3-8.焦燥
画面に並ぶ、いつもの社内チャットの文字。
それをスクロールする私の指先は、ここ数日、奇妙な冷たさを帯びていた。
奈良さんとのやり取りは、相変わらず毎日続いている。
業務の合間に交わす他愛のない雑談、週末のゴルフの進捗、趣味で見に行った県北の滝についての話。
文字だけを見れば、これまでと何も変わらない、楽しげな日常の風景だ。
でも、何かが違う。
目に見えない、けれど確実にそこに存在する薄いガラスの一枚のような「違和感」が私たちの間にいつの間にか差し込まれている。
それは一日に交わすメッセージの数という、単純な数字だけの問題ではなかった。
言葉の選び方。
返信が来るまでの、ほんのわずかな時間。
そして何より、テキストから滲み出る「温度」が明らかに変わったのだ。
例えば、ほんの少し前まで私たちの間ではチャットでスタンプを多用して遊んでいた。
多種多様なスタンプで彼が送ってきた私に対する褒め言葉に「✕」をつけると、それに追っかけるように「2」とスタンプをつける。
見た目はスタンプが並び「✕2」となったのを見て、「これで2倍だねw」と意地悪をしてお互い楽しんだ。
ちょっとしたジョークにも2人の間に温かさがあった。
でも、最近はこれがない。
ほんの少し前まで、奈良さんは私という存在に飢えていたはずだ。
十三歳も年下の私から必要とされることに喜びを感じ、ボクには君しかいないと言わんばかりにこちらの顔色を窺い、全肯定してくれていた。
私が少し髪型を変えたと言えば『すごくよく似合うよ』と、こちらが気恥ずかしくなるほどの熱量で褒めちぎってくれたものだ。
あの真珠のイヤーカフを贈ってきたときの、ボクの手で君の耳元を独占したいという狂おしいほどの独占欲。
あれは確かに本物だった。
なのに、いまのチャットからはその「熱」が綺麗に消え失せている。
「それは良い!
じゃあ今日も練習、頑張ってね!」
「今日も仕事、お疲れ様。
最近連日だけど無理しないようにね。」
言葉は優しくて丁寧、かつ大人の男の包容力がある。
けれど、私には分かってしまう。
最近の奈良さんのには他人行儀な一線がある。
私を傷つけないように、けれど自分も傷つかないように安全な距離からこちらを眺めているような冷ややかな壁。
以前なら、私の何気ない一言に一喜一憂し、ハシゴを外されれば目に見えて狼狽えていたあの重度の中毒症状がまるで嘘のように影を潜めていた。
(なんで? どうしてなの?)
胸ポケットに差した、奈良さんから貰ったボールペンに触れる。
それを触っても、あの時感じた「無敵の幸福感」はもう湧き上がってこない。
代わりに、心臓を冷たい指でじわじわと握りつぶされるような強烈な焦りが私を支配し始めている。
何が原因なのか、いくら考えても分からなかった。
彼は私の慌てる姿すら愛おしいと言って、二人で幸せな時間を過ごしていたはずだ。
そのあとの日曜日、ゴルフ練習場のロビーで、彰将さんと一緒にいるところを偶然見られたのが悪かったのだろうか。
あのとき、私は彰将さんの隣でいつも通りの仲の良い夫婦だった。
そりゃそうだ、私たちは別に喧嘩したわけでもないし、私も彰将さんのことが嫌いになったわけではないのだから普段は仲良く出掛ける。
あれが奈良さんのプライドを傷つけたかな?
既婚者同士の現実を突きつけられて、彼が怖気付いたのだろうか。
それとも、私の知らないところで、彼の気を引くような別の環境の変化があった?
まさか、他に若い女の子でも?
そこまで考えて、私は自分の思考の醜さに吐き気がしたし、今の私にはどうでもよかった。
今、一番恐ろしいのはこのまま奈良さんの心が私の手の届かないところへ完全に離れていってしまうことだ。
もし彼がこのまま静かにフェードアウトして、私を必要としなくなったら?
私はどうなる?
