朝の徒花

3-9.閃き

非常階段の踊り場でなりふり構わず繋げた電話。
受話器の向こうで困惑する奈良さんを強引に引きずり出すようにして、私たちはさっそくいつもの珈琲店で顔を合わせることになった。

夕暮れ時の店内は琥珀色のペンダントライトが床にぼんやりとした輪を作っているだけで、ひどく薄暗い。
外の喧騒も遠く、ジャズのBGM音がかえって店内の静けさを際立たせていた。
席についてすぐには私たちは今日あった他愛のない出来事を話のネタにして、珈琲が運ばれてくるまでの時間を繋いだ。
私の心臓は内側から叩き割らんばかりに脈打っていたけれど、奈良さんはどこか覚悟を決めたような穏やかな表情を崩さなかった。
そのいつも通りの大人の余裕が、今の私には酷く冷たいものに思える。

やがて、注文したブレンド珈琲が二つ白いカップに注がれて運ばれてくる。
テーブルの上に白い湯気がゆったりと立ち上り、特有の苦い香りが私たちの間に満ちていく。
そのタイミングを見計らい、私は意を決して、胸の奥で煮詰まっていた本題へと切り込んだ。

「最近、何かあったんですか?
少しだけ、奈良さんとの間に距離を感じて、ずっと不安だったんです。」

ストレートな私の問いかけに対して、奈良さんは眉一つ動かさなかった。
事前に私がこう切り込んでくることを完全に想定していたのだろう。
彼は落ち着いた様子でカップの取っ手に指をかけ、ゆっくりと持ち上げて温かい珈琲で唇を潤した。
それからカップをソーサーに静かに戻すと、ポツポツと、けれど遮る隙のない明確なトーンで話し始めた。

「やっぱり、君には分かるもんだね。
実はね、先日、あの練習場のロビーで旦那さんといるところに遭遇した日に少し考えたんだ。」

やっぱり、あの日だった。
あのとき、私の隣にいる彰将さんを見て、彼はショックを受けたのだ。
私はテーブルの下で膝の上のスカートをぎゅっと握りしめながら、「彼は私を独占できなくて嫉妬しているんだ」と彼を引きずり戻せる確信を得る。
けれど、私の浅はかで傲慢な予想とは全く違う答えが彼の口から滑り出てきた。

「あの時、うちの娘も一緒にいたでしょ。
君が旦那さんと仲良く過ごしている姿と、ボクの隣にいる娘の姿を同時に見たときにね、……ボクは今まであの子のことを全然考えてあげられていなかったなって、すごく反省したんだ。
お互いに、守るべき家族がいるじゃないかって。」

奈良さんは優しく、けれど残酷なほどに冷静な目で私を見つめていた。
その瞳には、かつて私をアヘンのように欲して狂っていたあの熱情の欠片も見当たらない。

「ボクは確かに妻とは上手くいっていなくて、家では孤独で、寂しくなる瞬間がたくさんある。
でもね、娘はボクの血を分けた、たった一人の味方なんだ。
もちろん、宮本さんのこともボクにとっては既にかけがえのない、大切な人に分類されているよ。
でも、本当に守るべき人間は誰かって考えたら、やっぱり子供たちが一番だった。
君だってきっとそうだろ?
旦那さんは、君の隣にいるべき大切な家族だ。
あの時の仲良く並ぶ君の姿は幸せそうだった。
だから、お互いの家庭を壊すようなことはしちゃいけないなって、チャットにもボクの遠慮が入っていたんだよ。」

彼は自嘲気味に、少しだけ目元を緩める。
その表情は私を突き放しているというより、自分自身に言い聞かせて納得しているようだった。
 
「そう言いながらも、前に言ったように君はボクにとって最高の癒やしだからさ。
狡いよな。
どうしてもチャットを止めることは出来なかった。
未練でさ。」

そう言って、奈良さんはこの関係に自分の中で綺麗な区切りをつけ、完全に自己完結しようとしていた。
チャットという細い糸だけを残して、私の存在を安全な過去の思い出に追いやろうとしている。

