尽くした。
やがてミオが彼の存在に気づく。
振り返る。
目が合った。
「あ」
ミオは少し驚いたようだった。
「アイザワくん?」
ハルトはまだドアの取っ手を握っていた。
「タチバナ?」
短い沈黙。
それから、ミオが笑った。
「アイザワくんも、まだ帰ってなかったんだ?」
ハルトは壁の時計を見る。
午後五時三十二分。
もう一度ミオを見る。
「……タチバナもだろ」
ミオが一瞬黙った。
そして、小さく笑う。
「それもそうだね」
どうしてなのかは分からない。
けれどハルトは、そのまますぐに立ち去ろうとはしなかった。
窓の外では、
太陽がホシミの建物の向こうへゆっくり沈んでいく。
学校は、ほとんど空っぽだった。
廊下も静かだった。
それなのに。
その日初めて、
ハルトはその静けさを、
本当の意味で「寂しい」とは感じなかった。
彼は後ろ手にドアを閉めた。
そして、その夕方は――
まだ二人とも知らなかったけれど、
これから何度も一緒に過ごすことになる、
最初の放課後になった。
たった一つの何気ない言葉が、
やがて二人の習慣になり、
そして約束へと変わっていく。
――また、放課後に。
ホシミ中心部へ向かう朝の電車は、いつも少しだけ混みすぎている。
アイザワ・ハルトはドアのそばに立ち、片手でつり革を握っていた。
左肩にはスクールバッグ。
もう片方の手にはスマートフォン。
大切なメッセージが来ているわけではない。
どうしても読みたいニュースがあるわけでもない。
ただ、周囲の人たちを眺めているより、画面をゆっくりスクロールしているほうが楽だった。
隣では会社員らしい男性が立ったまま眠っている。
別の学校の生徒二人は、昨日の試合について言い合っていた。
小さな子どもが窓ガラスに顔を近づけ、外に見える何かを指さしている。
ハルトはスマートフォンの画面を消した。
窓の向こうを、ホシミの景色が流れていく。
マンション。
大通り。
開店したばかりの店。
歩道に沿って整然と植えられた木々。
ごく普通の現代都市。
きっと、それが本来あるべき姿なのだろう。
新しい建物の間には、いくつか古い建造物も残っている。
そのひとつの前には、大きなプレートが立っていた。
――ホシミ復興記念碑。
その下には「十二」という数字が刻まれている。
十二年。
ハルトは一瞬だけそちらに目を向けた。
ほとんど毎日のように通る場所だ。
歴史の授業によれば、十二年前まで、世界は今とはまったく違う時代にあったらしい。
武装した組織が存在し、
大きな争いがあり、
今では本の中の物語にしか聞こえないような力を持つ人々もいた。
すべてが終わったあと、再建を余儀なくされた都市さえある。
だがハルトにとって、それは遠い話だった。
本当に起きたことだとは、どこか実感できない。
彼が生まれたとき、世界はすでに平和だった。
ハルトたちの世代にとって、
戦争も混乱も、歴史のテストに出てくる一ページでしかない。
電車が速度を落とし始めた。
『ホシミ中央駅です。左側のドアが開きます』
ハルトはスマートフォンをポケットにしまった。
ドアが開く。
人の流れに合わせて、ホームへ降りる。
また一日が始まる。
◇
ホシミ市立高校は、駅から歩いて十五分ほどの場所にある。
それほど新しい校舎ではない。
白い壁の一部は少し色あせ、グラウンド近くのフェンスには修理した跡も残っている。
それでも学校自体は大きかった。
本校舎は四階建て。
その裏には部活動棟と運動場、それに昼休み以外はあまり人の来ない小さな庭がある。
ハルトは何十人もの生徒と一緒に校門をくぐった。
「ハルトぉぉぉ!」
足を止める。
振り返る必要すらなかった。
次の瞬間、肩に手が乗る。
「おはよう!」
ハルトが横を見る。
フジモト・ソウタが、満面の笑みで立っていた。
「おはよう」
