3-10.再開
早朝の冷えた空気の中で枕元のスマートフォンがかすかに震え、画面に『05:20』の数字が浮かび上がる。
まだ家族の誰も起きていない、薄暗く静まり返った寝室。
ボクは寝返りを打ち、妻を起こさないよう慎重にスマートフォンを手に取った。
画面の眩しさに目を細めながら、新規メッセージの作成画面を開く。
宛先は宮本さん。
キーボードを叩く指が、少しだけ躊躇った。
けれども、意を決して文字を打ち込んでいく。
「おはよう、もう起きているかな。」
最後に内容をもう一度確認して、SMS送信のボタンを押す。
実に半年ぶり、彼女へのモーニングコールだった。
一昨日の夜、あの珈琲店で彼女はボクの目の前で大粒の涙を流して縋り付いてきた。
いつも可憐な花のよつに微笑んでいた彼女が、「私を急に捨てるようなことしないで」と声を震わせている姿にボクの胸は激しく締め付けられる。
あの日は結局、ボクは彼女を拒みきれなかった。
確かに、子供たちのためにも『父親』に戻らなければと決意している。
けれど、ボクの心の中にも、彼女という甘い癒やしを失いたくないという未練がやっぱりまだまだ残っているのだろう。
未練がボクに自分にとって都合のいい言い訳ばかりを用意する。
珈琲店で二人きりで会ったり、休日にゴルフを教えたりすることに比べれば、毎朝の「おはよう」の一言くらい、ただの挨拶と同じようなものだろう。
誰に見られるわけでもない。
これなら、お互いの家庭を崩壊させるリスクだって無いはずだ。
あの日から今日に至るまでボクの頭の中では理性と未練が毎日言い争い、競り勝った未練が今日も彼女との時間を楽しめと誘惑する。
「おはよぅござぃます、おきてます。
まだ眠いです…。」
起きたての思考のまま、ベッドの中で必死に指を動かしているのだろう。
少しだけ文字がたどたどしい。
いつもの完璧に整えられた彼女の文面とは違う、無防備で生々しいプライベートな姿がそこにあって、ボクの胸の奥がキュッと甘く疼いた。
やっぱり、可愛いなと思ってしまう。
男としての承認欲求が、この一通のやり取りだけでじんわりと満たされていく。
そんな朝の儀式が、一週間続いた。
毎朝5時30分。
ボクがメッセージを送り、彼女が少し眠そうに、けれど嬉しそうに返信をくれる。
業務中のチャットとは明らかに違う、世界が動き出す前の二人だけの密室。
気がつけば、ボクは毎晩、眠りにつく瞬間から「朝の五時半」をどこかで楽しみに待つようになっていた。
(ああ、またこれが習慣になっていくんだな。)
一度狂った歯車は、そう簡単には戻らない。
挨拶のつもりだったはずのSMSは、知らず知らずのうちにボクを再び宮本さんという底なし沼へ引きずり戻す太い鎖になっていた。
けれど。
そんなボクの足元を現実に引き戻したのは、やはり週末の家族の時間だ。
日曜日、ボクはリビングで子供たちと全力で遊んでいた。
ひかりと下の子が、テレビゲームの対戦で大騒ぎしながら笑っている。
「パパ、下手くそだね!?
今回も私の勝ちー!」
「こら、パパに悪態をつくなんて悪い口だな。」
「だってパパ、本当に下手くそだったんだもん!」
子供たちがボクの背中に乗っかり、無邪気な重みと温もりが体に伝わってくる。
その声を台所から妻が少し呆れたような、けれどどこか穏やかな目で見守る光景。
この光景に身を置いているとその瞬間、ボクの胸の奥に言葉にできないほどの鋭い罪悪感が突き刺さった。
誰にも見られないから。
お店に入らないから。
ただの挨拶だから。
そうやって自分に都合のいいフィルターをかけて、ボクは毎朝、この大切にするべき家族が眠っているすぐ横で別の女性に「毎朝の最初」を捧げている。
どれだけ綺麗に言い訳を並べたところで、ボクがやっていることは不誠実だ。
毎朝のSMSはただの挨拶なんかじゃない。
家族の知らないところで、彼女との細い繋がりを必死に維持しようとする卑怯の証明だ。
家族に対する『罪』だ。
やっぱり、このままじゃ駄目だ。
こんな中途半端な優しさは宮本さんに対しても誠実じゃない。
子供たちの笑い声を聞きながら、ボクの心の中で、ようやく一つの冷徹な決意が固まった。
もう逃げちゃいけない。
この間の様子では、彼女はまた涙を流すだろう。
だけど、宮本さんに自分の弱さをキッパリと謝らなければいけない。
ボクの未練が彼女を惑わせ、傷つけていたことを認め、この歪んだ関係をボクの手できちんと断ち切るんだ。
夜、子供たちが寝静まった後、ボクは静かにスマホを開いた。
朝のSMSの履歴を見つめ、今までのやり取りを懐かしみながら、彼女へのメッセージを打ち込む。
短い、けれど引き返せない文字。
「急だけど、近いうちに会いたい。
会って話がしたいんだ。
都合のいい日を教えてもらえるかな。」
今度こそ、父親として、大人の男として、彼女と向き合わなければならない。
送信ボタンを押したボクは、しばらくスマホの画面を見続けていた。
