朝の徒花

3-15.奈落の門

10月22日。
待ちに待った、運命の金曜日。
朝から私の頭の中は、奈良さんに会える歓びだけで満たされていた。
 
オフィスのデスクに向かいながらも、テキパキと手元はいつにない速度で動く。
フレックスタイム制度を利用して一刻も早く退社できるよう、山積みの書類と案件を恐ろしい集中力で片付けていく。
 
「宮本さん、今日なんかすごく気合入ってない?」

と隣の席の同僚にからかわれたけれど、懇親会を断っている手前、「今日中にどうしても仕上げたい契約書があって」と笑顔でかわした。

定時を待たずにオフィスを飛び出し、いつもの珈琲店へと滑り込む。
薄暗いお気に入りの席で、先に待っていてくれた奈良さんと合流する。
注文した珈琲が運ばれてくるのを待ちきれないほど、私には話したいことが山のようにあった。
この半月間、どれほど彼に会いたくて、どれほど寂しくて干からびそうだったか。
珈琲がテーブルに置かれた瞬間、私は堰を切ったように、昂る勢いのまま奈良さんに言葉をぶつけ始めた。
最初のうち、奈良さんは私のあまりの熱量に少し圧倒されたような、驚いた顔をしていたものだ。
けれど、子供のように嬉々として喋り続ける私の様子に水を差してはいけない、とでも思ったのだろう。
やがて穏やかな笑みを浮かべ、私の話を聞くことに徹してくれるようになった。

「本当に、奈良さんに会えない間の半月間、信じられないくらい寂しかったんですからね。」

これまでの「追われる側」のスタンスなんて、もうどうでもよかった。
あざとい計算を忘れるほど、私は今まで溜め込んできた奈良さんへのストレートな好意を、次々と無防備な言葉にして伝えていった。

一通り話し終えて、満足感に浸りながら温かい珈琲を口に含む。
そんな私をじっと見つめていた奈良さんが、少しだけ姿勢を正し、静かに口を開いた。

「宮本さん、そこまでボクのことを思ってもらえるなんて、本当に嬉しいよ。
でもね、ボクらはお互い別の人と結婚している。
だから、今日は今後について話し合いたいと思っていたんだ。」

奈良さんのトーンは、私の予想していた「一線を越える覚悟」のそれとは明らかに違っていた。
どこか冷徹で、逃げ場のない境界線を引くような声。
嫌な予感がした、まさにその時だ。

バッグの中で、私のスマートフォンが着信音と共にけたたましく震え出した。
画面を見ると、ディスプレイに表示されていたのは、彰将さんの名前だった。

どうしたのだろう?
普段、私が知人と会うと伝えていれば、彼は遠慮してSMSを入れるだけで電話まで鳴らさない人だ。

何かあったのかも。

思わず、息を呑む。
なぜ、今、このタイミングで?

「すみません奈良さん、ちょっと待ってください。」

嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、私は通話ボタンを押して耳に当てた。

「もしもし、彰将さん?
どうしたの、急に…。」
「あ、穂花?
今、いつもの珈琲店にいるよね。」

受話器の向こうから聞こえてきた夫の声は、驚くほど平坦で、冷え切っていた。
いつもリビングで談笑を交わす、あの夫の声ではない。
獲物の位置を完全に把握している、冷酷な捕食者の声だ。

「え、なに?」
「とぼけなくていいよ。
今、ずっと聴いていたから。
君がそこでお友達とどんなに楽しいお話をしていたかも、全部リアルタイムで聴いていたよ。
全部ね。」

頭を巨大な鉄槌で殴られたような衝撃だった。
いつから?
どうやって?

パニックで血の気が引き、言葉を失う私に、彰将さんは淀みのない、狂気的な優しさを孕んだ声で告げた。

「今、お店のすぐ前の角を曲がったところだよ。
あと2分くらいでそこに着く。
せっかくだから、その奈良さんっていう元上司の方も交えて、3人でこれからの話をしようか。
逃げないで待っていてね、穂花。」
「嘘でしょ?」

プツリ、と非情な音を立てて通話が切れた。
スマートフォンを握りしめたまま、私の全身がガタガタと震え、止まらない。
喉の奥が完全に干からびて、呼吸の仕方が分からなくなる。
目の前では、何も知らない奈良さんが、突然青ざめて震え出した私を怪訝そうな目で見つめていた。

私は、幽霊でも見たかのような掠れた声で、目の前の男に絶望のカウントダウンを告げるしかなかった。

「な、奈良さん…。
夫が、彰将さんが…。
あと2分くらいで、このお店に来ます。
奈良さんも交えて、お話をするために…。」