朝の徒花

3-12.驚喜落胆

「えっ!?」

お風呂から上がり、バスタオルで髪を拭きながらベッドの上のスマートフォンを取り出す。
画面に表示された通知を目にした瞬間、私の心臓は歓喜で跳ね上がった。
 
「急だけど、近いうちに会いたい。
 会って話がしたいんだ。
都合のいい日を教えてもらえるかな。」
 
送り主は、奈良さん。
「会いたい」、その四文字を見つめる私の口元から、自然と笑みがこぼれ落ちる。
 
あの日、珈琲店で話をした時、家族を理由に綺麗に幕を引こうとした奈良さん。
もう二人きりで会うことなんて出来ないのかもしれないと、絶望に目の前が真っ暗になった。
人目も気にせず泣き叫んだ。
だからこそ、とっさに思いついた人目を気せず繋がっていられる「朝のSMS(モーニングコール)」という手段は素晴らしいアイディアだったとその日の自分を褒めてあげたい。
結果として、彼にとって日常の始まり時間を独占できる呪いを仕掛けたのだから。

そして、今日の結果に繋がった。
毎朝五時半、人知れずに「おはよう」を交わし続けるうちに、彼の理性は一週間で絆されたのだろう。
満足そうに自己完結していたはずの男が、もう一度会ってくれる。
この上ない幸福感が、私の体を甘く満たしていく。
私はすぐに返信を送りった。
ちょうど今月末は期末決算もあり、どうしても忙しくて日程が折り合わなかい。
結果、会う日は少し遠いが10日後の10月9日金曜日に決定した。
 
(あ、そうだ。
来月の予定を入れておかなくちゃ。)
 
翌日、オフィスのデスクで会社のグループウェアを開き、自分のスケジューラーに「私用」と書き込もうとした瞬間、私は「あっ」と小さく声を上げた。
10月9日の夕方には、すでに「全社懇親会」の予定が押さえられていた。
ブッキングしていたのだ。
どうしよう。
会社のオフィシャルな行事だし、幹事グループへの出欠連絡の締め切りも迫っている。
私は少し焦って、すぐに奈良さんにメッセージを送った。
 
「奈良さん、すみません!
その日、会社の懇親会が入っているのを忘れていました!」
 
すると、奈良さんからはすぐに優しい返信が届いた。

「そうなんだ、それは仕方ない。
それなら無理しないで、別の日でも全然いいよ。
宮本さんの都合のいいときに合わせるから。」
 
別の日か。
カレンダーを睨みつけながら、私は激しく葛藤した。
ここで予定を先延ばしにしたら、せっかく昂っている彼の熱が冷めてしまうかもしれない。
何より、私自身がもう、彼に会うのを一刻も遅らせたくなかった。
 
(まぁ、大丈夫か。)
 
私はキーボードを叩いた。
 
「やっぱりいいです!
懇親会は適当な理由をつけて断ります!」
 
送信ボタンを押したとき、胸がすっと軽くなった。私にとっては会社の人間関係よりも、奈良さんとの時間の方が大事なのだ。
それからは、10月9日という約束の日に向かって這うようにして仕事をこなした。
ちょうど九月の月末は期末決算のタイミングとも重なり、私の所属する契約部署は怒号が飛び交うほどの目まぐるしい忙しさだった。
いつもなら投げ出したくなるような残業の連続も、「あと少しで奈良さんに会える」と思えば、体の奥から不思議と活力が湧き上がってきて、どんな過酷な業務も笑顔でしのぎ切ることができたのだ。
すべては完璧だった。

待ちに待ったデートの二日前。
自宅のリビングで、彰将さんが沈痛な面持ちで私に告げた。
 
「…穂花、さっき連絡があってね。
田舎の、俺のお祖母さんがさっき亡くなったみたいだ。
急なことで申し訳ないんだけど、これから喪服を準備して一緒に行くよ。」
 
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中が真っ白。
お祖母さんが亡くなられた。
それは仕方のないことだ。
頭では百も承知している。
不謹責だと言われようとも、私の脳裏を真っ先に過ったのは「なんで、よりによって今なの?」という悔しさだった。
 
「そう、大変だね。
ちょっと仕事の調整を確認してみるわ。」
 
もしかしたら、お通夜だけで済むかもしれない。
もしかしたら、私は行かなくてもいいかもしれない。

そんな往生際の悪い淡い期待を抱きながら、私は奈良さんに「みません、ちょっと家庭で急用が入ってしまって、どうなるか分かり次第、またすぐに連絡します」とだけ送り、答えをギリギリまで引き延ばした。
けれど、現実は残酷だ。
ご葬儀の執行は、まさに当日である10月9日。
本家長男の嫁として、参列を拒む正当な理由などどこにも存在しなかった。
 
「ごめんなさい、奈良さん。
親族で不幸があって行けなくなりました。」
 
そう連絡するしかなかった。
さらに追い打ちをかけるように、奈良さんは私を気遣ってモーニングコールも止めてしまった。

「今は一番大変なときだから、しっかり見送ってあげてください。」

その最後のメッセージ以降、葬儀の手伝いや親戚への挨拶に追われている間は一度も着信音が鳴らなかった。
 
一度中止となった予定は、その後、なかなか再設定をすることができないでいる。
奈良さんの仕事の都合や、私の出張などが重なり、次の約束は遅れに遅れた。
次に会えるのは、10月22日。
実に、半月も先の話だ。
 
「早く、会いたいな。」
 
夜、静まり返った自分の部屋のベッドの中で、私はぽつりと呟く。
最初は、奈良さんを焦らし、飢えさせ、コントロールしているのは自分の方だと思っていた。
なのに、会えない日が一日、また一日と続いていく中で、私の心はみるみる干からびていく。
メッセージの向こうの彼の声を思い出すたびに、胸の奥がキュンと切なく締め付けられ、狂おしいほどの思いが募っていくのが分かった。
アヘンに苦しんでいたのは、奈良さんではない。
いつの間にか主導権を握っていたはずの私が、いま、彼に会えない寂しさに誰よりも激しく喘いでいた。