3-14.覚悟
「急だけど、近いうちに会いたい。
会って話がしたいんだ。」
このメッセージを宮本さんに送った。
子供たちのことを思えば、今度こそちゃんと清算すべのなんだと決意したはずだったんだ。
それなのに、現実は上手くいかないもの。
この間の彼女の錯乱を考えたら、一方的に伝えて綺麗に関係が清算出来るなんて思えなかった。
そうすると電話やチャット、短時間だけ会って話すといった程度では納得を得られないだろう。
だから、ゆっくりと時間が取れる日時の方がいいと思って候補日を聞いた。
そうすると、ボクが決意したタイミングも悪かった。
9月月末に思い付いても、職場では期末決算の処理が始まっており、どうしても10月9日まで都合が取れなかった。
そこに追い打ちで彼女の忌引。
さらにそれが終わったと思えば、彼女の研修出張。
様々な事情が重なり、宙ぶらりんになった約束の日はずるずると先延ばしにされ続けていた。
一刻も早く会って、自分の弱さをキッパリと謝り、この足枷を外してしまいたい。
そう願えば願うほど、カレンダーの数字だけが無情に通り過ぎていく。
この遅れが生むジレンマは、ボクの胸をジリジリと焦がしていた。
そして、もう一つ折り合いをつけないといけないのが「習慣」だ。
朝の五時半。
家族の誰も起きていない、薄暗く静まり返った寝室で、ボクは今朝もハッと目を覚ました。
毎朝彼女にメッセージを送っていた時間。
ボクは無意識に、枕元のスマホに手を伸ばそうとして、その動きをピタリと止めた。
(そうだ、送らなくていいんだった。)
液晶画面にはデジタル時計の数字が光って表示されている。
彼女からのたどたどしい『おはよぅござぃます、おきてます』の文字はない。
忌引が決まった日、ボクは忙しいだろうと思い「モーニングコールを止めておく」と申し出た。
それ以来、毎朝のやりとりはやっていなかったが、
自分から言っておきながらなんだか寂しかった。
「甘い癒やし」が日常からぽっかりと消え失せた喪失感。
早く直接会ってケジメをつけなければ。
この長引く空白期間中に、未練に理性が負けてしまうのではないかと、ボクは自分の意志の弱さが心底怖かった。
そんなボクのいたたまれない罪悪感をさらに加速させたのは、皮肉にも妻の「変化」だ。
ある日の夜、遅くに帰宅してリビングで一人、夕食をとっているときのことだった。
「今日、実家からたくさん梨をもらったの。
あなたも食べるでしょ?」
カタッ、と小さなお皿がテーブルに置かれた。
見ると、綺麗に剥かれた果物を前に妻が微笑んでいた。
いつもなら、ボクが帰宅しても無関心だった妻が、だ。
最近のボクはリビングにいても、透明人間のように扱われるのが常だった。
しかし、ボクのスマホに触れる時間が劇的に減って、週末に子供たちと全力で遊ぶようになったからだろうか。
ここ一週間程、妻の態度から棘が少しずつ、目に見えて抜けてきている気がした。
「ありがとう、いただくね。」
梨を一切れ、口に運ぶ。
瑞々しい甘さが広がるのと同時に、胸の奥をキリキリとした鋭い痛みが刺した。
妻がこうして、ほんの少しでもボクに歩み寄ろうとしてくれている。
冷え切っていたと思っていた夫婦関係に、微かな修復の兆しが見えた。
その現実が、今のボクには耐え難いほど苦しい。
ボクが宮本さんとの関係を終わらせたいのは、この家族を守るためだ。
なのに、ボクの頭の片隅にはまだ「朝五時半の寂しさ」がしっかりと居座っている。
家族を裏切る『罪』の意識に背中を押されながら、その一方で、家族の知らないところで別の女性への未練を完全に断ち切り切れていない。
そんな卑怯な内面を見透かされているようで、妻の穏やかな顔をまっすぐ見つめることができない。
ボクは静まり返ったリビングで黙々と梨を咀嚼し続けた。
そして、ようやく決まった決戦の日。
10月22日、木曜日。
前夜、ボクはベッドの中で、隣で眠る妻の規則正しい寝息を聞きながら、暗い天井を見つめていた。
自分の寂しさを埋める言い訳のために、十三歳も年下の彼女を惑わせ、傷つけ、不義の沼へ引きずり込んだ。
その代償は必ず払わなければならない。
明日、再びあの珈琲店で向き合えば、彼女はきっとまた大粒の涙を流してボクに縋り付くだろう。
激しく取り乱すかもしれない。
でも、火事になる前のくすぶりの段階で清算した方がお互いのためにも絶対に良いだろう。
(もう絶対に流されちゃいけない。)
夜の冷たい空気を吸い込み、ボクは胸の中で静かに覚悟を固めた。
明日、大人の男として、父親として、彼女の涙を正面から受け止めよう。
そして、自分の弱さをキッパリと謝り、この関係をボクの手できちんと断ち切るんだ。
大切な家族のいるこの日常を、二度と裏切らないために。
枕元のスマートフォンを強く握りしめる。
何度も心の中で反芻することで、翌日の決戦に向けて、一歩を踏み出す心の準備を終えた。