ソウタが眉をひそめる。
「それだけ?」
「ほかに何を言えばいいんだよ」
「もうちょっと元気よく」
ハルトは再び歩き出した。
「まだ電車から降りたばっかりなんだけど」
「理由になってない」
「昨日も会っただろ」
「それも理由になってない」
ソウタは隣を歩きながら言った。
「もう一年近く友達やってるのに、朝の反応がいまだにNPCみたいなんだよな」
「じゃあ毎朝話しかけなければいい」
「無理」
「なんで?」
ソウタは自分自身を指さした。
「俺がいなくなったら、お前の学校生活から娯楽の九十パーセントが消えるから」
ハルトは彼を見る。
「その数字、どこから出てきた?」
「勘」
「信用できない」
「親友なら友達の勘を信じるものだぞ」
「親友なら朝八時前に邪魔しない」
ソウタは胸を押さえた。
まるで本当に傷ついたような顔をする。
「冷たすぎる……」
ハルトは笑いそうになるのを堪えた。
ソウタは、いつもこんな感じだ。
騒がしくて、
誰とでもすぐ仲良くなれて、
話題が尽きるということを知らない。
二人が初めて会ったのは、入学時のオリエンテーションだった。
隣の席だったソウタが突然、
「三階の自販機って、生徒から金を搾り取るためにわざと高くしてると思う?」
と聞いてきた。
どうしてそんな会話から親友になったのか、ハルトには今でもよく分からない。
たぶん、ソウタがハルトに話しかけるのに理由を必要としない人間だったからだ。
「アイザワ」
「ん?」
「数学の宿題、やった?」
「やった」
ソウタの歩く速度が落ちる。
「ハルト」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないだろ!」
「答えを見たいんだろ」
「比較したいだけだ」
「写すんだろ」
「詳細な比較」
「嫌だ」
ソウタが長いため息をついた。
「俺たちの友情が試されてる」
「先週もそれ言ってたぞ」
「毎週、新しい試練が来るんだよ」
二人は階段を上がり、二階へ向かった。
教室は廊下の端に近い。
二年B組。
ハルトが教室へ入ろうとした、そのとき。
何枚ものプリントを抱えた誰かが、中から出てきた。
危うくぶつかりそうになる。
「あっ」
少女は寸前で足を止めた。
肩を少し越えるくらいの黒髪。
胸の前には、何枚ものプリント。
「ごめん、アイザワくん」
ハルトは首を横に振った。
「大丈夫」
タチバナ・ミオ。
同じクラスの女子だ。
仲がいいかと聞かれれば、そうではない。
今まで何度か話したことはある。
ほとんどが授業や、先生から頼まれたことについてだった。
けれど、ミオのことはクラスのほとんど全員が知っている。
一番騒がしいからではない。
むしろ逆だ。
彼女は自分から目立とうとするタイプではなかった。
それなのに、なぜか誰もが自然に話しかける。
ノートを借りたり。
何かを手伝ってもらったり。
昼食に誘ったり。
廊下ですれ違ったとき、ただ挨拶をしたり。
ミオは腕の中のプリントに目を落とした。
「二人とも、文化祭の担当表見た?」
「まだ」
ハルトが答えると、
ソウタが二人の間から顔を出した。
「文化祭?」
ミオが彼を見る。
「フジモトくん……まさか忘れてないよね?」
「忘れてない」
少し沈黙。
「……いつからだっけ?」
ミオが小さく笑う。
「来週」
「あ」
ソウタがハルトを見る。
ハルトは肩をすくめた。
「俺を見るな」
ミオが笑った。
「二人って、本当にいつも一緒だね」
「残念ながら」
ハルトが言う。
「おい」
ミオはもう一度笑った。
それから、抱えているプリントを少し持ち上げる。
「これ、職員室に届けてくるね」
「分かった」
「おはよう」
「おはよう」
ミオが歩いていく。
ソウタはその背中を眺めた。
そして、ゆっくりハルトのほうを向く。
その表情を見ただけで分かった。