あの退屈で、息の詰まるような日常の中で私は誰からも認められず、ただ消費されていくだけの存在に戻ってしまう。
それは耐えられない。
寂しくて、恐ろしくて、そんなの絶対に嫌だ。
気がつくと、私はオフィスを出て、誰もいない非常階段の踊り場へと駆け込んでいた。
息が荒い。
スマホを握る手が、情けないほどに震えている。
いつもなら、絶対に自分からこんな無粋な真似はしない。
「追われる側」のスタンスを崩さず、あざとく純粋な友人を演じて、彼から動くのを待つのが私の鉄則だった。
主導権を握り、彼をコントロールすることこそがこの精神的不倫の絶対条件だったはずだ。
でも、そんなルールはもうどうでもいい。
そもそも、私が偉そうに主導権だのコントロールだのと言える立場じゃなかったのだ。
私が奈良さんと一緒にいたい、もっと話したい、あの熱い視線で私だけを見つめてほしい。その強烈な気持ちこそがすべての前提だったんじゃないか。
会えなくなったり、他人になられてしまうことに比べたら、プライドなんてゴミ屑と同じだ。確認しなくちゃ。
彼の本心を、今すぐこの耳で。
なりふり構っている時じゃない。
もし、彼の心が本当に徐々に離れていっているのだとしたら、それを引き留め、補うための「何か」を今すぐに始めなければ、私は本当に壊れてしまう。
私は通話ボタンを押した。
数回のコール音の後、静寂を破って彼の声が響く。
「もしもし、宮本さん?
何かあった?」
驚きを隠せない、少し困惑したような奈良さんの声。
その声を聞いた瞬間、私の目から自覚も戻らないまま熱い涙が溢れそうになった。
あざとい計算も、可愛らしい後輩の仮面も、すべてが剥ぎ取られていく。
「奈良さん……」
私は自分の声が情けないほどに震えているのを止められなかった。
「どうしても。
どうしても、今すぐ奈良さんに会ってお話したいことがあるんです。
駄目ですか?」
受話器の向こうで、奈良さんが息を呑む音が聞こえた。
画面に並ぶ、いつもの社内チャットの文字。
それをスクロールする私の指先は、ここ数日、奇妙な冷たさを帯びていた。
奈良さんとのやり取りは、相変わらず毎日続いている。
業務の合間に交わす他愛のない雑談、週末のゴルフの進捗、趣味で見に行った県北の滝についての話。
文字だけを見れば、これまでと何も変わらない、楽しげな日常の風景だ。
でも、何かが違う。
目に見えない、けれど確実にそこに存在する薄いガラスの一枚のような「違和感」が私たちの間にいつの間にか差し込まれている。
それは一日に交わすメッセージの数という、単純な数字だけの問題ではなかった。
言葉の選び方。
返信が来るまでの、ほんのわずかな時間。
そして何より、テキストから滲み出る「温度」が明らかに変わったのだ。
例えば、ほんの少し前まで私たちの間ではチャットでスタンプを多用して遊んでいた。
多種多様なスタンプで彼が送ってきた私に対する褒め言葉に「✕」をつけると、それに追っかけるように「2」とスタンプをつける。
見た目はスタンプが並び「✕2」となったのを見て、「これで2倍だねw」と意地悪をしてお互い楽しんだ。
ちょっとしたジョークにも2人の間に温かさがあった。
でも、最近はこれがない。
ほんの少し前まで、奈良さんは私という存在に飢えていたはずだ。
十三歳も年下の私から必要とされることに喜びを感じ、ボクには君しかいないと言わんばかりにこちらの顔色を窺い、全肯定してくれていた。
私が少し髪型を変えたと言えば『すごくよく似合うよ』と、こちらが気恥ずかしくなるほどの熱量で褒めちぎってくれたものだ。
あの真珠のイヤーカフを贈ってきたときの、ボクの手で君の耳元を独占したいという狂おしいほどの独占欲。
あれは確かに本物だった。
なのに、いまのチャットからはその「熱」が綺麗に消え失せている。
「それは良い!