「急だけど、近いうちに会いたい。
会って話がしたいんだ。」
このメッセージを宮本さんに送った。
子供たちのことを思えば、今度こそちゃんと清算すべのなんだと決意したはずだったんだ。
それなのに、現実は上手くいかないもの。
この間の彼女の錯乱を考えたら、一方的に伝えて綺麗に関係が清算出来るなんて思えなかった。
そうすると電話やチャット、短時間だけ会って話すといった程度では納得を得られないだろう。
だから、ゆっくりと時間が取れる日時の方がいいと思って候補日を聞いた。
そうすると、ボクが決意したタイミングも悪かった。
9月月末に思い付いても、職場では期末決算の処理が始まっており、どうしても10月9日まで都合が取れなかった。
そこに追い打ちで彼女の忌引。
さらにそれが終わったと思えば、彼女の研修出張。
様々な事情が重なり、宙ぶらりんになった約束の日はずるずると先延ばしにされ続けていた。
一刻も早く会って、自分の弱さをキッパリと謝り、この足枷を外してしまいたい。
そう願えば願うほど、カレンダーの数字だけが無情に通り過ぎていく。
この遅れが生むジレンマは、ボクの胸をジリジリと焦がしていた。
そして、もう一つ折り合いをつけないといけないのが「習慣」だ。
朝の五時半。
家族の誰も起きていない、薄暗く静まり返った寝室で、ボクは今朝もハッと目を覚ました。
毎朝彼女にメッセージを送っていた時間。
ボクは無意識に、枕元のスマホに手を伸ばそうとして、その動きをピタリと止めた。
(そうだ、送らなくていいんだった。)
液晶画面にはデジタル時計の数字が光って表示されている。
彼女からのたどたどしい『おはよぅござぃます、おきてます』の文字はない。
忌引が決まった日、ボクは忙しいだろうと思い「モーニングコールを止めておく」と申し出た。
それ以来、毎朝のやりとりはやっていなかったが、
自分から言っておきながらなんだか寂しかった。
「甘い癒やし」が日常からぽっかりと消え失せた喪失感。
早く直接会ってケジメをつけなければ。
この長引く空白期間中に、未練に理性が負けてしまうのではないかと、ボクは自分の意志の弱さが心底怖かった。
そんなボクのいたたまれない罪悪感をさらに加速させたのは、皮肉にも妻の「変化」だ。
ある日の夜、遅くに帰宅してリビングで一人、夕食をとっているときのことだった。
「今日、実家からたくさん梨をもらったの。
あなたも食べるでしょ?」
カタッ、と小さなお皿がテーブルに置かれた。
見ると、綺麗に剥かれた果物を前に妻が微笑んでいた。
いつもなら、ボクが帰宅しても無関心だった妻が、だ。
最近のボクはリビングにいても、透明人間のように扱われるのが常だった。
しかし、ボクのスマホに触れる時間が劇的に減って、週末に子供たちと全力で遊ぶようになったからだろうか。
ここ一週間程、妻の態度から棘が少しずつ、目に見えて抜けてきている気がした。
「ありがとう、いただくね。」
梨を一切れ、口に運ぶ。
瑞々しい甘さが広がるのと同時に、胸の奥をキリキリとした鋭い痛みが刺した。
妻がこうして、ほんの少しでもボクに歩み寄ろうとしてくれている。
冷え切っていたと思っていた夫婦関係に、微かな修復の兆しが見えた。
その現実が、今のボクには耐え難いほど苦しい。
ボクが宮本さんとの関係を終わらせたいのは、この家族を守るためだ。
なのに、ボクの頭の片隅にはまだ「朝五時半の寂しさ」がしっかりと居座っている。
家族を裏切る『罪』の意識に背中を押されながら、その一方で、家族の知らないところで別の女性への未練を完全に断ち切り切れていない。
そんな卑怯な内面を見透かされているようで、妻の穏やかな顔をまっすぐ見つめることができない。
ボクは静まり返ったリビングで黙々と梨を咀嚼し続けた。
そして、ようやく決まった決戦の日。
10月22日、木曜日。
前夜、ボクはベッドの中で、隣で眠る妻の規則正しい寝息を聞きながら、暗い天井を見つめていた。
自分の寂しさを埋める言い訳のために、十三歳も年下の彼女を惑わせ、傷つけ、不義の沼へ引きずり込んだ。
その代償は必ず払わなければならない。
明日、再びあの珈琲店で向き合えば、彼女はきっとまた大粒の涙を流してボクに縋り付くだろう。
激しく取り乱すかもしれない。
でも、火事になる前のくすぶりの段階で清算した方がお互いのためにも絶対に良いだろう。
(もう絶対に流されちゃいけない。)
夜の冷たい空気を吸い込み、ボクは胸の中で静かに覚悟を固めた。
明日、大人の男として、父親として、彼女の涙を正面から受け止めよう。
そして、自分の弱さをキッパリと謝り、この関係をボクの手できちんと断ち切るんだ。
大切な家族のいるこの日常を、二度と裏切らないために。
枕元のスマートフォンを強く握りしめる。
何度も心の中で反芻することで、翌日の決戦に向けて、一歩を踏み出す心の準備を終えた。
