朝の徒花

3-7.灯台もと暗し

九月に入ってからの日曜日。
まだまだ猛烈な暑さが続き、夏の終わりがまだ先だと知らせるように朝からどこか蒸し暑さい風が吹いていた。
午前中、十一歳になる娘・ひかりの塾の送迎を終えたボクは、午後からリビングのローテーブルに将棋盤を広げていた。
外はまだ日差しが強いが、クーラーの効いた室内は静まり返っている。

パチリ、とひかりが少し迷った末に小さな手で歩を前に進めた。

「うーん、そこに来るか。
じゃあ、パパは角をこっちに…。」

ボクが指先で駒を動かすと、ひかりは「あ、しまった」と小さく舌を出した。
おもむろにふっと顔を上げてボクの顔を覗き込む。

「ねえパパ、最近なんか楽しそうだね。」

娘の無邪気な一言に、ボクの指先が一瞬だけ凍りついた。

「そうか?
ひかりがこうやって休日にパパの相手をしてくれるからかな。」

照れ隠しにそう笑いながら、ボクは心臓が嫌な高鳴りを見せるのを必死に抑える。
「楽しそう」、娘にそう見えているのだとしたら理由は分かっていた。
宮本さんから必要とされ、十三歳も年下の美しい女性から男としての承認を得られているという恍惚感が、ボクの表情や雰囲気に滲み出てしまっていたのだろう。
家庭では妻から男として拒絶され、お風呂のお湯すら残されないような鬱屈とした日々の中で、穂花さんはボクにとっての唯一の救いになっていた。

そんなボクの胸中など知る由もないひかりは、少し首を傾げてから部屋の隅に置かれた真新しいゴルフバッグに目を向けた。

「ゴルフって、そんなに楽しいの?」
「思ったよりね。」

ボクは話の矛先が少し変わったことにホッとして、盤面に視線を戻しながら言葉を続けた。

「最初は空振りも多いし、全然真っ直ぐ飛ばなくて下手くそなんだけどさ。
何度も練習してクラブの芯にボールが当たったとき、すごく気持ちいい音がするんだよ。
バッティングセンターでホームランの的に当たったときみたいなもんかな。
スカッとするんだ。」
「へえー。
…ねえ、私も行ってみたいな、ゴルフ。
パパ、連れてってよ。」


ひかりの言葉がボクの胸の奥の一番柔らかい部分にじわじわと温かく染み込んでいくのが分かった。
小学校高学年になり反抗期に差し掛かった娘。
最近では母親の味方ばかりして、ボクがリビングにいても会話らしい会話もしてくれなくなっていた。
お小遣いをあげるときだけ声をかけてくるようなそんな距離感だった娘がいま、自分からボクの世界に歩み寄ろうとしてくれている。
それがただただ純粋に嬉しかった。

「いいね、行こうか。
じゃあ、今夜さっそく行ってみる?
夜の練習場なら涼しくて気持ちいいし、空いてるから。」
「やった! 行く行く!」

ひかりは子供のように声を弾ませて喜んだ。
その笑顔を見て、ボクは胸のすくような充実感を覚えていた。

そして、その日の夜。
ボクはひかりを助手席に乗せて、いつものゴルフ練習場へと向かう。
まだ始めて三ヶ月のボクが完全な初心者の娘に教えるのだから、お世辞にも立派なレッスンとは言えなかった。

「ひかり、まずは足を肩幅に開いて。
そうそうクラブはね、こうやって左手の親指を包み込むように握るんだ。」
「えー、なんか不自然。
これで合ってるの?」
「最初はみんなそう思うんだよ。
ほら、一回振ってみて。」

ブン、と小さな音を立ててひかりがクラブを振るが、ボールの手前の人工芝を派手に叩くだけで球はピクリとも動かない。

「もー、難しいな!
全然当たんないじゃん、パパ!」
「力が入ってるんだよ。
もっとリラックスして。」

空振りを連発するたびにひかりは顔を赤くして笑い、ボクもそれにつられて声をあげて笑った。
周囲の打席の迷惑にならないよう静かに、けれど二人だけの空間で不器用にもたつくだけの時間が流れていく。
気づけば、それぞれ九十球ずつの割り当てを夢中で打ち終えていた。
ひかりの額にはうっすらと汗が浮かび、心地よい疲労感がボクたちの体を包む。

