溺愛、しないで


震え出した体を落ち着かせるように握っていた拳から、ぬるりとした感触が伝わってくる。


それに気付いた目の前の男が、私の手首を掴んで己の目の高さに持ち上げた。


「あーあー、力入れすぎて肉(えぐ)ってるじゃないっスか。つーか、こんなんで怖がらないで欲しいっス。これから長い付き合いになるんスから。ねえ?」


「っ!!」


「あ、待っ」


そこでもう、耐え切れなかった。


私は足下に置いていた鞄をひっ掴み、一目散に扉へと走り出す。


しかし、そうすると分かっていたかのような速さで鞄を掴まれて引っ張られたせいで、私は体勢を崩して後ろへとすっ転んだ。


床についた左手に強い負荷がかかり、鋭い痛みが走る。


私は一瞬のうちに鞄を捨てる覚悟を決め、持ち手から腕を抜いてまた無様(ぶざま)に走り出す。


鞄を拾って逃げられるとは思えなかった。


後ろは怖くて振り返れないまま、扉の取手を掴んで思い切り前に力を入れるが、何故か扉はびくともしない。


なんでっ……!?


「紫一千映ちゃん。珍しい苗字っスね」


──聞き間違えようのない自分の名前。


心の底から出た疑問は、後ろを振り向いただけで解決してしまう。


先程まで自分が座っていた椅子に足を組んで腰掛けながら、涼しげな顔で学生証を眺めている彼。


目の前が真っ暗になるような絶望が視界を染め上げる。


男の足元には自分の鞄の中身が散らばっていた。


「……んで……鍵……さっき、かけ……」


「ああそれ?外側からも鍵かけられるようになってるんスよ。気付いてたから逃げないんだと思ってたんスけど」


もう用はないというように学生証を床に捨て、男が一歩一歩近付いてくる。


「どーこいくんスかあ?いーちーはーちゃん」


(たの)しげに目を細めた男に肩を掴まれた瞬間──ぶつりと音を立て、視界がブラックアウトした。