朝の徒花

4-10.徒花の定義

私はアイスコーヒーのグラスを置き、今も泣いている夫に対して優しく語りかけた。

「馬鹿ね。
みんなすぐ婚外恋愛だなんて騒ぐけれど、この歳にもなれば、本気の恋愛なんてそんなに興味がなくなるものよ。
男の人はどうだか知らないけれど、一から人間関係を築いていくのって本当に大変なの。
恋は相手に『する』ものだし、愛は相手に『与える』ものよ。
でも、私はただ、癒やしが『欲しい』の。
恋愛がしたいわけじゃないわ。
当然、肉体関係もいらない。
あんなの、好きな人は良いって言うだろうけど、私にとっては煩わしいだけだもの。」
 
私の言葉に、宮本さんの旦那さんがハッと息を呑む。
彼が必死に集めた「不倫の証拠」なんて、私の前では何の意味も持たないって気付いたみたい。
 
「ねぇ、パパ。
ボクは家族を愛してるって言っていたわよね。
体も心も、どちらかを丸ごと別の誰かに明け渡してしまうから、それを不倫や浮気って言うのよ。
じゃあ、今の私たちはどう?
違うでしょ?
だって、『あげる』ことはしていないし、『貰いたい』って気持ちしかないから。
私はあなたの妻だし、あなたは私の夫。
家庭を守る『愛』はちゃんとここにあるわ。」
 
私はふぅ、と小さく息を吐いた。
 
「結局ね、昔はそんな考え方や概念がなかったから、過去の古い型に無理やり当てはめるように『不倫』や『浮気』って言葉を使って表現するのよ。
でも時代は変わっているんだから、私たちも宮本さんがいうような新しい考え方や、新しい言い方を持ってもいいと思うの。」
 
宮本さんが、まるで本物の化け物でも見るかのような目で私を見つめている。
彼女が涙ながらに語っていた「二つのベクトル」の持論。
私はそれを、とっくに完成させていた。
 
「それにね、結局のところ、結婚後の浮気っていうのはした方もされた方も生産性がないのよ。
だから、穏やかな日常を過ごせているならわからないままか、気付かないまま。
そんな素振りがあっても、知らないふりをしておく方がお互いのために幸せなの。
それをわざわざ盗聴だなんて、本当に不毛だわ。」

私は、テーブルの真ん中で止まったままの、二人の声を拾ったスマホを一瞥した。
 
「よく、儚い恋や、不倫関係のような実らぬ恋のことを『徒花(あだばな)』って言うでしょ?
でも私、あの表現は適切な使い方とは違うと思うの。」
 
静まり返った店内に、私の声だけが淡々と響く。
 
「咲いてもすぐに散ってしまう花、儚い恋。
それに掛けて実ることのない不倫。
世間はそう解釈するけれど、徒花の本来の意味にはね『見かけ倒しで、実際の結果や実体が伴わない物事』というものがあるのよ。
ねぇ、ピッタリじゃない?」
 
私は壊れた人形のように震える夫と、隣の若い男女を順番に見つめ、クスリと笑った。
 
「世間からは不倫という最悪の悪行に見えて、実際には肉体関係も心の裏切りもないの。
やりたいことは、裏切られることのない隠れ家に縋るただの現実逃避。
インモラルまでのあと一歩を踏み込む覚悟がない人がやる、実体のない見かけ倒しの関係なのよ。
これこそ、本当の意味での徒花じゃないかと思うの。
宮本さん、あなたと私の夫がやっていたおままごとも、私と彼の関係もね。」
 
一国一城の主として守るべき家庭という城。
それが、夫が裏切る遥か前から、私の「自給自足で得た癒やし」によって奇跡的に保たれていた虚城だったと知った時、夫の常識は完全に瓦解した。

店内は誰一人音を立てることなく静まり返っていた。