4-1.保身(プロローグ)
「あと2分くらいで、このお店に来ます。」
目の前の宮本さんが、幽霊でも見たかのような掠れた声でそう告げた瞬間、私の脳内は真っ白に染まった。
喫茶店の穏やかなボサノヴァのBGMが、急に遠くの雑音のように遠ざかっていく。
遅すぎたのだ、何もかもが。
家庭内での疎外感から、彼女を「甘い癒やし」として激しく求めていたツケが、これ以上ない最悪のタイミングで回ってきた。
火事になる前のくすぶりで清算しようと、今日この席を設けたというのに、すべては手遅れだった。
(訴えられるのか?
慰謝料はいくらになる?
会社や家族にはバレるのか?)
真っ先に脳裏を過ったのは、情けないほどの「保身」だった。
どうすればこの修羅場から逃げられるんだ。
家族にだけは、妻と子供たちには秘密でいられるだろうか。
そればかりが頭をぐるぐると駆け巡る。
リビングで私に微笑んで梨を剥いてくれた妻の顔と、将棋を指しながら「パパ最近楽しそう」と笑った娘の笑顔が、走馬灯のように浮かんでは消えた。
その感傷を打ち消すように、レトロな珈琲店の真鍮のドアベルがカランコロンと残酷に高く澄んだ音を立てる。
弾かれたように視線を向けると、逆光を背に受けて、一人の男性が店内に入ってきた。
仕立てのいいスーツを着た男性。
ゴルフ練習場で、宮本さんと仲睦まじく歩いていたあの旦那さんだ。
彼は怒気を孕んだ鋭い眼光でぐるりと店内の席を見渡す。
そして、奥のボックス席に固まっている私たちの姿を認めた瞬間、その目が完全に据わった。
一歩、また一歩と、こちらに向かって歩みを進めてくる。
(最初に殴られるかもしれない。
それは覚悟しよう)
だが、痛みなどよりも恐怖すべきことがあった。
彼はどこまで私たちの関係を把握している?
スマホのチャットか、それとももっと確実な証拠か。
要求は何だ。
金か、それとも社会的な抹殺か。
ここで感情的になって取り乱したら終わりだ。
これ以上のダメージを減らすためにも、今は徹底的な情報収集が必要だろう。
相手が手にする武器の正体を見極め、こちらの言い訳の使い時を誤ってはならない。
宮本さんがカバンを抱きしめてガタガタと震える横で、私は自分の耳を極限まで集中させた。
彰将の靴音が、すぐ近くで止まる。
片耳で怪しく光るワイヤレスイヤホン。
彼は冷徹な笑みを浮かべ、空いている席の椅子をゆっくりと引きながら、信じられないほど静かな声で私を見下ろした。
「お待たせ。
じゃあ、3人で話をしようか。」
「あと2分くらいで、このお店に来ます。」
目の前の宮本さんが、幽霊でも見たかのような掠れた声でそう告げた瞬間、私の脳内は真っ白に染まった。
喫茶店の穏やかなボサノヴァのBGMが、急に遠くの雑音のように遠ざかっていく。
遅すぎたのだ、何もかもが。
家庭内での疎外感から、彼女を「甘い癒やし」として激しく求めていたツケが、これ以上ない最悪のタイミングで回ってきた。
火事になる前のくすぶりで清算しようと、今日この席を設けたというのに、すべては手遅れだった。
(訴えられるのか?
慰謝料はいくらになる?
会社や家族にはバレるのか?)
真っ先に脳裏を過ったのは、情けないほどの「保身」だった。
どうすればこの修羅場から逃げられるんだ。
家族にだけは、妻と子供たちには秘密でいられるだろうか。
そればかりが頭をぐるぐると駆け巡る。
リビングで私に微笑んで梨を剥いてくれた妻の顔と、将棋を指しながら「パパ最近楽しそう」と笑った娘の笑顔が、走馬灯のように浮かんでは消えた。
その感傷を打ち消すように、レトロな珈琲店の真鍮のドアベルがカランコロンと残酷に高く澄んだ音を立てる。
弾かれたように視線を向けると、逆光を背に受けて、一人の男性が店内に入ってきた。
仕立てのいいスーツを着た男性。
ゴルフ練習場で、宮本さんと仲睦まじく歩いていたあの旦那さんだ。
彼は怒気を孕んだ鋭い眼光でぐるりと店内の席を見渡す。
そして、奥のボックス席に固まっている私たちの姿を認めた瞬間、その目が完全に据わった。
一歩、また一歩と、こちらに向かって歩みを進めてくる。
(最初に殴られるかもしれない。
それは覚悟しよう)
だが、痛みなどよりも恐怖すべきことがあった。
彼はどこまで私たちの関係を把握している?
スマホのチャットか、それとももっと確実な証拠か。
要求は何だ。
金か、それとも社会的な抹殺か。
ここで感情的になって取り乱したら終わりだ。
これ以上のダメージを減らすためにも、今は徹底的な情報収集が必要だろう。
相手が手にする武器の正体を見極め、こちらの言い訳の使い時を誤ってはならない。
宮本さんがカバンを抱きしめてガタガタと震える横で、私は自分の耳を極限まで集中させた。
彰将の靴音が、すぐ近くで止まる。
片耳で怪しく光るワイヤレスイヤホン。
彼は冷徹な笑みを浮かべ、空いている席の椅子をゆっくりと引きながら、信じられないほど静かな声で私を見下ろした。
「お待たせ。
じゃあ、3人で話をしようか。」
