朝の徒花

3-16.沸点到達(エピローグ)

10月22日、金曜日。
決戦の日。
俺はこの日のために有給休暇を取得していた。
朝から自宅のソファーに座り込み、手の中のスマートフォンに表示された見守りアプリの画面を、瞬きも忘れるほどの執念で見つめ続けている。
今日、穂花は必ずあの元上司の男と会う。
確信があった。
 
画面の中、彼女の現在地を示す小さな足跡のアイコンは、昼間は職場からぴくりとも動かなかった。
普通に出勤しているようだ。
だからこそ、動くなら夕方。
フレックスを利用して、あの男の元へ嬉々として駆けていくに違いない。
 
17時すぎ、予想通りアイコンが動き出した。
網膜に焼き付けるようにしてその軌跡を追う。
足跡は迷いのない速度で街を横切り、やがて、あのいつもの珈琲店の場所できちんと停止した。
 
「間違いない、ここだ。」
 
俺は静かに立ち上がり、あらかじめ用意していた車のキーを握りしめた。
車を走らせ、珈琲店のすぐ近くにあるコインパーキングに滑り込ませる。
エンジンを切り、車内に訪れた静寂の中で、俺はポケットからイヤホンを取り出して両耳に深く押し込んだ。
擬装されたポケットWi-Fiとモバイルバッテリー。
穂花が何一つ疑わずに持ち歩いてくれている、俺の「耳」が現地の音声をリアルタイムで拾い始める。
 
スピーカーから、雑音を割り裂いて穂花の声が飛び込んできた。
弾んだ、ひどく艶っぽい、喜色に満ちた声。
 
(なんて嬉しそうに話すんだ。)
 
胸の奥で、ドロドロとした黒いマグマが煮えくり返るのを感じた。
激しい嫉妬と怒り。
けれど、それと同時に俺の心は間違いなくいまも穂花を愛し、激しく執着しているのだという事実を突きつけられていた。
愛しているからこそ、別の男に向けて溢れ出している彼女の情熱が、俺の脳の回路をズタズタに引き裂いていく。
スマホを持つ手の指先が、怒りのあまりに白く震える。

そして、スピーカーの向こうから、俺の理性を完全に焼き切る決定的な言葉が放たれた。
 
「本当に、奈良さんに会えない間の半月間、信じられないくらい寂しかったんですからね。」

続いて、あの男の低く落ち着いた声が重なる。
 
「宮本さん、そこまでボクのことを思ってもらえるなんて、本当に嬉しいよ。」
 
カッ、と頭の中で何かが激しく弾け飛んだ。
全身の血が逆流し、視界が真っ赤に染まる。
二人が交わしていただろう、毎朝5時半SMS。
俺の知らない密室で、穂花と元上司がどれほど深く、互いの心を貪り合っていたのか。
今までのは「妻は不倫しているかも」という疑念だ。
でも、その裏切りのすべてが、ついに確信へと変わった。
 
「やってやる。」
 
俺は狂気的な衝動のままに録音ボタンを叩いて止め、すぐさま穂花の番号を呼び出した。
コール音は何度もと鳴らす。
画面の向こうで、穂花が驚いたように電話に出たのが分かった。
 
「もしもし、彰将さん?
どうしたの、急に…?」
 
受話器の向こうの穂花に、俺は言葉をぶつけた。
今どこにいるのか、お前たちの会話を全部聴いていたこと、あと二分でそこへ行くということ。
淀みなく冷徹に宣告したつもりだった。
だが、怒りのあまりに脳の沸点を超えていた俺は、自分が一体どんなトーンで、どんな言葉を彼女に吐き出したのか、その正確なディテールをよく覚えていない。
 
ただ一つ分かっていたのは、俺の手が車のドアノブを壊さんばかりの力で掴んでいたことだけだ。
バタン、と激しく車のドアを閉め、俺は夜の帳が下りたアスファルトを力強く踏み締めた。
 
これからあの珈琲店のドアを開け、怯えきった二人の前に姿を現してやる。
そして、男としての、夫としての本当の決着をつけてやるんだ。