本当に、息が止まりそうだった。
頭の芯がカッと熱くなり、視界が涙でみるみる歪んでいく。
彼が言っていることは、あまりにも正論だ。
非の打ち所がないほどに綺麗で、大人の分別に満ちている。
だからこそ、恐ろしかった。
このまま、彼の引いた「他人行儀な一線」の外側へ、私は思い出として放り出されてしまう。

「……。
止めるとか、言わないでください…。」

ポロポロと、堪えきれなくなった涙が頬を伝って溢れ落ちた。
必死に声を絞り出すけれど、か細く震えて掠れてしまう。
綺麗に別れようとしていた奈良さんが、私の突然の涙を見て「宮本さん?」と明らかに慌て始め、周囲を気にするように視線を泳がせた。

「私にとっても…、奈良さんは、もう日常に欠かすことが出来ない、大切な癒やしなんです。
お願いですから、やめるとか言わないで!」
「そうだとしてもね、宮本さん。
こうして二人きりで会うことは、やっぱりお互いの家庭を崩壊させるリスクがあるんだ。
今のような頻度で既婚の女性と男が二人きりで会っていたら、職場の人が見ても言い訳が出来ない。
もし、旦那さんが知ったら尚更だ。
ボクは、君が傷ついたり、悲しんだりする姿を見たくないんだよ。」

彼はどこまでも優しく、私のために身を引くような体裁を取り繕う。
けれど、その優しさこそが私を完全に切り捨てようとする冷徹な刃だった。
私を守るためという大義名分で、自分だけが綺麗な父親の顔に戻ろうとしている。
そんなの絶対に認められない。

「私にとって、奈良さんとの縁が切れてしまうことも、最大の悲しみです!!」

思わず感情のままに大きな声が出て、店内に響き渡ってしまった。
他にお客の姿はなかったけれど、カウンターの奥で食器を拭いていた店員が「痴話喧嘩か」と言わんばかりに、こちらをチラチラと不快な目で窺っている。
けれど、今の私にはそんな他人の目なんてどうでもよかった。
奈良さんを失う恐怖に比べたら、羞恥心なんて何の意味も持たない。

「宮本さん、落ち着いて。」

焦る奈良さんの表情。
かつて私が握っていたはずの主導権なんて、もうどこにも転がっていない。
 
「どうしたらいいんですか…。
私、もう分からなくなって。
だって、そうじゃないですか。
会うと危ないから急に関係そのものまでリセットするなんて。
会えない日だって、チャットではいつも通りやり取りできていたのに…。」

口を突いて出た自分の言葉が、頭の中で奇妙に反響する。
その瞬間、脳の奥でパチリと、何かが激しく閃いた。

「会う」という特別な行為を、今、私は失いかけている。
奈良さんは「人目」や「リスク」を恐れて、私と対面することを拒んだ。
だったら、「会わなければ」いいのだ。
 
その上で、チャットよりももっと強固で、もっと不可避で、彼の日常に食い込める行為があればいい。

私は、涙で濡れた目で奈良さんをまっすぐに見つめ、思いつくままに言葉をぶつけた。

「このまま、ご縁がなくなるなんて絶対に嫌です。それなら、以前のように毎朝モーニングコールで私を起こして貰えませんか?」
「え? モーニング、コール?」

予期せぬ私の提案に奈良さんは呆然と目を丸くした。

「そうです。
朝の、ほんの少しの時間だけでいいんです。
ただ、電話は難しいのでSMSでやりとりしましょう。
それなら誰に見られることもないし、どこかのお店に入るわけでもないからリスクだってありません。だから、朝一番の、最初の時間だけ、私に元気をください。
私を、急に捨てるようなことしないでください。」

それは、奈良さんが毎朝、布団の中で目覚めて最初に交わす言葉を私とのものにする、という執着の呪いだった。
彼の「朝」の意識を完全に独占する。
会うことすら拒もうとした彼の心の隙間に、より密室性の高い、誰にも見えない繋がりを滑り込ませたい。

私の必死の、けれどどこか狂気を孕んだその提案に、奈良さんは今度こそ完全に言葉を失い、席の向かいで息を呑んだまま、ただ固まっていた。