1-9.限界
ゴールデンウィークが明け、5月7日。
世間の連休ムードを引きずったままのどんよりとした空気の中、私の心身は完全に限界を迎えていた。
奈良さんが電話で言ってくれた「牛歩作戦」を頭では理解していても、いざ出社すれば目の前の書類の山と周囲の無関心な視線に息が詰まる。
結局、何も状況は変わらない。
退職の二文字が頭をよぎり、ただロボットのようにキーボードを叩いて一日を終えた。
退時カードを切り、疲れ果てた体を引きずって、駐車場に停めてある自分の車に乗り込む。
スタートボタンを押してエンジンを入れた。
だけど、すぐにアクセルを踏む気力なんてどこにも残っていなかった。
「……はぁ」
背もたれに深く体重を預け、フロントガラスの向こうの薄暗い景色をただぼーっと見つめる。
今日あったことも明日やらなければいけないことも何も考えていない、ただぼーっとしていた。
そのはずなのに、視界が急に熱くなったかと思うと、大粒の涙が次から次へと溢れて、頬を伝って落ちていった。
声を上げて泣くわけでもなく、ただ静かに、止めどなく涙がこぼれる。
車内の狭い空間に、エンジン音だけが虚しく響いていた。
心が、限界だったのだろう。
スマホを手に取り母に連絡してみる。
「お母さん、私……」
そんな私を救い上げてくれたのは、やっぱり奈良さんだった。
彼は私を心配をして連休が明けてからも、定期的に連絡をくれた。
「宮本さん、あの案件の進捗はどう?」といったように、あくまで業務を確認しながら私の様子を見ている。
彼の優しい配慮だった。
「奈良さん、お疲れ様です……。
すみません、実はヤードから工場内への輸送契約の件ですが……」
私が社内電話でそう切り出すと、彼はいつでも私のまとまらない説明を丁寧に紐解き、的確なアドバイスをくれた。
「うん、そこまでは合っているね。
流石だなぁ、よく把握出来ているよ。
あとは過去実績データとも比較して能率負けしてないか、収支が合っているかを最後確認しておいて問題なければ仕上げていいんじゃないかな。」
受話器の向こうから聞こえる、私に理解出来るようにゆっくりと話す、包み込むような彼の声。
それを耳にしているだけで、不思議なほど冷え切っていた頭の芯がじんわりと温かくなり、強張っていた肩の力が抜けていくのが分かった。
(……どうしてだろう)
旦那さんに「大丈夫?」と言われてもあんなにイラついて、余計に孤独を感じていた。
それなのにどうして奈良さんの、この声を聞くだけで、私はこんなにも落ち着くんだろう。
仕事の元上司だから。
私の業務を理解してくれているから。
理由とかよくわからないが、胸の奥がキュッと締め付けられるような、名前のつかない感情が膨らんでいくのを止められない。
そして、その瞬間は突然やってきた。
ある日の午後、デスクで一人、奈良さんから送られてきた業務のアドバイス資料を画面で確認していた時のことだ。
文字の端々から伝わってくる彼の細やかな気遣いと、新天地で自分自身も大変なはずなのに私のために時間を割いてくれている事実に、胸がいっぱいになった。
「っ……」
不意に、喉の奥が震える。
激しい感情の波が押し寄せ、目頭が潤む。
事務所の真ん中、周りには同僚たちがいるこの場所で涙が溢れそうになった。
「すみません、ちょっと外します」
隣の席の先輩に辛うじてそれだけを告げると、私はデスクから立ち上がる。廊下を早歩きで進み、女子トイレの個室に駆け込んで鍵を閉める。
ドアに背中を預けた瞬間、堪えていた涙がボロボロと溢れ出した。
どうしてかはわからない。
仕事の辛さや孤独感からではなかった。
彼に対して「上司以上の何か」を感じている自分への戸惑う。
色々な感情が混ざり合って、涙が止まらなかった。
数分後。
一頻り涙が出た。
何度か深呼吸をして、私は洗面台の鏡の前に立つ。
鏡に映る自分の顔は、目元がほんのり赤くなっている。
「……よし」
小さく呟き、バッグからポーチを取り出す。
誰にも、自分が泣いていたことなんて悟られるわけにはいかない。
奈良さんが裏で守ろうとしてくれている。
だから、もう少しだけでも私は頑張ろう。
彼の好意を自分の弱さで否定したくはなかった。
今は辛抱の時だ、今を凌げばきっと私は1段上のステージで余裕を持った働き方が出来るはず。
先苦後楽、奈良さんがフォローしてくれるなら今を少し頑張ろう。
鏡を見ながら自分自身に言い聞かせる。
目薬を差し、ファンデーションを軽く叩き直す。
赤みの出た目元をハイライトで誤魔化し、いつも通りの「真面目な宮本穂花」の顔を鏡の中で作り上げた。
リップを塗り直し、最後に小さく息を吐く。