じゃあ今日も練習、頑張ってね!」
「今日も仕事、お疲れ様。
最近連日だけど無理しないようにね。」
言葉は優しくて丁寧、かつ大人の男の包容力がある。
けれど、私には分かってしまう。
最近の奈良さんのには他人行儀な一線がある。
私を傷つけないように、けれど自分も傷つかないように安全な距離からこちらを眺めているような冷ややかな壁。
以前なら、私の何気ない一言に一喜一憂し、ハシゴを外されれば目に見えて狼狽えていたあの重度の中毒症状がまるで嘘のように影を潜めていた。
(なんで? どうしてなの?)
胸ポケットに差した、奈良さんから貰ったボールペンに触れる。
それを触っても、あの時感じた「無敵の幸福感」はもう湧き上がってこない。
代わりに、心臓を冷たい指でじわじわと握りつぶされるような強烈な焦りが私を支配し始めている。
何が原因なのか、いくら考えても分からなかった。
彼は私の慌てる姿すら愛おしいと言って、二人で幸せな時間を過ごしていたはずだ。
そのあとの日曜日、ゴルフ練習場のロビーで、彰将さんと一緒にいるところを偶然見られたのが悪かったのだろうか。
あのとき、私は彰将さんの隣でいつも通りの仲の良い夫婦だった。
そりゃそうだ、私たちは別に喧嘩したわけでもないし、私も彰将さんのことが嫌いになったわけではないのだから普段は仲良く出掛ける。
あれが奈良さんのプライドを傷つけたかな?
既婚者同士の現実を突きつけられて、彼が怖気付いたのだろうか。
それとも、私の知らないところで、彼の気を引くような別の環境の変化があった?
まさか、他に若い女の子でも?
そこまで考えて、私は自分の思考の醜さに吐き気がしたし、今の私にはどうでもよかった。
今、一番恐ろしいのはこのまま奈良さんの心が私の手の届かないところへ完全に離れていってしまうことだ。
もし彼がこのまま静かにフェードアウトして、私を必要としなくなったら?
私はどうなる?
あの退屈で、息の詰まるような日常の中で私は誰からも認められず、ただ消費されていくだけの存在に戻ってしまう。
それは耐えられない。
寂しくて、恐ろしくて、そんなの絶対に嫌だ。
気がつくと、私はオフィスを出て、誰もいない非常階段の踊り場へと駆け込んでいた。
息が荒い。
スマホを握る手が、情けないほどに震えている。
いつもなら、絶対に自分からこんな無粋な真似はしない。
「追われる側」のスタンスを崩さず、あざとく純粋な友人を演じて、彼から動くのを待つのが私の鉄則だった。
主導権を握り、彼をコントロールすることこそがこの精神的不倫の絶対条件だったはずだ。
でも、そんなルールはもうどうでもいい。
そもそも、私が偉そうに主導権だのコントロールだのと言える立場じゃなかったのだ。
私が奈良さんと一緒にいたい、もっと話したい、あの熱い視線で私だけを見つめてほしい。その強烈な気持ちこそがすべての前提だったんじゃないか。
会えなくなったり、他人になられてしまうことに比べたら、プライドなんてゴミ屑と同じだ。確認しなくちゃ。
彼の本心を、今すぐこの耳で。
なりふり構っている時じゃない。
もし、彼の心が本当に徐々に離れていっているのだとしたら、それを引き留め、補うための「何か」を今すぐに始めなければ、私は本当に壊れてしまう。
私は通話ボタンを押した。
数回のコール音の後、静寂を破って彼の声が響く。
「もしもし、宮本さん?
何かあった?」
驚きを隠せない、少し困惑したような奈良さんの声。
その声を聞いた瞬間、私の目から自覚も戻らないまま熱い涙が溢れそうになった。
あざとい計算も、可愛らしい後輩の仮面も、すべてが剥ぎ取られていく。
「奈良さん……」
私は自分の声が情けないほどに震えているのを止められなかった。
「どうしても。
どうしても、今すぐ奈良さんに会ってお話したいことがあるんです。
駄目ですか?」
受話器の向こうで、奈良さんが息を呑む音が聞こえた。
