朝の徒花

3-5.妄執

「奈良さん、すみません。
今日私から誘っときながら行けないかもしれません。」

スマートフォンの向こうで、奈良さんが明らかに動揺し、それを必死に隠そうとしているのが手に取るように分かった。
嘘はついていない。
母の体調が悪いのも、父が不在なのも本当のこと。
ただ、私が「今日行きたい気分」と彼を誘ったのは計算だった。

日曜日に彰将さんと行ったゴルフ練習場。
110ヤード飛ばせた歓びを、真っ先に奈良さんに報告したいと思った。
そのとき、私は思いつく。
家庭を持つ男の、独占欲という名の嫉妬。
それをここで煽ることは出来ないだろうか?
例えば、自分から誘っておきながら直前でハシゴを外す。

これだ。

手に入りそうで手に入らない。
彼の心を焦らし、渇かせ、私という存在への飢餓感を骨の髄まで植え付ける。
すべては、この精神的不倫の主導権を私が握り続けるための甘い罠。

だから、私はこのお断りの言葉を本音では今日も行きたいが、明日がもっと良くなるならと我慢して言ったのだった。

「それなら仕方ないよ、ゴルフは逃げないからまた次の機会に行こうね。
その時に君の110ヤードを楽しみにしているよ!」

物分かりの良い紳士を演じる彼。
きっと心で残念がっているだろう。
肩を落としている姿が目に浮かぶ。

チャットのやり取りが映る画面を見ながら私は自分の唇をそっと指でなぞる。
どうやったら上手くいくか。
いやそうではない。
もう、彼は私の手から逃げられないのだ。

翌日、私は彼に「もう一度チャンスをください」と、いじらしい後輩として社内チャットを送った。
約束の時間は仕事終わり十九時。
作戦通り、今日は私という餌で彼の飢餓感を満たしてあげよう。
…そう思っていた。

なのに、イレギュラーだ。
十七時を過ぎた頃、予期せぬシステムトラブルが発生した。
月初処理として、今日中に請求と支払の処理を済まさなければならないのに十八時半の時刻はあっけなく過ぎ去っていった。

(最悪…。)

デスクでキーボードを叩きながら、私は焦燥感に駆られていた。
さすがに二日連続で約束を反故にするのは、いくら飢餓感を煽るためとはいえ、不誠実がすぎて彼に見限られるリスクがある。
私は冷や汗をかきながら、慌てて彼にメッセージを送った。

「奈良さん、本当にすみません。
仕事でトラブルが起きてしまって、今からだと確実に遅刻します…。
ごめんなさい、約束を破ってばかりで、遅刻までして、本当に私、最低です…。」

送信ボタンを押したあと、胸が苦しかった。
完璧にコントロールしていたはずのゲームの盤面が、自分のせいで汚されてしまったような気がしたからだ。
彼を怒らせただろうか。
呆れられただろうか。

数分後、返ってきたのは、私の予想を遥かに超える温かい言葉だった。

「大丈夫。
それよりも、焦って事故とかに遭わないようにね。
仕事が片付いてから、ゆっくり来たらいいから。」

画面を見つめたまま、私は小さく息を吐き出した。
なんて優しい人なのだろう。
彰将さんなら、私が遅くなると連絡すれば「ふーん、何時に帰るの」と冷ややかに返すか、あるいは「なんのトラブル?」と探りを入れてくるに違いない。
それに比べて、奈良さんはどこまでも私を気遣い、全肯定してくれる。

結局、私が私服に着替えてゴルフ練習場に滑り込んだのは、約束の時間を一時間半も過ぎた、二十時半だった。

息を切らせ、バッグを抱えて打席エリアへ向かう。
夜の澄んだ空気の中に、カキーンと高い打球音が響いていた。
その中に、見覚えのある広い背中を見つける。

「奈良さん…!
本当に、本当にごめんなさい!」

駆け寄って頭を下げる私に、奈良さんは振り返り、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。怒りの色なんて、微塵もなかった。

「待ってないよ。
ほら、ウォーミングアップしてたんだ。
ちょうど体が温まってきたところ。」

彼は自分のドライバーをポンポンと叩きながら、ニコニコと微笑んでいる。
一時間半も放置されたというのに、その表情には微塵のトゲもない。
それどころか、私を迎え入れた彼の瞳には、熱を帯びた歓びが満ち満ちていた。

「ボクね、待つことは苦じゃないんだ。
むしろ、楽しみなんだよ。」
「え…?」
「遅刻は美人の特権なんて言うけど、男は待たされてこそ本望なのかも。
君が今頃、ボクのために慌ててこちらに向かってくれている姿を想像しながら待っているのって、なんだかすごく愛おしい時間だからさ」

彼の口から滑り出た言葉に、私は一瞬、ゾクリとしたものを感じた。
それは、純粋な優しさというよりは、私を待ち焦がれる時間をすら自分の快楽に変換してしまうような、重く、深い執着の色だった。
私の焦りや困惑すらも、彼にとっては自分を求める証拠に見えているのだ。

けれど、そのゾクゾク感こそが、私の心を満たしていく。
私のために一時間半も待ち続け、私が慌てる姿を想像して悦んでいる男が、いま目の前にいる。
彼をここまで狂わせたのは、私だ。

「もう…、奈良さんって本当に意地悪ですね。」

私はあざとく拗ねたように唇を尖らせ、カバンから例の「真珠のイヤーカフ」を取り出して、彼の目の前で自分の耳元に飾った。
髪を耳にかけ、彼に見せる。

「遅れたお詫びに、一番いいスイングを見せてあげます。」

奈良さんは終始笑顔だった。
夜の練習場、人工芝のグリーンの上で、私たちは二人だけの濃厚で幸せな時間を貪りあう。
この精神の繋がりこそが至高であり、誰にも邪魔できない聖域なのだと、私は確信していた。