早朝の冷えた空気の中で枕元のスマートフォンがかすかに震え、画面に『05:20』の数字が浮かび上がる。
まだ家族の誰も起きていない、薄暗く静まり返った寝室。
ボクは寝返りを打ち、妻を起こさないよう慎重にスマートフォンを手に取った。
画面の眩しさに目を細めながら、新規メッセージの作成画面を開く。
宛先は宮本さん。
キーボードを叩く指が、少しだけ躊躇った。
けれども、意を決して文字を打ち込んでいく。
「おはよう、もう起きているかな。」
最後に内容をもう一度確認して、SMS送信のボタンを押す。
実に半年ぶり、彼女へのモーニングコールだった。
一昨日の夜、あの珈琲店で彼女はボクの目の前で大粒の涙を流して縋り付いてきた。
いつも可憐な花のよつに微笑んでいた彼女が、「私を急に捨てるようなことしないで」と声を震わせている姿にボクの胸は激しく締め付けられる。
あの日は結局、ボクは彼女を拒みきれなかった。
確かに、子供たちのためにも『父親』に戻らなければと決意している。
けれど、ボクの心の中にも、彼女という甘い癒やしを失いたくないという未練がやっぱりまだまだ残っているのだろう。
未練がボクに自分にとって都合のいい言い訳ばかりを用意する。
珈琲店で二人きりで会ったり、休日にゴルフを教えたりすることに比べれば、毎朝の「おはよう」の一言くらい、ただの挨拶と同じようなものだろう。
誰に見られるわけでもない。
これなら、お互いの家庭を崩壊させるリスクだって無いはずだ。
あの日から今日に至るまでボクの頭の中では理性と未練が毎日言い争い、競り勝った未練が今日も彼女との時間を楽しめと誘惑する。
「おはよぅござぃます、おきてます。
まだ眠いです…。」
起きたての思考のまま、ベッドの中で必死に指を動かしているのだろう。
少しだけ文字がたどたどしい。
いつもの完璧に整えられた彼女の文面とは違う、無防備で生々しいプライベートな姿がそこにあって、ボクの胸の奥がキュッと甘く疼いた。
やっぱり、可愛いなと思ってしまう。
男としての承認欲求が、この一通のやり取りだけでじんわりと満たされていく。
そんな朝の儀式が、一週間続いた。
毎朝5時30分。
ボクがメッセージを送り、彼女が少し眠そうに、けれど嬉しそうに返信をくれる。
業務中のチャットとは明らかに違う、世界が動き出す前の二人だけの密室。
気がつけば、ボクは毎晩、眠りにつく瞬間から「朝の五時半」をどこかで楽しみに待つようになっていた。
(ああ、またこれが習慣になっていくんだな。)
一度狂った歯車は、そう簡単には戻らない。
挨拶のつもりだったはずのSMSは、知らず知らずのうちにボクを再び宮本さんという底なし沼へ引きずり戻す太い鎖になっていた。
けれど。
そんなボクの足元を現実に引き戻したのは、やはり週末の家族の時間だ。
日曜日、ボクはリビングで子供たちと全力で遊んでいた。
ひかりと下の子が、テレビゲームの対戦で大騒ぎしながら笑っている。
「パパ、下手くそだね!?
今回も私の勝ちー!」
「こら、パパに悪態をつくなんて悪い口だな。」
「だってパパ、本当に下手くそだったんだもん!」
子供たちがボクの背中に乗っかり、無邪気な重みと温もりが体に伝わってくる。
その声を台所から妻が少し呆れたような、けれどどこか穏やかな目で見守る光景。
この光景に身を置いているとその瞬間、ボクの胸の奥に言葉にできないほどの鋭い罪悪感が突き刺さった。
誰にも見られないから。
お店に入らないから。
ただの挨拶だから。
そうやって自分に都合のいいフィルターをかけて、ボクは毎朝、この大切にするべき家族が眠っているすぐ横で別の女性に「毎朝の最初」を捧げている。
どれだけ綺麗に言い訳を並べたところで、ボクがやっていることは不誠実だ。
毎朝のSMSはただの挨拶なんかじゃない。
家族の知らないところで、彼女との細い繋がりを必死に維持しようとする卑怯の証明だ。
家族に対する『罪』だ。
やっぱり、このままじゃ駄目だ。
こんな中途半端な優しさは宮本さんに対しても誠実じゃない。
子供たちの笑い声を聞きながら、ボクの心の中で、ようやく一つの冷徹な決意が固まった。
もう逃げちゃいけない。
この間の様子では、彼女はまた涙を流すだろう。
だけど、宮本さんに自分の弱さをキッパリと謝らなければいけない。
ボクの未練が彼女を惑わせ、傷つけていたことを認め、この歪んだ関係をボクの手できちんと断ち切るんだ。
夜、子供たちが寝静まった後、ボクは静かにスマホを開いた。
朝のSMSの履歴を見つめ、今までのやり取りを懐かしみながら、彼女へのメッセージを打ち込む。
短い、けれど引き返せない文字。
「急だけど、近いうちに会いたい。
会って話がしたいんだ。
都合のいい日を教えてもらえるかな。」
今度こそ、父親として、大人の男として、彼女と向き合わなければならない。
送信ボタンを押したボクは、しばらくスマホの画面を見続けていた。