「楽しかったね、パパ。
私、次は絶対に前に飛ばすからね。」
「ああ、また来週末にでも来ような。
筋がいいから、すぐ上手くなるよ。」

ひかりの少し汗ばんだ頭を、ボクは愛おしさを込めてぽんぽんと軽く撫でる。
そのまま自動販売機でジュースを買い、フロントのある明るいロビーへと戻ってきた。
外に通じる玄関ドアへ向かって歩き出そうとした、まさにその時だった。

「あっ、お疲れ様です。」

すぐ右手の方から、鈴の鳴るような、けれど今のボクにとっては甘い音色のような、聞き覚えのある声が響いた。
声のした方を振り返ると、そこに白いポロシャツにネイビーのスカートを穿いた可愛らしい姿の宮本さんが立っていた。

そして、そのすぐ隣には一人の男がいた。
少し背を丸め、地味な印象の、けれどどこか冷ややかな視線をこちらに向けている男。
宮本さんの旦那さんだろう。

全身の血が、一瞬で足元へ向かって引いていくのが分かった。
あまりの緊迫感に、喉の奥がカラカラに乾く。

「あ、お疲れ様。」

ボクは不自然に声が裏返ったり、動揺が顔に出たりしないよう、細心の注意を払いながら短く会釈をした。
それ以上の言葉を交わすのは危険だと、本能が告げる。
不自然にならない程度の速度を保ちながら、ボクはひかりの肩を引き寄せるようにして足早に二人の前を通り過ぎた。

話しかけない方がいい。
早く帰らなければ。

ドアのガラス越しに、すれ違いざまの二人の後ろ姿が逆光の中に浮かび上がっていた。
旦那さんが、穂花さんの重そうなゴルフバッグをごく自然に持ってあげ、穂花さんはその隣で、小首をかしげて楽しそうに彼に微笑みかけてる。
仲が悪そうには、到底見えなかった。


休日の夜、夫婦揃って同じ趣味を楽しみ、仲良く出掛けている。
そんな、世間一般の絵に描いたような健全な夫婦の光景がそこにはあった。
それを見せつけられた瞬間、ボクの頭の中を占めていた甘い霧が一気に吹き飛ばされた。

やっぱり、彼女にも「家庭」があるんだ。

いくら彼女がボクを必要とし、会社携帯で毎夕長電話を重ね、真珠のイヤーカフを喜んでバッグに仕舞ってくれたとしても、彼女が最後に帰っていくのはあの男の待つ家なのだ。
ボクがどれだけ熱を上げようとも、ボクは彼女の人生のパートナーにはなれない。
ただの、都合のいい遊び相手に過ぎないのだという現実を、最悪の形で再認識させられた気がした。

「パパ、今の人、すごく綺麗な人だね。
会社の人?」

駐車場へ向かう薄暗い歩道でひかりがボクのポロシャツの袖を小さく引っ張りながら聞いてきた。

「うん、そうだよ。
会社の後輩。」

なるべく平静を装って、優しい父親の声を作って答える。
そして、隣を歩く娘の小さな手をそっと見つめた。

ボクは何を血迷っていたのだろう。
家庭に居場所がないと嘆き、妻から男として扱われない寂しさを言い訳にして、十三歳も年下の女性との「精神的不倫」という熱病に浮かされすぎていた。
被害者ぶって、自分の寂しさばかりを埋めようとしていたけれど、ボクにはこんなにも愛おしく、ボクを「パパ」と呼んで慕ってくれる娘がいるじゃないか。

宮本さんも今のボクにとっては日常を彩ってくれる、失いたくない大切な人だ。
それは間違いない。
けれど、このひかりはボクの人生そのものであり、何にも代えがたい本当の宝物だ。
妻との冷え切った関係がどうなろうと、ボクが守るべき家族は、愛すべき娘は、ちゃんとここにいる。

(冷静になれ。
ボクは、この子の父親なんだ。)

夜の駐車場の冷たい空気を深く胸いっぱいに吸い込み、頭の芯を冷やすように、ボクは自分自身に強く言い聞かせた。
熱に浮かされた長い夢から、ようやく覚めるように。
ボクは隣を歩くひかりの小さな手を、今度はしっかりと、強く握りしめた。
その温もりが、今のボクを現実の世界に繋ぎ止めてくれた唯一の灯台に思えた。