「やめろ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
ソウタは大きく笑う。
「アイザワくーん」
「教室入るぞ」
「タチバナさーん」
「ソウタ」
「はいはい」
ハルトは彼を教室の中へ押し込んだ。
◇
午前八時を数分過ぎたころ、最初のチャイムが鳴った。
ほとんどの生徒が席に着いたところで、教室のドアが開く。
出席簿を持った女性が入ってきた。
海のような青い髪が肩より下まで伸びている。
白いシャツとシンプルなブレザーとのコントラストが印象的だった。
厳しすぎる教師には見えない。
だが、彼女が教室へ入っただけで、自然と騒がしさが小さくなる。
名前はブラウ。
ただの、ブラウ。
なぜ担任が名字も何もなく「ブラウ」とだけ名乗っているのか、クラスの誰も知らない。
学期の初め、
「先生のフルネームは政府機密なんじゃないか」
という説をソウタが唱えたことがある。
その説は、歴史のレポートを期限までに提出できず、追加課題を出されたことで終わった。
ブラウは出席簿を机に置く。
「おはようございます」
「おはようございます、先生」
ブラウは、まだ後ろで立っている二人の生徒を見た。
「まだ座っていない人は、三秒後に遅刻扱いにします」
二人が慌てて動く。
ブラウが腕時計を見る。
「一」
椅子にぶつかりそうになる。
「二」
二人とも席に着いた。
ブラウは満足そうにうなずく。
「よろしい。朝から報告書を書くのは嫌なので」
教室から笑い声が上がる。
ハルトは少しだけ彼女を見た。
ブラウは怒鳴るような教師ではない。
ほかの先生と比べても、むしろかなり気さくだ。
ただ、本気になったときの彼女を試そうとする生徒は一人もいない。
ブラウは一人ずつ名前を呼び始めた。
出席確認を終えると、帳簿を閉じる。
「一時間目の前に、連絡が二つあります」
教室のあちこちから小さな不満の声が上がる。
ブラウが眉を上げる。
「話す前から文句を言うなら、三つに増やしてもいいですよ」
教室が一瞬で静かになった。
「一つ目。来週から文化祭の準備が始まります。担当表はもう掲示してあります」
ソウタが絶望したような顔でハルトを見る。
ハルトは気づかないふりをした。
「二つ目」
ブラウが紙を一枚取る。
「今月から、平日は図書室の閉館時間を一時間延長します」
生徒たちが小声で話し始める。
「それから、一部の自習室も午後六時まで使用できます」
ハルトが顔を上げた。
六時。
今まで図書室は五時に閉まっていた。
ブラウが教室全体を見渡す。
「部活動が終わるのを待つ人。勉強したい人。そのほか用事のある人は自由に使ってください」
少し間を置く。
「ただし、学校はホテルではありません」
何人かが笑う。
「図書室のソファで寝ている人を見つけたら、清掃員さんに引き渡します」
ソウタが手を上げた。
「先生」
「何ですか?」
「机で寝た場合は?」
ブラウが数秒間、彼を見つめる。
「フジモトだけは保護者に電話します」
教室が一気に笑いに包まれた。
ソウタは手を下ろす。
「それはやりすぎですよ」
「だったら寝ないこと」
ブラウが話を続けようとしたとき、
教卓に置かれていたスマートフォンが一度震えた。
画面が一瞬だけ光る。
ブラウはそれをちらりと見た。
ほんの少しだけ、表情が変わった。
大げさな変化ではない。
一瞬だけ、小さな笑みが浮かんだ。
そして画面を消す。
たまたま見ていたソウタが、小さく声を上げる。
「おおー」
ブラウが彼を見る。
「何か問題でも、フジモト?」
「いいえ、先生」
「よろしい」
ハルトは笑いを堪えた。
ブラウが結婚していることは、生徒たちも知っている。
左手に指輪をしているところを、何度か見たことがあった。
ただ、夫について知っている者はほとんどいない。