頑張ろう。
ゴールデンウィークが明け、5月7日。
世間の連休ムードを引きずったままのどんよりとした空気の中、私の心身は完全に限界を迎えていた。
奈良さんが電話で言ってくれた「牛歩作戦」を頭では理解していても、いざ出社すれば目の前の書類の山と周囲の無関心な視線に息が詰まる。
結局、何も状況は変わらない。
退職の二文字が頭をよぎり、ただロボットのようにキーボードを叩いて一日を終えた。
退時カードを切り、疲れ果てた体を引きずって、駐車場に停めてある自分の車に乗り込む。
スタートボタンを押してエンジンを入れた。
だけど、すぐにアクセルを踏む気力なんてどこにも残っていなかった。
「……はぁ」
背もたれに深く体重を預け、フロントガラスの向こうの薄暗い景色をただぼーっと見つめる。
今日あったことも明日やらなければいけないことも何も考えていない、ただぼーっとしていた。
そのはずなのに、視界が急に熱くなったかと思うと、大粒の涙が次から次へと溢れて、頬を伝って落ちていった。
声を上げて泣くわけでもなく、ただ静かに、止めどなく涙がこぼれる。
車内の狭い空間に、エンジン音だけが虚しく響いていた。
心が、限界だったのだろう。
スマホを手に取り母に連絡してみる。
「お母さん、私……」
そんな私を救い上げてくれたのは、やっぱり奈良さんだった。
彼は私を心配をして連休が明けてからも、定期的に連絡をくれた。
「宮本さん、あの案件の進捗はどう?」といったように、あくまで業務を確認しながら私の様子を見ている。
彼の優しい配慮だった。
「奈良さん、お疲れ様です……。
すみません、実はヤードから工場内への輸送契約の件ですが……」
私が社内電話でそう切り出すと、彼はいつでも私のまとまらない説明を丁寧に紐解き、的確なアドバイスをくれた。
「うん、そこまでは合っているね。
流石だなぁ、よく把握出来ているよ。
あとは過去実績データとも比較して能率負けしてないか、収支が合っているかを最後確認しておいて問題なければ仕上げていいんじゃないかな。」
受話器の向こうから聞こえる、私に理解出来るようにゆっくりと話す、包み込むような彼の声。
それを耳にしているだけで、不思議なほど冷え切っていた頭の芯がじんわりと温かくなり、強張っていた肩の力が抜けていくのが分かった。
(……どうしてだろう)
旦那さんに「大丈夫?」と言われてもあんなにイラついて、余計に孤独を感じていた。
それなのにどうして奈良さんの、この声を聞くだけで、私はこんなにも落ち着くんだろう。
仕事の元上司だから。
私の業務を理解してくれているから。
理由とかよくわからないが、胸の奥がキュッと締め付けられるような、名前のつかない感情が膨らんでいくのを止められない。
そして、その瞬間は突然やってきた。
ある日の午後、デスクで一人、奈良さんから送られてきた業務のアドバイス資料を画面で確認していた時のことだ。
文字の端々から伝わってくる彼の細やかな気遣いと、新天地で自分自身も大変なはずなのに私のために時間を割いてくれている事実に、胸がいっぱいになった。
「っ……」
不意に、喉の奥が震える。
激しい感情の波が押し寄せ、目頭が潤む。
事務所の真ん中、周りには同僚たちがいるこの場所で涙が溢れそうになった。
「すみません、ちょっと外します」
隣の席の先輩に辛うじてそれだけを告げると、私はデスクから立ち上がる。廊下を早歩きで進み、女子トイレの個室に駆け込んで鍵を閉める。
ドアに背中を預けた瞬間、堪えていた涙がボロボロと溢れ出した。
どうしてかはわからない。
仕事の辛さや孤独感からではなかった。
彼に対して「上司以上の何か」を感じている自分への戸惑う。
色々な感情が混ざり合って、涙が止まらなかった。
数分後。
一頻り涙が出た。
何度か深呼吸をして、私は洗面台の鏡の前に立つ。
鏡に映る自分の顔は、目元がほんのり赤くなっている。
「……よし」
小さく呟き、バッグからポーチを取り出す。
誰にも、自分が泣いていたことなんて悟られるわけにはいかない。
奈良さんが裏で守ろうとしてくれている。
だから、もう少しだけでも私は頑張ろう。
彼の好意を自分の弱さで否定したくはなかった。
今は辛抱の時だ、今を凌げばきっと私は1段上のステージで余裕を持った働き方が出来るはず。
先苦後楽、奈良さんがフォローしてくれるなら今を少し頑張ろう。
鏡を見ながら自分自身に言い聞かせる。
目薬を差し、ファンデーションを軽く叩き直す。
赤みの出た目元をハイライトで誤魔化し、いつも通りの「真面目な宮本穂花」の顔を鏡の中で作り上げた。
リップを塗り直し、最後に小さく息を吐く。
頑張ろう。
