朝の徒花

3-4.渇望

昨日、真珠のイヤーカフを受け取ったときの、彼女の少しはにかんだような、けれど息を呑むほどに美しい横顔が、朝になっても頭から離れずにいた。
ボクは十三歳も年下の彼女に、間違いなく男として求められている。
家庭で擦り切れた承認欲求が、穂花さんという甘いアヘンによって、じわじわと満たされていくのを感じていた。

社内チャットの画面に通知が入ったのは、午前九時を回った頃だった。
画面に表示された彼女の名前を見ただけで、胸がトクンと跳ねる。

「おはようございます!
奈良さん、自慢させてください。
昨日打ちっぱなしにいったら110ヤード飛ばせたんです!
早く奈良さんに言いたかった私を褒めてください。」

思わず口元が緩むのを抑えきれなかった。
オフィスで周囲に悟られないよう、ボクはうつむき加減で画面を見つめる。
「早くボクに言いたかった」というその一言が、たまらなく愛おしい。
小さな子供が宝物を見せてくれるような純粋さで、ボクを頼ってくれている。

「凄いじゃん、一人で自主練までしているのか。
ボクもうかうかしてられないな。」

おじさん臭くならないよう、けれど精一杯の優しさと賞賛を込めて指を動かす。
彼女からはすぐに返信がきた。

「違いますよ、旦那さんと一緒です。
旦那さんは大袈裟で、あれは120飛んだなって言いましたが絶対に110でしたw
なんか今日は行きたい気分なので帰りに打ちっぱなし行きませんか?」

画面を見つめたまま、ボクの指先が凍りついた。
胸の奥を、細い針でチクリと刺されたような痛みが走る。

旦那さんと一緒。
そうだ、当たり前じゃないか。
彼女は既婚者で、あの家には夫がいる。
週末、ボクが家庭で一人、冷え切った風呂の残り湯を眺めて孤独に耐えていた時間、彼女は夫と二人でゴルフ練習場で笑い合っていたのだ。ボクがどれだけ彼女を想い、出張先で狂おしいほどの飢餓感に身を焦がしていようとも、彼女の日常には「公式な男」が厳然として存在する。
突きつけられた現実の冷たさに、めまいがしそうだった。

しかし、その痛みを打ち消すように、続く言葉がボクを浮上させる。

「帰りに打ちっぱなし行きませんか?」

日曜日は夫に捧げても、週が明ければボクに会いたがってくれている。
胸のモヤモヤを強引に振り払い、ボクは急いで文字を打ち込んだ。

「ボクも負けてられないな。
ぜひ行こう。」

夕方が待ち遠しくてたまらなくなった。
ボクはすぐに妻へメッセージを送る。

「今日、同僚と急にゴルフの練習に行くことになったから、夕飯はいらないよ。」

いつもなら嘘をつく罪悪感があるはずなのに、今は穂花さんに会える歓びが勝っている。
妻からはすぐに既読がつき、素っ気ない了解のスタンプだけが返ってきた。
いつものことだ。
ボクの予定に関心などないのだろう。
それでも構わない、今日のボクには穂花さんがいる。

だが、その浮ついた足元は、昼休憩の時間にあっけなく崩れ去った。
社内チャットに、彼女からのメッセージが入る。

「奈良さん、すみません。
今日私から誘っときながら行けないかもしれません。」

思わぬキャンセル連絡に数秒ほど完全に思考が停止してしまう。
「行けないかもしれない」とはどういうことだろう?
まずは何があったのかを聞いてみることにした。

「どうしたの?」
「それが、母の体調が良くないみたいで、一緒にいてやってくれないかと父から連絡がありました。
父は今日不在のようで、兄も近くに住んでいないので私に。」

これは仕方ない、家族のことだから。
でも、頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
連日、彼女のことで頭がいっぱいになり、今日も会えると思ってこれほど浮かれていたのに。
まるで梯子を外されたような、激しい落胆が押し寄せる。
だが、ここで取り乱しては、彼女に「余裕のない男」だと思われてしまう。
十三歳も年上の男として、物分かりの良い、包容力のある「友人」でいなければ嫌われてしまうかもしれない。
ボクは必死で落胆を噛み殺し、大人の男として仮面を被った。

「それなら仕方ないよ、ゴルフは逃げないからまた次の機会に行こうね。
その時に君の110ヤードを楽しみにしているよ!」

精一杯の優しさを絞り出したメッセージ。
彼女からは「本当にすみません、次回ぜひ」と、申し訳なさそうな返信が来た。
仕方のない事情だ。
彼女を責める理由なんてどこにもない。
そう自分に言い聞かせても、寂しさは広がるばかりだった。

手持ち無沙汰になったボクは、妻に再度メッセージを送った。

「予定がキャンセルになったから、やっぱり真っ直ぐ帰るね。」

数分後、スマホが震える。

「そうなの?
今日は子供たちを連れて実家で食事することにしちゃった。
うちの親も孫見たさに喜んでいたから行かないと。
ご飯は食べて帰って欲しいな。」

その文字を読んだ瞬間、悲しい感情がにわかに湧き上がってきた。
ご飯は食べて帰って欲しい。
つまり、ボクの分の夕飯は用意していないから、実家に来られても困る、ということなのだろうか。
まだ昼なのに?
妻の実家は、私たちの家から決して遠くない。車で15分ほどの距離だ。
その実家に何時に行くのかは知らない。
けれど、ボクだってその家族のであり、妻にとって「夫」のはずだ。

「だったら、ボクも夕方合流するとかして、みんなでご飯を食べちゃダメだったのか?」

なぜ、最初からボクを排除した予定が組まれているのだろう。
なぜ、ボクは自分の家に帰るだけで、まるで邪魔者のように扱われなければならないのか。

ボクの居場所だけが、ぽっかりと空白のまま切り取られているようだった。
強烈な寂しさと、家庭へのモヤモヤとした疑念が、ボクの心をじわじわと蝕んでいく。
そんな惨めな想いを振り払うように、ボクは深く、長い溜息をついた。

だからだろう。
早く宮本さんの笑顔が見たい、そればかりを考えていた。