ブラウは自分の私生活について滅多に話さない。
そしてなぜか、ソウタはそれが気になって仕方ないらしい。
ハルト自身は、あまり興味がなかった。
抜き打ちテストさえしなければ、担任の私生活なんて自分には関係ない。
「はい」
ブラウが軽く机を叩く。
「教科書を開いて。始めますよ」
◇
昼休み。
ハルトとソウタは、本校舎裏の階段に座っていた。
教室で食べてもよかった。
ただ、教室は騒がしすぎる。
少なくとも、それがソウタの言い分だった。
もっとも、五分も経たないうちに、一番うるさく話しているのは本人なのだが。
「俺、装飾担当だった」
「おめでとう」
「祝うところじゃない」
ソウタがパンをかじる。
「俺、芸術的センスないんだけど」
「紙を貼ればいい」
「クラスの装飾って、紙貼るだけじゃないから」
「気持ちを込めて貼れ」
「余計ひどい」
ハルトは弁当箱を開いた。
「そのうち終わるだろ」
ソウタが壁にもたれかかる。
「お前は何担当?」
「物流」
ソウタが黙った。
それからハルトを指さす。
「なんでそんなに似合うんだよ」
「何が?」
「目立たないけど、いなくなると全部崩壊しそうなところ」
ハルトが一瞬止まる。
「それ、褒めてる?」
「俺にも分からない」
ハルトは再び食べ始めた。
グラウンドから運動部の声が聞こえる。
昼の風が、芝と土の匂いを運んできた。
ソウタがパンを食べ終える。
「そういえば」
「ん?」
「今日、学校終わったらすぐ帰る?」
ハルトは首を横に振った。
「たぶん帰らない」
「また?」
ハルトが彼を見る。
「何?」
「別に」
ソウタは肩をすくめた。
「最近、遅くまで学校にいること多いなと思って」
ハルトはすぐには答えなかった。
下に広がる校庭を見る。
何人かの生徒が庭を横切っている。
「家に帰っても、急いでやることないし」
単純な答え。
そして、完全な嘘というわけでもない。
ソウタは一瞬だけハルトを見る。
だが、それ以上は聞かなかった。
「そっか」
すぐに笑顔へ戻る。
「じゃあ装飾手伝って」
「嫌だ」
「ハルト!」
◇
最後の授業が終わったのは、午後三時四十分過ぎ。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が変わった。
椅子が動き、
鞄が閉じられ、
あちこちから話し声が上がる。
部活動へ向かう生徒。
そのまま帰宅する生徒。
どこへ食べに行くか相談している生徒。
ソウタがハルトの机の横に立った。
「本当に来ないの?」
「どこに?」
「カラオケ」
「行かない」
「答えるの早すぎだろ」
「予想できたから」
ソウタはバッグを整える。
「タチバナとキサラギも来るって」
ハルトは教室の前方を見る。
ミオがキサラギ・リンと話していた。
リンは短い黒髪で、
何も言わなくても相手を細かく観察しているような目をしている。
ミオが、リンの何かの言葉に笑った。
ハルトはソウタへ視線を戻す。
「それで?」
ソウタが目を細めた。
「別に」
「帰れ」
「いつか絶対、お前を動揺させてみせる」
「頑張れ」
ソウタが歩き出す。
「明日、歴史の宿題忘れるなよ!」
「お前こそ」
ソウタが止まる。
「……そうだった」
ハルトが彼を見る。
「まだやってない?」
「まだ」
「帰れ」
「はい、お母さん」
「行け」
ソウタは笑いながら、ようやく教室から出ていった。
ほかの生徒たちも、一人、また一人と去っていく。
声が少しずつ遠くなった。
ハルトはまだ座っていた。
数学の本を開く。
特別な理由はない。
ただ、まだ立ち上がる気にならなかった。
数分後。
誰かが机の横で足を止めた。
ブラウだった。
「今日は部活ないの?」
「はい、先生」
「勉強?」
「少しだけ」
ブラウは開かれた本を見る。
「それで『少し』なら、『たくさん』がどれくらいなのか知りたくないですね」
