朝の徒花

3-6.独占欲

「彰将さん、今日は奈良さんとゴルフの打ちっぱなしに行ったあと、駅前のイタリアンで軽く食事して帰るね。
少し遅くなるかもしれないけど、先に寝てていいから。」

玄関で靴を履きながら、穂花は振り返って弾むような笑みを浮かべた。
今日も彼女は信じられないほど上機嫌だ。
こんな日の穂花は俺に対しても普段の三倍は優しい。
まるで「私はあなたに何も隠していませんよ」とやましいことがないのを宣言するかのように、一緒に行く相手も、場所も、すべて事前に細かく報告してくる。

彼女はこうして報告さえすればすべてが許されると思っているのだろうか。
違う、そうじゃない。
俺にとって、本当の誠意は報告することなんかじゃない。
その男と「一度も行かないでいてくれること」だけだ。

けれど、俺にはそれを口に出す資格がない。
以前、「月一回の飲み」をルールとして認めてしまったのは俺自身だ。
あの夜、穂花に何一つ言い返せなかった不甲斐なさがいまも胸の奥でドロドロと燻っている。
心が離れかけている今、これ以上彼女を束縛して怒らせたらそれが決定打になって離婚を切り出されてしまうかも。
そうなったら、もう目も当てられない。
俺には穂花しかいないんだ。
彼女を失ったら、俺の人生には何も残らない。

だから俺は笑顔で「いってらっしゃい、楽しんでね」と送り出すしかなかった。

パタン、と静かにドアが閉まる。
静まり返ったリビングで俺は自分のスマホを握りしめた。

分かっている。
穂花は「セカンドパートナー」がゴールだと思っている節がある。
法律的にも肉体関係がない不倫は不貞行為として立証しづらい。
だからこそ俺は法律を猛勉強し、備えていた。
だが、それ以上に俺の心を蝕んでいたのは激しい不安だ。
本当に彼女の言葉に嘘はないのか。
裏で俺を裏切り、ホテルにでも入っているんじゃないか。

その不安を解消するために、俺は数日前、穂花のスマホにある設定を施した。
見守りモードという子供用の防犯アプリを彼女の端末設定で『ON』にしたのだ。
本来は迷子を探したり、子供の現在地を親が把握したりするためのGPSアプリ。

これさえあれば、俺のスマホの画面から穂花が今どこにいるのかがリアルタイムで完全に把握できる。

ポケットからスマホを取り出し、専用の画面を立ち上げる。
暗い液晶画面にこの街の地図が浮かび上がる。地図の中央で小さな足跡のアイコンがゆっくりと移動を始めた。

十九時すぎ。
アイコンは彼女が宣言していた通りのゴルフ練習場を示した。

二十時半。
トラブルがあったのか、アイコンはしばらくその場所に留まり続けた。
二十一時。
ようやく動き出した足跡は駅前の彼女が言っていたイタリアンの場所できちんと停止した。

「嘘は、ついていない。」

ソファーに深く腰掛け、俺は小さく息を吐き出した。
画面の中のアイコンは穂花の言葉と完全に一致している。
彼女は本当に、ただの「歳の離れた友人」として、健全な食事をしているだけ。
ホテルにも行っていないし、怪しい場所にも立ち寄っていない。

一先ず、安心だ。
嘘がないと分かった瞬間、胸を締め付けていたあの消え入りそうな不安はすっと引いていった。

しかし。
不安が消えた代わりに、今度は全く別のどす黒い感情がにわかに湧き上がってくるのを自覚した。

画面の中でじっと静止している穂花の現在地を示すアイコン。
それを見つめていると安心するどころか、脳の奥がチリチリとしびれるような奇妙な全能感に満たされていく。
俺はいま、妻のすべてを握っている。
彼女がどの店で、誰と、どんな時間を過ごしているのか、この手の中の小さな画面がすべてを教えてくれる。

(今、どんな顔をして笑っているんだろう。
その男とどんな会話をしているんだろう。)

嘘がないと分かったはずなのに、満たされるどころか、渇きはさらに激しくなっていく。
「もっと、もっと知りたい」という欲求のブレーキがまるで壊れたようだ。

所在確認のアイコンを指先でそっとなぞる。
何時に店を出る?
帰りのルートは?
明日はどこへ行く?
穂花、俺だけの穂花でいてくれよ。
ボロは出すなよ?

最初の好奇心はいつの間にか、歪んだ独占欲として何倍にも増幅されていった。