ハルトがわずかに笑った。
ブラウはブレザーのポケットに片手を入れる。
「学校は六時に閉まるから、忘れないように」
「はい」
ブラウがうなずいた。
数歩進む。
しかし、そこで止まった。
「アイザワ」
ハルトが振り返る。
「はい?」
ブラウはしばらく彼を見た。
「学校を第二の家にしすぎないようにね」
ハルトは少し驚く。
「そこまでじゃないですよ」
「なら、いいです」
ブラウが小さく笑った。
そして再び歩き出した。
教室を出る直前、彼女のスマートフォンがまた震えた。
ブラウが取り出す。
ハルトは覗くつもりなどなかった。
ただ、ブラウがちょうどドアの近くで止まったため、
通話に出たときの小さな声が耳に入った。
「うん、フリン?」
声が少しだけ柔らかくなる。
「もう着いたの?」
ブラウはドアを閉めながら、教室を出ていった。
ハルトは本へ視線を戻した。
フリン。
たぶん、彼女の夫なのだろう。
それ以上、考えることはなかった。
◇
午後四時三十分過ぎ。
ハルトはようやく教室を出た。
二階の廊下は、もうかなり静かになっている。
大きな窓から夕日の光が差し込み、床に長い線を描いていた。
遠くでは、まだ運動部の声が聞こえている。
ハルトは図書室へ向かった。
そこで一時間近く過ごした。
問題をいくつか解き、
本を数ページ読み、
スマートフォンを確認して、
また本を読む。
時計が午後五時二十分を示したところで、本を閉じた。
本棚へ戻す。
図書室を出ようとすると、司書が彼にうなずいた。
「もう帰るの、アイザワくん?」
「はい」
「気をつけてね」
ハルトは再び廊下を歩いた。
ほとんどの教室は、すでに電気が消えている。
窓の外では、空がオレンジ色に染まっていた。
こんな時間のホシミは、いつもと違って見える。
ゆっくりしていて、
静かで。
ハルトは、こうなったあとの学校が好きだった。
走り回る生徒はいない。
何十もの会話が混ざる音もない。
廊下の向こうから自分を呼ぶ声もない。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
二年B組の前まで来る。
そして、足を止めた。
教室の明かりが、まだついている。
ハルトは眉をひそめた。
誰かが消し忘れたのかもしれない。
ドアを開ける。
カチッ。
引き戸が動く。
教室へ足を踏み入れ、
そして止まった。
中に、誰かいる。
窓際の席に、一人の少女が座っていた。
机の横には、まだ鞄が置かれている。
夕日が、彼女の黒髪を照らしていた。
少女は窓の外を眺めている。
タチバナ・ミオ。
ハルトは数秒、その場で立ち尽くした。
やがてミオが彼の存在に気づく。
振り返る。
目が合った。
「あ」
ミオは少し驚いたようだった。
「アイザワくん?」
ハルトはまだドアの取っ手を握っていた。
「タチバナ?」
短い沈黙。
それから、ミオが笑った。
「アイザワくんも、まだ帰ってなかったんだ?」
ハルトは壁の時計を見る。
午後五時三十二分。
もう一度ミオを見る。
「……タチバナもだろ」
ミオが一瞬黙った。
そして、小さく笑う。
「それもそうだね」
どうしてなのかは分からない。
けれどハルトは、そのまますぐに立ち去ろうとはしなかった。
窓の外では、
太陽がホシミの建物の向こうへゆっくり沈んでいく。
学校は、ほとんど空っぽだった。
廊下も静かだった。
それなのに。
その日初めて、
ハルトはその静けさを、
本当の意味で「寂しい」とは感じなかった。
彼は後ろ手にドアを閉めた。
そして、その夕方は――
まだ二人とも知らなかったけれど、
これから何度も一緒に過ごすことになる、
最初の放課後になった。
たった一つの何気ない言葉が、
やがて二人の習慣になり、
そして約束へと変わっていく。
――また、放課後に。
